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きみはけだもの#2

 そんなふうに、「キス問題」は一応の決着を見たのだが。  翌日、土曜日。「あの男」が訪ねてきたのだ。  その日、村瀬はやり残した仕事があると朝から出勤していた。  坂木は家で原稿を書いている。はつらつとしていて、「いっしょにいると元気が出るタイプ」の女性編集者、渡辺あずさが進行具合を聞きに立ち寄っており、しばらくお茶を飲みつつ、書斎で話をしていた。  だが、会話の流れで急に坂木が新しい章の続きを思いつき、パソコンに向かうことになった。渡辺はお茶を飲みつつ、だがまだ新作の打ち合わせがしたかったので、大人しく気配を消して待っていた。  玄関のチャイムが鳴った。 「出てきましょうか、先生?」 「うん、ごめんな渡辺さん。お願いしていいか?」  キーボードを叩きつつ、答える坂木。渡辺は腰を上げて階下に降りた。  しばらくして、「きゃあっ」という声。  どうしたどうしたと、坂木が手を止めて下に降りる。  そこにいた男を見て、ぎょっとした。  先日道で出会った極道、藤堂である。巨体で玄関扉が塞がっている。 「こんにちは、先生」  サングラスの向こうで笑う藤堂。これはまずい。青くなりつつ、坂木は渡辺に「書斎に戻ってて」とささやく。渡辺が青くなりながら戻っていくのを見届けると、藤堂に向きなおった。  今日は、せいちゃんがいない。おれ一人で相手をしなければ。  がちがちに緊張しつつも、顔を見る。目を合わせてはいけない気がして、視線は眉間のあたりをさまよった。 「な、なんでしょうか」 「今日はあんたに会ってほしい人がいるんですよ。……こちらの方です」  藤堂が身を引くと、その向こうに小柄な人影が見えた。  白髪を撫でつけた、紳士然とした老人である。高級そうな黒いスーツを着こなし、人の好さそうな微笑みを浮かべていた。  しかし、その目だけが「浮いている」。殺気を帯びているのだ。冴えた輝きを宿す、冷徹な目。 「う」  思わず、坂木が後ずさる。魔眼だ。心の内を読み取るように、冷え冷えとしている。老人は一歩、前に出た。  だが、皺が刻まれた口から出たのは、舞台俳優のようになめらかで美しい声だった。 「あなたが坂木さん、ですか?」 「は、はい……」  藤堂が脇からさっと口を挟む。 「晃塵会組長、城島さんだ」 「く、組長……!」  びくびくっと震える坂木を、城島はもの柔らかな微笑みで見返した。 「初めまして。村瀬清路はおりますか?」 「い、いえ……し、仕事に出ています」 「そうですか。では、あなたに訊きたいことがあります。あがっても?」 「は、はい、どうぞ」  城島が玄関から中にあがる。優雅な身のこなしだ。藤堂が外にいる組員に何やら合図をし、素早く扉を閉める。  パニックになりつつ、坂木は二人を座敷に案内した。 「お、お茶、淹れてきます」 「エアコンもつけさせてもらいますよ、先生」  藤堂がリモコンを弄っている。坂木はキッチンに入り、ガラスの湯呑に冷えた麦茶を注ぎ、竹のコースターに載せて、座敷に運んだ。盆を持つ手がぷるぷるしている。そーっと座敷に戻ると、座卓の前に城島がきちんと正座していた。藤堂は入り口の前に仁王立ちしている。威圧感が半端ない。  震える手で、座卓に湯呑を二客(城島と藤堂の分だ)置く。 「ほう」  竹のコースターを手にして、城島が感心した声をあげた。 「美しいコースターですね」  話しかけられて、坂木はどきどきしていた。 「は、はい。ありがとうございます。妻が選んでくれました」 「そういえば……奥さんとは死別されたとか?」  そんなことまで知られているのか。冷や汗をかきつつうなずく。 「そうなんです。半年前に」 「わたしも妻と死に別れていますから、お気持ちわかりますよ」 「あ、ありがとうございます」  城島はにこにこしている。ただ、その小柄な全身から冷気が立ち昇っているのだ。触れれば凍傷になりそうな、そんな冷気だ。素直に怖い。  仁王立ちの藤堂は身動き一つしない。茶を一口飲むと、城島はひたと坂木を見据えた。 「ところで、あなたに訊きたいことがあるのですが」 「な、なんでしょう?」 「同居している村瀬清路の父、春彦について伺いたいのです。今、どこにいるかご存知ですか?」 「し、知りません。この前、ちらっと会いましたが……」 「いつ? どこで?」 「今週の月曜日です。十九日。内崎駅の<ライラック・コーヒー>で会いました」 「どんな話をしましたか?」 「せいちゃん――いえ、清路君のことを尋ねられました。今どうしてる、とか、近況を」 「情報収集か」  愉快そうに笑う城島。しかし、目は笑っていない。 「そうですか。連絡先は交換しましたか? どこに行くと言っていました?」 「連絡先も交換しませんでしたし、あのあとどこに行ったのかもわかりません。お父さんは、清路君の携帯番号を知らないと言っていましたから、清路君も知らないかもしれません」 「なるほど。そうですか」 「あの……」  震えつつも、おそるおそる言ってみる。 「清路君のお父さんとは、どういう知り合いなのでしょうか?」  城島はにこりと笑った。 「昔、彼が困っていたときに助けたことがあります。それから、お互いたまに相手に頼み事をする間柄です」 「頼み事……」 「一つだけ教えてあげましょうか」  茶を飲み、城島は微笑んだ。 「この前も彼に頼み事をしましてね。イギリスで働いてもらったんです」 「イギリス……」  心臓が嵐のように、ばくばくと音を立てる。麻里亜が亡くなったのはロンドンのホテルだった。春彦さんは、やっぱり麻里亜の死になにか関係があるのか? 「そ、それは、いつのことですか?」 「一年と半年くらい前でしたね」  一年半前。麻里亜が亡くなったのは一年前だ。だったら、無関係なのか?  城島はさらりと言った。 「彼に、うちの組員にならないかと誘っているのですがね。のらくらと誤魔化されているばかりです。一度、話をしに来いと申し渡していますが」 「だ、だから居場所を探しておられるのですか?」 「そうです。親子そろって、本当に言うことを聞かない」  城島はどこか面白がっているようだった。赤子が遊んでいる姿を見る祖父のような顔つきをしている。 「まあ、いいでしょう。村瀬春彦が現れたら、わたしの元に顔を出すように言っておいてください。急ぐ件じゃない」 「わ、わかりました……。あの、それをお話しに、こちらへ?」  城島は口元だけで、またにこりと笑った。 「じつは坂木さん、あなたの顔が見たかったのです」 「え? おれの……?」 「はい。先日、村瀬清路が電話を掛けてきましてね。必死の声音で、『同居人には手を出さないでほしい』と。彼があんなに必死になるのは珍しいのですよ。いつも冷静ですからね。母親が死んでもあの通りですから」 「ち――違います」  口答えなんてするつもりはなかったのに、言ってしまったのだ。 「せいちゃんは、お母さんが亡くなって悲しんでいます。それを表に出さないだけなんです。ほんとは優しい子なんです」  世界が止まっていた。凍りついた目が坂木の目を射る。蛇に睨まれた蛙のように身動きができない。壁のようにそびえ立つ冷気で、呼吸も止まる。膝の上で握った拳が震えた。  城島はにこっと笑った。 「そうですか。村瀬清路はあなたに懐いているのですね。新しい父親を見つけた、というところでしょうか」 「あ、あの……」 「あなたの亡くなった妻、村瀬清路の母親で、春彦の妻なのでしょう? 春彦は、父親にはふさわしくない男です。あなたは村瀬清路と、血の繋がりを超えた強い関係を築くといい。清路にはそれが必要なのです」 「は、はあ」  なんだか本当に、孫を心配する祖父のようなことを言うと思う。 「では、これで」  座布団から立ちあがると、城島の膝がぱきっと乾いた音を立てた。藤堂が障子を開ける。 「またな、先生」  低い声で挨拶され、坂木はこくりとうなずいた。  黒塗りのベンツは坂木家の前からゆっくりと離れていった。 「せ、先生、大丈夫ですか?」  二階から渡辺が降りてくる。 「ど、どういう知り合いですか?」  青い顔の渡辺を見て、坂木も今ごろ膝ががくがくしてきた。 「だ、大丈夫だよ渡辺さん。早く帰りな。ね?」 「同居している警察官の方の知り合いですか? 先生、ヤバい人と同居しちゃいましたね……」  大丈夫だから、と渡辺を送りだす。  一人になると、玄関にしゃがみこんだ。あいつら、せいちゃんには会いに行ってないよな? それが心配になる。

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