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不和とキス(がしたかった)#3
その日の夜、坂木はポテトグラタンを作って村瀬の帰りを待った。
村瀬は八時過ぎに帰ってきて、美味いと言ってグラタンを食べた。またいつものクールな青年に戻っている。缶ビールを開けて、グラス一杯だけ飲んだ。下戸らしく、めったに酒を飲まないのに珍しかった。
坂木が残りのビールを飲んだ。話は弾まず、坂木が昔観た映画の話や、書いている本の話をした。会話はもっぱら坂木の空回りだったが、書きかけの本の話を聞いて、村瀬が少し柔らかい表情をした。
「おれ、あなたの本が好きです」
意外な告白をされ、目を丸くする。
「え? 読んだことあったのか?」
「母に勧められて読みました。豊かなイマジネーションと硬派な文体が好きです。だから、あなたに会って驚いた。予想と全然違う人だったから」
「もしかして、期待を裏切った? ファンの人によく言われるんだよな。もっと硬派な人かと思ってた、って」
ははは、と困ったように笑う坂木に、村瀬は微笑む。
「倫太郎さんは硬派ですよ。人に優しいし、道義を貫く」
「そ、そうかな? ゆるゆるのおっさんだけどな~」
照れたように笑う顔を、まじまじと見た。
「たしかに笑顔はユルいですね。座敷で扇風機に当たりながら大の字になって寝てる姿は、ほんとゆるキャラ」
「おっさんのゆるキャラって、可愛くないな」
お互い笑う。坂木は少しほっとしていた。村瀬も表情の強張りがとれかけている。そうそう、とほうれん草のおひたしを食べながら、坂木が言った。
「せいちゃんの目、何色だ?」
茶色です、と言おうとした村瀬は言葉を飲みこんだ。坂木の顔がすぐ近くにある。
「あ、茶色だ。麻里亜は灰色でお父さんは茶色だったから、何色かなって思ってた」
おひたしを箸に挟んだまま、のほほんと言う坂木に、村瀬は目を伏せる。
頬がかすかに赤い。
坂木は気がつかない。もぐもぐと料理を平らげ、「意外に睫毛長いんだな~」と感心している。
「あれ? 顔赤くないか?」
やっと気がついた。
「ビールのせいです」
笑うと、坂木は「そうか」と納得した。
そのまま和やかに夕食は終わり、交代で風呂に入る。
深夜零時過ぎ、リビングキッチンでテレビを観ていた村瀬は、電源を切ると腰をあげた。眠るために二階の寝室に入る。
ロールトップのデスクに飾られた、母と坂木の写真を眺めた。ベッドに座り、冷房を入れようとリモコンに手を伸ばす。
そのとき扉が開いて、坂木が顔を覗かせた。とっくに寝ていると思っていたので、村瀬は驚く。坂木は太い眉毛を八の字にしていた。
「なあ、せいちゃん?」
「はい?」
「いっしょに寝ないか?」
え、という口の形で固まる村瀬に、坂木がちょいちょいと手招きする。
「寂しいんじゃないかと思って。おっさんと寝るのは嫌か?」
「……嫌ではありませんが。倫太郎さんこそ、おれに母の代わりは務まりませんよ」
「そういうんじゃないよ。どうする? いっしょに寝てくれる?」
こく、と村瀬がうなずく。坂木の顔が輝いた。
「ん、じゃあおれの部屋に行こう。はい、手」
大きく厚い手を広げると、村瀬はためらいがちに握ってきた。
「倫太郎さん、手熱い」
「子ども体温って麻里亜に言われてた」
二人でいっしょに坂木の部屋に入った。
村瀬にとって、初めて入る部屋だ。窓際のベッドはキングサイズで、デカい男二人でも余裕で眠れそうだ。そのベッドに圧迫されて、部屋が狭く感じる。座椅子とローテーブル、クローゼット、テレビがあるほかに家具はない。書斎があるから、本などはそちらに置かれているのだろう。
「あ、バランスボール」
手を握られたまま、村瀬が気づいてつぶやく。青いバランスボールが部屋の隅に鎮座していた。
「うん。体幹鍛えようと思ってな。ほら、老後のために」
そう言いながら、坂木はベッドに腰を下ろした。そのまま寝そべり、窓際に寄る。村瀬もベッドに腰を下ろした。
「バランスボール、ほんとは麻里亜が使ってたんだけどな。せいちゃんも使いたかったら使っていいよ」
「はい。……母は、本当に亡くなったんですね」
「……そうだな」
しばらく黙った。坂木の手が村瀬の手を握る。
「なあ、せいちゃん。せいちゃんはいろいろ頑張ってる。でも、つらいこと、多いだろ? おれはお父さんにはなれないけど。でも、寂しかったら甘えてくれたらいいからな」
整った顔が歪んだ。ベッドに腰かけたまま、目を逸らしている。
「おれは……」
声が震えていた。
「母が、幸せだったかどうか考えていた。父はろくでもない男だし、おれは家に寄りつかなかった。つらい思いをしてたんじゃないかと思うんです。でも、母はあなたに出会えた。母の死を考えるとき、母はきっと幸せだったと思うんです。その二つをセットで考えられるのは、幸せなことだと思う。母にとっても、おれにとっても。だから、ありがとう、倫太郎さん」
振り向いた目に涙が光っていた。
起きあがった坂木が村瀬の体を抱きしめる。大きく厚い胸に顔を押しつけ、顔を隠した村瀬が震えていた。
痩せた体をぎゅっと力強く抱き寄せ、坂木は耳元にささやいた。
「麻里亜が幸せだったと、おれも思いたい。彼女はクリスチャンだった。麻里亜さんは天国で幸せに暮らしていますよ、とお葬式のときに牧師さんが言ってくれたんだ」
「天国は信じられない」
胸に顔を押しつけたまま、村瀬の声が震えている。
「母はいなくなってしまった。それがわかるだけです。でも、死ぬ前の六年間が、母にとって幸せなものだったら。それがわかったら、おれは救われる」
「麻里亜はきっと幸せだったよ。今も幸せだ。そんなふうに思ってくれる息子がいるから。それから、天国のことは、おれもわからない。きみと暮らしはじめてからずっと、麻里亜はまだおれたちのそばにいてくれるように感じるんだ」
涙を拭って、村瀬は顔を上げた。目を細めて笑った。
「おれも感じます。母はまだそばにいる、って。倫太郎さんのことを知るたび、母は倫太郎さんのこんなところに安らいでたんだ、こんなところが好きだったんだ、と思う。あなたがいると、母の思いがまだここに残っているように感じる。そのぶん母を近くに感じるんです」
まだ少し湿っている短髪を撫でて、坂木は笑った。
「おれたちは直感と感覚を大事にしよう。麻里亜はいなくなったけど、じつはまだここにいる。だから、せいちゃんが全部しょいこむことはないよ」
こくりとうなずく。顎が震えていた。坂木の手が、さらに頭を撫でる。
「もし麻里亜が本当に殺されたんだとしたら、おれはそいつを許せない。いっしょに闘おう。な?」
また、こくりとうなずく。坂木の胸元をきゅっとつかんだ。思わず、心の内をぶつける。
「倫太郎さん、おれ……。子どものころからずっとなんですが、ときどき、とても寂しくなるんです。一人で穴の中に真っ逆さまに落ちていくみたいな、そんな気分になって、怖くなる」
村瀬の体を抱き寄せる。
「せいちゃんは一人で頑張りすぎてるんだ。悲しいこととか怖いこととか、弱さをおれにも見せてほしい。家族じゃ、意地を張ることもあるだろ。おれとせいちゃんは本当の家族じゃない。だからさ、見せてくれよ。通りすがりの人の前でなら、涙をこぼせることもあるだろ? 電車を待ちながら泣くみたいにさ」
うなずいて、村瀬は涙を拭った。
「ありがとう、倫太郎さん。……倫太郎さんは、母の前で意地を張ってましたか?」
「いや」
坂木は照れくさそうに笑った。
「おれのだめだめなところ、麻里亜に筒抜けだったよ。麻里亜は笑ってた。笑って、『倫太郎はだめねえ』って言って、そっと手を握ってくれたよ。それだけで、おれはずいぶん楽に生きられてたんだ」
妻とのそんなやりとりを心の支えにしていたことが、村瀬には痛いほどわかった。
ベッドから立ちあがる。
「水、飲んできます」
「うん。おれこそ、ありがとう。麻里亜の思い出を分かち合えて、うれしいよ」
坂木を残し、寝室から出る。暗闇の中、キッチンに降りた。水を飲み、涙を拭い、顔を洗って、もう一度寝室に戻る。
坂木は眠っていた。
寝顔を見て、思わず顔が緩んだ。とても若く見える。無防備な、あどけない寝顔だ。男子高校生が寝てるみたいだ、と思った。何事も深く感じる坂木は眠りもまた深い。眼鏡を外した目元が柔らかだ。
ゆるキャラみたいだと言ったが、あれは嘘だ。本当はとても美しく見える。
顔を近づける。
そのときだ。眠っていながら、なにかを感じたのだ。
目をぱっちり開けた坂木は、自分の上にかがみこんでいる人影に気がついた。近すぎて、目が合わない。わかるのは、唇に触れるあたたかい感触。
キスは短く、すぐに唇が離れた。二人の目が合う。
起きていると知った村瀬は飛び退った。坂木も驚きのあまり、声が出ない。
「す……すみません!」
謝ると、村瀬は坂木の顔も見ず寝室を出て行った。
残された年上の男は、しばらく呆然としていた。
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