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きみはけだもの#1
キスの件があってから、坂木はなんだか村瀬のことを意識していた。
キスってどういう意味だ? おれが好きとか? それとも性欲のキス?
春彦が言っていた、「息子はゲイです。気をつけてください。あなたのことを狙っているかもしれない」という言葉をたびたび思いだす。
キスされた日の翌日はそわそわして早く起きてしまい、坂木が味噌汁を作った。
六時に起きた村瀬は、それよりも早く坂木が台所にいて驚いた顔をしたが、特になにも言わなかった。豆腐とわかめの味噌汁、白米と納豆を食べ、いつも通りの時間に出勤した。ふだん通り、クールな青年だ。変わった様子はない。
おれは寝ぼけてて、夢を見たのかなあ、と坂木は思うようになっていた。
そして迎えた四日後、二十三日の金曜日。
夜の九時過ぎに、村瀬が仕事から帰ってきた。このところ、仕事が忙しいそうだ。「先に食べててください」とメールが来たものの、坂木は食べずに待っていた。
玄関に姿を見せた村瀬を、坂木は麻里亜とおそろいで買ったエプロンを身に着けて出迎える。
「おかえり、せいちゃん。お疲れさま」
「疲れました」
珍しく弱音を吐き、村瀬はふっと息を吐いた。
「ごはん、食べました?」
「ううん、待ってた」
「そうですか。すみません、腹減ったでしょう?」
「減った。でも、おれが好きで待ってただけだから気にしないで。今日は湯豆腐と刺身です」
村瀬は無表情で二階の自室に服を着替えに行った。顔が疲れているし、背中も少し丸まっている。だが、疲れているからだろうか。凛々しい相貌に凄みがあり、ひどく美しい。芸術品として作られた、しかし実際に斬ることのできる刀のようだ。
せいちゃん、凄みのあるイケメンだなあ……。女の子は、抱かれたいって思うだろうな。
台所に戻りながら、坂木は思いをはせる。
女の子じゃなくても、ゲイやバイの男は抱かれたいって思うだろうな。おれもバイだけど。うーん。おれは思うか? 思うかもしれない。でも、でも、イコールじゃあ実際抱かれたいっていうかというと、それはまた別の問題であるわけで……。
頭の中でぶつぶつと考える。
え、っていうかせいちゃんが抱く側? おれだってタチをしたことくらいあるぞ。せいちゃんより経験も豊富なはず。おれが抱くのはアリか? いやいや、だから抱くとか抱かれるとか、せいちゃんとはそういう関係じゃないんだって。なんでも恋愛の枠で考えるのはよくないことだぞ。
それにこんなこと考えること自体が、麻里亜に悪いよ。
村瀬が着替えて戻ってきた。スポーツブランドのTシャツとスウェットパンツだ。目元が少し柔らかくなっている。
「腹減りましたね」
「ん? うん。座って。おれはビール飲むけど、せいちゃんは?」
「おれも一杯だけもらいます」
「よーし。湯豆腐、暑いかな。冷ややっこにすればよかったかなあ」
「冷房効いてるし、あったかいもの食べるとほっとしますよ」
そうか、そうだなーと笑いながら、テーブルに湯豆腐の入った土鍋を置く。鮪や鯛、烏賊や蛸や帆立など新鮮な刺身を盛りつけた皿も並べた。
「あとは手抜きでインスタントのお吸い物と、お惣菜で買ったきんぴらごぼう。なんかちぐはぐなメニューだけど」
「美味そうです」
「ありがとう」
村瀬と目が合う。にこっと笑ってくれて、なんだか坂木もほっとする。
「じゃあ、食べよう。いただきまーす」
ビールで乾杯。坂木が白米を口に入れる。眼鏡が湯気で曇りつつ、もりもりと食べた。麻里亜が亡くなって数か月は食欲も落ちていたが、ここ最近はご飯も美味しく食べられる。
せいちゃんのおかげかなあと、ふと思う。
村瀬は黙って刺身を食べている。ちらりとも視線を上げない。
なんだか不安になった坂木は、マグロを箸で挟みつつ、どうかしたか? と尋ねようとした。
そのとき、村瀬が視線を上げた。目が合う。
どきっとする。睨みつけるように、目が鋭い。
「あの……倫太郎さん?」
「ん? どうした?」
「おれ、この家を出ていこうと思うんです」
「は……?」
整った顔がわずかに歪んだ。
「あの、おれ、出ていこうかと……」
「え? な、なんで? おれと暮らすの、嫌だったか?」
おろおろする坂木を、村瀬はじっと見つめている。
「嫌でしょう?」
「嫌って?」
「キス、してしまいましたから。そんな男といっしょに暮らすの、嫌でしょう?」
しばらく無言になる。村瀬は視線をテーブルの刺身に落としている。また視線を上げたとき、鋭いその目はあの「近づきたい目」だった。
そのことに気がついて、坂木の胸に愛しさがこみあげる。
「なんだ、気にしてたのか。気にしなくていいよ、そんなこと」
「ですが……」
必死の顔で村瀬が食い下がる。両手をテーブルの上でぎゅっと握りしめていた。
「き、気持ち悪いでしょう? 怖いでしょう?」
「いや、別に気持ち悪くも怖くもないよ。おれ、バイだから」
「……おれは、ゲイです」
絞りだすような声で、村瀬が言った。
「隠していてすみません。あなたを襲うつもりなんてないんです。でも、あんなことしてしまったし、嫌なんじゃないかと……」
「話が元に戻ってるな。おれはべつに嫌じゃない。そりゃあ、キスしていい、とは言ってないよ」
「……はい」
うなだれてつぶやく村瀬のことがなんだか気の毒になるのだ。
土鍋があいだにあるから頭、撫でにくいな。そんなことを思いつつ、坂木は箸を箸置きに乗せた。
「襲われるのは嫌だけどさ。せいちゃんにはそんな気ないんだろう? だったら、気にしないよ。でも、なんでキスしたんだ? それがずっと気になってたんだけど」
あえてふざけた口調で尋ねる。
「おれのこと、好き? それとも、ただの性欲?」
村瀬の目がわずかに潤んでいる。夜露に濡れた刃といった風情だ。さっと視線を伏せる。
「その……む、ムラムラしてしまって」
「そっか。まあ男だし、生き物だしな。そんなこともあるよ」
「本当にすみません。ね、寝ていて無防備なあなたにキスなんてしてしまって。最悪の場合、もっと酷いことをしたかもしれない」
「え、酷いことって……レイプとか?」
「し、しませんよ……! してはいけないことなんです。でも、人間、切羽詰まるとなにをするかわからない」
「せいちゃんは性悪説支持者か?」
「人間の良心は、当てになりません。もっと言うと、おれは自分を当てにしてないんです。でも、おれが当てにしてないおれを、倫太郎さんに信頼してほしいなんて図々しいですよね……」
「そんな、深く考えるなよ。おれはせいちゃんを信頼してる。せいちゃんはお巡りさんだし、そんな卑劣なことはしない。な?」
からっと笑う坂木。だが、内心心臓がばくばくしていた。
おれ、せいちゃんに犯される可能性もあるのか……? それは怖いな。
そんな心の内が顔に出ていたのだろう。村瀬は表情を曇らせた。
「やっぱり、倫太郎さんも怖いですよね?」
「い、いや、ちょっとは。でも、男とひとつ屋根の下に暮してる女の人じゃないしさ、大丈夫だよ」
うん、大丈夫。
ふと、そう確信した。つらそうな顔で、唇を真一文字に結んでいる村瀬の顔を見ているとそう思ったのだ。坂木の表情が緩む。
「大丈夫。せいちゃんは紳士だ。せいちゃんは、自分を信じていい。おれも信じてる」
うつむき、しばらく黙ったあと村瀬は顔をあげた。泣きそうな顔で笑う。
「ありがとう、倫太郎さん」
「……うん」
いじらしいな、と思う。胸がきゅんとする。
すぐにそんな自分の心の動きに気がついて、坂木は頬をぺしぺしと叩いた。
いや、おれのこれは父性だから。
村瀬は柔らかに微笑んだ。
ふと、気になって騎士に尋ねる。
「あのさ、せいちゃんは、恋人とか……いるのか?」
「いません。高校時代に付き合っていた人がいましたが、それからは全然」
「その人も、やっぱり男?」
「……そうです。……学校の先生で」
「え! 禁断の恋ってやつかあ」
「化学の先生でした。いろいろ、教えてもらったんです。そういう、ゲイのあれこれとか。おれが卒業するとき、これで晴れてちゃんとした恋人同士になれると思ったら、もう会いたくないって言われて。……期待に応えられなかったんですかね」
心なしか、しゅんとしている。思わず、坂木は頭を撫でたくなった。
「気にするなよ、せいちゃん。先生には先生の事情があったんだ。よくあることだよ」
「それは、わかってます。というか、別れてからずっとわかろうとしてきた。事情があるって。でも、そのときのことを思いだすと、恋愛に積極的になれなくて。ヘタレなんです」
凛々しい騎士の口から「ヘタレ」という言葉が出ると、凄いギャップに思える。整った顔は、今は強張っている。
「タチをしたこともあるんですが、なんだか上手くいかなくて。それもあって、先生は嫌だったんじゃないかと思って」
「そうか。先生の事情はわからないけど、せいちゃんもいろいろ悩んでるんだな。ものすごいイケメンでクールで、そういう悩みはないのかと思ってたけど」
「すごく悩んでますよ。でも、『恋愛やセックス以外にも重要なものがあるんだ』」
「え?」
「ボブ・ディランの言葉です。恋愛ソングが流行っているときに、社会派の歌を歌ったディランらしい。というか、単にロック的な反抗心から言ったのかもしれませんが。おれはディランのこの言葉に勇気づけられてきました。恋愛やセックス以外に重要なものがある。そう思って、仕事に邁進して、孤独でも耐えて、恋愛を馬鹿にして生きてきた。でも……」
「でも?」
「……好きになる気持ちはどうしようもない」
ぼりぼりと頭を掻き、坂木は真面目な顔になる。
「よくわからないけど、おれもディランのその言葉、好きだよ。付き合いだしたとき、麻里亜が教えてくれたんだ。それでときどき、おれにとって重要なものはなにかなって考えてる。それに、『恋愛やセックス以外にも』って言ってるよな」
「え?」
「恋愛やセックスも重要だ、ってことじゃないか?」
しばらく黙って、村瀬は笑った。わずかに顔を歪めて。
「そうか。そうですね。おれは、『恋愛やセックスは重要じゃない』って意味に受け止めてた。たぶん、自分が恋愛にコンプレックスがあるから。……そうか。やっぱり、倫太郎さんは大人だ」
「そうかな?」
「ええ。バランスが取れてて、大局的な目で周りを見ることができて。憧れます」
その目の輝きに、照れくさくなる。
「そうかなー。そんないいおっさんじゃないけどな。まあでも、年の功だよ。それに、ディランの真意は前後の文脈を見ないと、本当にはわからないわけだし。だろ?」
「そうですね」
目の輝きは褪せない。
ほら、ごはん食べて。促すと、村瀬はこくりとうなずいて箸を取った。
「倫太郎さんみたいになりたいな」
「ありがとう。でも、せいちゃんはせいちゃんのままでいいぞ。なにかに憧れる気持ちって、大事だとおれも思うけど」
笑った村瀬の顔が、どこか幸せそうだった。
可愛いな、と坂木は思う。おれも麻里亜に奥手だと言われていたけど、せいちゃんもなんだなあと微笑ましい。ビールを飲みつつ笑う。
「せいちゃんは可愛い。自信持っていいよ」
村瀬は赤くなって目を伏せ、「はい」と言った。
やっぱり可愛い。
可愛いというだけで満足していた。
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