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皆殺しの天使とお人好し作家#2
「……坂木さん。遺産の件は、また考えておいてください。今日はもう一つ、ご相談したいことがあって来ました」
「相談したいこと……?」
ポロシャツの裾で涙を拭いながら繰り返すと、村瀬はスーツの内ポケットから封筒を取り出した。すっと坂木の前に置く。
「これは?」
「母が生前、おれに宛てた手紙です」
封筒を手にし、便箋を取りだす村瀬。三枚あるうちの三枚目までめくり、差し出した。
「読んでください。ここ」
老眼なのでなかなかピントが合わない。なんとか手紙を読む。
「……それから、もし、万が一にでもわたしの身になにかあったら、清路は倫太郎といっしょに住んであげてね。あの人、すごくすごく寂しがり屋だから。お願いね」
麻里亜の直筆の字……。それだけで胸がいっぱいだが、その内容。
手紙から顔を上げ、目を瞬く。
「きみとおれがいっしょに住むことを希望してたのか? 麻里亜が?」
「ええ」
手紙を畳みながら、村瀬はギリシャ彫刻のような顔でうなずいた。
「自分になにかあったら、あなたが寂しがるだろうからいっしょに住んであげてほしい、と」
「え、いや、いきなりそんなこと言われても……。おれ、寂しくないよ。大丈夫だよ」
「さっきあんなに泣いていたじゃないですか」
「いや、あれはその」
「おれも寂しいんです。あまりに早い、予期しない別れでしたから」
ぽつりとつぶやいた村瀬の横顔を、坂木は思わず見つめた。
そうか。寂しいよな。この子も。
「あのさ……村瀬さんは、今何歳?」
「二十七です」
「じゃあ、麻里亜が二十歳のときの子どもだったんだな。おれ、四十六歳なんだ。お父さん、にはなれないけど、さ……」
なんでこんなこと口走ってるんだろう。我ながら不思議だった。
食い入るように見つめてくる茶色の瞳。坂木は目を反らした。
「いや、その。いっしょに暮らすって、大変だよな。しかも、会ったばかりの人と暮らすなんてよけい大変だ。ゴミ出しの順番とか決めなきゃいけないし、料理の分担とか。それに、ほら、いろいろと面倒もあるかもしれないし……」
口を真一文字に結び、坂木を見つめる村瀬。表情のない顔の口元に、うっすらと笑みが浮かんだ。
「……じゃあ、これも考えていてください。よろしくお願いします」
頭を下げる。清潔なつむじが、なぜか脳裏に焼き付いた。
「う、うん。わかった。ありがとう」
村瀬はまた自分の座っていた場所に戻ると、もう一度頭を下げ、腰を上げた。
来たときと同じように静かに、姿勢よく、青年は帰っていった。
手つかずの羊羹。ラップをしながら、亡くなった妻に思いをはせる。
遺産に関しては遺言はなかったそうだけど、あの手紙は、まあ言ってみれば遺言だよな。麻里亜は息子さんとおれに、いっしょに住んでほしかったんだな。だったら生きてるときに引き合わせてくれたらよかったのに。
むりだよ。だって、他人だろ? むりだよ。
台所の椅子に腰を下ろし、煙草を吸う。メンソールを効かせた煙草で、吸うと少し気持ちが楽になる。
「それとも麻里亜は、おれと村瀬さんにいっしょに住んでほしい? どうかな?」
虚空に向かって、妻の名前をつぶやいた。豊かに波打つ長い髪。そばかすの浮いた肌。大きな灰色の瞳。豊かな胸やくびれた腰のことも思いだす。
胸の中の麻里亜が笑って、「お願いね」と言った。
「あの人、すごくすごく寂しがり屋だから」
換気扇に向かって紫煙を吐く。
「……たしかに、おれは寂しがり屋だよ。麻里亜」
椅子の背に広く大きな背中をあずけ、ぼんやりと虚空を見た。
「……村瀬さんも、寂しがってるのかな。そうだよな。たった一人のお母さんが亡くなって、父親は行方不明だもんな。一人っ子だそうだし、まだ二十七歳だし。……そうだな。なあ、麻里亜。電話してみる」
椅子から立ちあがり、テーブルに置いたスマートフォンを手に取った。
そして一週間後の八月十日、土曜日。
村瀬が引っ越してきた。
黒のバックパックを背負い、ボストンバッグをひとつ持って、原付で。
原付から降りると、玄関の前でヘルメットを脱ぎ、ぺこりと頭を下げた。
「よろしくお願いします、坂木さん」
「ん、よろしく。あがって」
ボストンバッグを受けとる。ずっしりと重い。
坂木の自宅は、築四十五年の家を買い取ってリフォームしたものだ。広い玄関をあがると、右手に階段、左手に座敷がある。奥がキッチンと風呂場、トイレ。二階が坂木の書斎と寝室、そして麻里亜の部屋があった。それに、もう一部屋。倉庫になっている部屋だ。
その部屋に、坂木は麻里亜の私物を移動させた。だが、急に移動させると、亡くなったという現実を痛烈に意識せざるを得なくなる。麻里亜はもういない。この部屋を使うことはない。それが怖くて、寂しくて、完全にすべてを倉庫に移すことはできなかった。
麻里亜の部屋に案内し、坂木はぼそぼそとつぶやいた。
「ごめん、お母さんの私物がまだ残ってるけど」
ロールトップのデスクや、ドレッサー。造りつけのクローゼットの中に服は残っていない。デスクの上には坂木と撮った写真、村瀬が子どものころの写真が飾られている。
部屋を見回す村瀬に向かって、坂木が言った。
「麻里亜はおれの部屋で寝てたから、ベッド、なかったんで取り急ぎ買った。それでいいか?」
その言葉に促され、村瀬はそっとベッドに座ってみた。ヘッドボードのない、マットレスに脚がついているタイプのシンプルな白いベッドだ。こくりとうなずく。
「わざわざ、ありがとうございます。お金は……」
「いいって。きみがうちに来てくれたお礼。ありがとう」
笑うと、村瀬は視線を伏せ、ちょっと赤くなった。
あれ? 可愛いんだけど。
顔を上げ、坂木の目を見てにこっと笑う。
「ありがとうございます、坂木さん」
「ん。あのさ、呼び方考えないとな」
「呼び方、ですか?」
「うん。いっしょに住むのに『坂木さん』『村瀬さん』は他人行儀だろ。まあ、他人ではあるけど。おれはもっとフランクに呼びたいな。例えば……」
「例えば?」
じっと見つめる目に、背中に冷や汗が浮かんだ。
あれ、可愛いと思ったけど、やっぱり騎士が間合いを詰める目だ。下手なことを言うと斬られる?
「えっと……『せいちゃん』とか」
「せいちゃんはやめてください」
「じゃあ、清路君」
「それでお願いします」
「わかった。おれは好きに呼んで」
「……倫太郎さん、とか?」
「ん、それでいい」
にこっと笑う坂木に、村瀬は視線を伏せた。
デスクに置かれたCDプレイヤーの電源を意味もなく付けたり消したりしながら、坂木が言った。
「清路って、きれいな名前だな。清い路 って書くんだろ?」
もらった名刺に書いていたのだ。
「母の願いです。清らかな人生を歩んでほしい、と」
お父さんの思いは? なんだか聞かないほうがいい気がして、尋ねなかった。
「たしかに、刑事やってたら清らかな路を歩けるな」
のほほんと言った坂木に、村瀬はかすかに笑った。
「刑事にもいろいろいますけどね」
「ふうん? あ、音楽聴く? 麻里亜のCD、きみも聴くかもしれないって思って残しておいたんだ」
「……ほとんどボブ・ディランだ」
「好きだったからな」
「おれも、ディランのCD持ってきました。ボストンバッグに入ってます」
思わず振り向き、坂木はベッドの足元に置かれたボストンバッグを見つめた。
「そっか。清路君もディランが好きなのか。おれも好き。麻里亜のおかげで聴くようになって、人生変わった」
電源の入ったCDプレイヤーに手を這わせる。五年前に、麻里亜といっしょに買ったCDプレイヤー。電源を入れると、ボタンが黄緑に光る。しゃべってるみたいで可愛い、と麻里亜が言っていた。
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