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第1話

ウェストミンスターの鐘が鳴る午前の授業の終わりは軽快だ。対照的に重く沈みそうな空腹だけ持て余して、教壇の上で教鞭を下ろした先生の顔色を伺う。先生は定年前の、禿げかかった前頭部に照明のひかりを吸収させながら、小さく頭を左右に揺らして「今日はここまで」と口にした。 ぱたん、と日本史の教科書を閉じて、それから教室全体で一礼。席に着くと同時に、後ろの席から声を掛けられた。 「み〜つき、飯食お〜」 「うん」 瀬戸という男は身長が高くて、薄い顔をした同級生だ。ひょろりとしている体躯と、蜘蛛みたいに長い手足が特徴的だった。髪の色素が長年野球をやっているせいか薄いのも相俟って、なかなかどうして色男に見える。女子からの人気も高いようだった。 瀬戸とは高校に入ってから、そこそこ良い交友関係を築けていると思う。休日まで共に過ごすような事こそないものの、俺の高校生活は一年半、この男と出来上がっていると謳っても過言ではないだろう。 がたがたと椅子を鳴らして瀬戸の机に向かい合う。母から持たされたらしいデカい弁当を机上に置いた瀬戸に倣って、俺もビニール袋の音を鳴らしながらコンビニの弁当を置いた。 「またコンビニ?」 「うん」 「身体に悪そうよな、いや心配とか別にしてるわけじゃねえけど。光希のおかあさんって何してんの」 「さあ、仕事じゃない」 「淡泊な家庭だね〜」 瀬戸はからから笑って、そのデカい口にデカい一口を掻き入れた。今朝炊き上がったのだろう艶々の白米がてかてか光って綺麗だった。 瀬戸はいつも一口目に白米を食べる。どんな好物が弁当に入っていても、必ず白米が瀬戸の昼食の始まりだった。 コンビニで購入したサンドイッチの包装をぺらぺら剥いて、パサパサした感触のそれを渇いた口内に押し込んでも、味もないような日常である俺とはえらい違いだ。 羨む盛は過ぎたけれど、それでもたまに、瀬戸の母を羨ましく思うことがある。 瀬戸の弁当を見ることも、最初は気まずさや惨めさが胸に刺さったけれど今となってはその輪郭すら辿れないのだから人というものは順応性に長けた生き物だと気付かされる常々だ。 昼食を選ぶことも億劫な俺は毎日同じサンドイッチを同じコンビニで買っていた。レタスとトマトが挟んであるやつ。美味いかと尋ねられても首を傾げる他ないが、まあ、別に何でも良い。野菜も炭水化物も摂れるのだから文句は無かった。 瀬戸はいつも水筒なので、俺が何となく気紛れでパックジュースを買ってきてやると、まるで犬みたいに喜んでみせる。瀬戸がいちばん好きなパックジュースはカフェオレだった。 何となく今日は瀬戸にカフェオレを買ってきていたのでそれを差し出してやると、弾けるような笑顔で「いいの?!」と尋ねられた。 「うん」 「ありがとう〜! 光希、俺には優しいのになあ」 「何だよその言い方」 誰かと比較したような内容に思わず笑って聞き返すと、瀬戸は廊下側に目を向けて、「ん」、と、その方向を親指で軽く指さした。 その行為に思わず閉口すれば、瀬戸はまるで惨めなものでも見るような笑い方を喉の奥で鳴らしてみせる。 「あいつ毎日光希んとこ来るのな。弁当持って。友達とか居ねえのかな」 「さあ、居ないんじゃない」 「お兄ちゃんは冷たいねえ〜。声掛けてきてやろっか? たまには三人で飯食おうぜ〜ってさあ」 「やめときなよ。毒されちゃうぜ」 「はは、何それ」 「……あいつ気持ち悪いから学校でまで構いたくないんだ」 心底気持ちが悪い、という思いで、どうでも良さげにそう呟くと、ぴたり、と瀬戸の動きが止まった。瀬戸は小馬鹿にしたような振舞いが多い男だが、その実人の気持ちの裏側を汲み取る事に関してよく長けている男だと思う。瀬戸はそれきり何も言わず、廊下側の開け放たれた窓から俺の方を見詰めたままの弟の姿を、適当に眺めて、それから、面白くなさそうな声音で、ふうん、と相槌を打ってきた。それきり。 瀬戸の視線は俺と弁当に集中する。 俺はこの日も、一度だって、弟の方を見なかった。 俺には一つ歳下の弟がいる。 名前は八樹。全然俺と似ていない。当然と言えば当然だった。弟は、最近ではそう珍しくもないデザイナーベビーという子どもで、俺を産んだ母親がどうしても自分の求める理想の子どもを諦めきれず世に産み落とした技術の産物である。 母は‪世の中のカースト上位に位置するα‬だった。初めに生まれた俺はβ。母が欲しがったのは、自分の理想のΩだった。 俺たちの両親はどちらも‪α‬で、それは言わずもがなそれぞれの運命を差し置いての、両家の望む理想の世継ぎを産むための政略結婚だった。 カースト上位が‪α‬であることはどう世の中が流れても変わらない。母親の家も父親の家も、長子である俺が‪α‬である事を強く望んだ。しかし人生そう上手くは転ばない。 母は当然、両家から強い非難を浴びる事となったらしい。しかし腐っても‪α‬性は高い権利者だ。母は恨み辛みたる言葉で父を詰ったという。文句があるのなら今度はお前が産めばいいと。憤慨した父方はそれを機に母との縁を切り、母はそれ以来誰の手も借りず、俺と、その後に自分が手掛けた俺の弟を育ててきている。 母は秀才だ。故に人から浴びる罵倒が受け入れ難い人間であったことも事実だろう。 母は否定するのだろうが、事実、俺を産んでからの母は鬱の入口に立っていた。 そして、‪α‬であるが故の苦悩、運命の番を手に出来なかった現実を、ひたすらに悔やんで、悔やんで、悔やんで、――それでも諦めがつかなかったのだ。 手に入らなかったのなら、今から手にすれば良い。 母の思考は暴力的だ。 弟は、柊八樹は、母の身勝手な過去への後悔を受け入れる身体として世に放られた匣だった。 それから、母の後天番として母の手によりデザインされた八樹は、Ω性という劣等を過剰に身に載せられた状態で、俺の弟として、長子である俺以上に、偏屈で理解し難い愛情を、物心ついた頃から、母によって受けることとなる。

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