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第2話
その日も雨だった。
瀬戸はいつも黒い傘を学校に持ってくる。大きい傘だ。瀬戸自身が大きいから、傘もデカいし、瀬戸は雨の日、俺をその傘に入れたがる節があった。
だから今日も、瀬戸は当たり前みたいにして俺に声を掛けてくる。
「光希、帰ろ」
「うん」
俺は面倒臭がりな性格だから、瀬戸がいてくれあるあいだ、わざわざ学校に傘を持ってこなくていい様になって、荷物も増えないし、極端に言ってしまえば頗る楽な雨天を過ごす常となっている。
瀬戸が傘を開くと、一面真っ暗だ。背が高い瀬戸に覆われて一気に視界が狭くなるこの感覚が俺は何となく好きだった。余計なものも、余計な音も、聞かなくて済むような気がして。
校門の前に佇む人影にも、気が付かないで済むから。
だけど瀬戸は、こういう時決まって初め、残酷だ。
「あ〜」
「なに」
「光希の弟。待ってんじゃん」
「知らない」
「そお?」
瀬戸は長い手で、頭を乱雑にぽりぽり掻いた。それから、ちょっとだけ、瀬戸の歩幅が広く大きくなる。俺に掛ける声も多少煩くなる。瀬戸なりの、俺への気遣いだった。視界の下の方に、行儀良く並んだ、俺と同じくらいの靴のサイズがちらりと見えた。直ぐに、通り越してしまったけれど。
「光希さあ〜」
瀬戸の声は煩かった。雨にも負けない勢いだ。決して、勢いづいた雨などでは無かったけれど。
「今日俺ん家来いよ」
「うん」
「明日休みだし泊まっちゃえば」
「いや」
「なんでよ。荷物無くても俺の貸すし。潔癖ってんなら俺が下着とか一式揃えるし」
「……うーん、」
「何で悩むのか俺分かんねえんだけど〜。見たくないもんばっか家に転がってんなら逃げよ〜って思って良くない?」
ぴたり、と瀬戸が歩みを止めた。瀬戸の、茶色い眸が揃ってふたつ、俺を見ている。上から降り注ぐ眼差しが、つめたくて、柔らかくて、優しかった。
「うーん……」
瀬戸の言葉に背を押されながら、それでも言葉を濁すのには俺なりの理由があった。
身体の収まりの悪い家でも、家に帰れば、他人の弟は弟という枠組みにきちんと収まる。弟は、俺が居ようがいまいが、必ず夜になると、あのαの母親に手を出され、愛でられ、身勝手に番になる準備を進められていく。未発達の柔らかな身体を、丁寧に撫でられ、屈折した愛を母に受けて、涙をこぼして、泣き腫らした顔で、俺の部屋を訪れた。
八樹は絶対、俺にその内容を言わない。
ただ、しくしく泣きながら、鼻を鳴らしながら、「兄ちゃん、」と、縋ってくる。
そうして、決まって俺のベッドの中に入り込んで、朝が来るまで、俺の隣で、背をまん丸に丸めて眠った。
βの俺が知らない苦痛を、八樹は先天的に、知っている。
俺なら、俺だったら。
自分の母から受ける性的な、女の暴力を、果たして耐えることができるだろうか。
母親の為に生まれ、母親の為に、番わされようとして、母親の為の性として生きる。
そんな惨めな人生、耐えられるだろうか。
俺と瓜二つの体躯をした弟の背中から、俺より温かい体温を感じながら、だから俺は決まって眠りこけた弟に囁いた。
「――惨めだね、八樹」
結局、俺は瀬戸の熱弁に翻弄されて、瀬戸に促されるまま瀬戸の家に招かれた。
瀬戸は帰りがけ、俺に言ったように、新品の下着とタオルをコンビニで購入して、俺に手渡してくれた。律儀な男だと思った。
「おかあさん今日帰って来ないから適当に過ごして〜」
「うん。瀬戸は何するの」
「飯作るよ。光希腹減ってないの?」
「ぼちぼち」
「お前食細いもんね。まあいいや。光希ちゃんも一緒に作る〜?」
「作ったことないもん」
「でしょうね〜。風呂はいって来なよ、あったまるし。湯、張っていいからさ。って、どうせやり方も分かんねえんだろうね。いいよ、俺やるし」
瀬戸は手際良く風呂場へ向かって、暫くするとリビングに戻ってきた。
「五分くらいしたら溜まるから。風呂場来て。シャワーの使い方とか教えるし」
「そのくらい分かる」
「光希生活能力無さそうだし」
「失礼だ」
瀬戸はくすくす笑って、そのままキッチンに移動した。冷蔵庫の扉の開閉音が何回か聞こえる。
普段から自炊でもしてるんだろうか。野球一本、の面をした男とは思えない。
瀬戸はそうえば、ある程度何でもそつ無くこなせる節があった。要領が良いのだろう。羨ましいことだ。
「光希って肉食えるの」
「食べるよ」
「毎日サンドイッチなのに?」
「楽だから。あんま噛まんでいいし」
「将来性が無いね〜」
リビングの奥にあるキッチンから、瀬戸のいつもの笑い声が聞こえる。ちょっと掠れた笑い方。セクシーだと思う。女の子ならきゅんとするんだろう。
「まあ、たまにはのんびり過ごせばいいんじゃん? お前の家の事情とかよお知らんけど」
ぴぴーっ、とタイミング良く、風呂の音が鳴った。とんとん、まな板の上で跳ねる包丁の音は、瀬戸が奏でるからか妙に優しい。
「風呂入ってきなあ〜。その後飯な。弟くらいには連絡しとけばいいんじゃない」
瀬戸の声が、背中を押す。決まって、いつも、こうだ。
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