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第38話
橘は上体をひねった。闘牛士がマントを翻して牛をいなす要領で、スナップの利いた一撃を難なくかわした。
一旦、壁ぎわに退く。あらためて〝檻〟の中央に進み出ると、片手を胸にあてがい、片足を引きぎみにして、麗容と一礼した。
返す手で鎖をたぐって佑也をよろめかせておいて、すべらかな胸に人差し指を伸ばす。
「汚ない手でさわるな!」
拳の嵐をかいくぐり、つつ……と心臓の真上を人差し指でなぞった。
毒をひと垂らし。そんな響きをはらんだ声で、こう告げた。
「いずれ、ここにタトゥーを入れてあげよう。体温が上昇したときに限って浮かび上がってくるおしろい彫りで、植物の橘を図案化した意匠を」
「その科白、熨斗 をつけて返す。そのうち、てめえのツラにフォークで〝ブタ野郎〟って彫ってやる」
威勢のよいそれを聞いて、橘は噴き出した。右足切断の憂き目に遭って俳優人生にピリオドを打ってからこっち、心の一部がいわば壊死した状態にあって、感情を揺り動かされることは滅多になかった。
ところが佑也の言動のひとつひとつが、橘の心を鎧 う分厚い氷を融かしていく。
およそ数年ぶりに、ほがらかな笑い声を響かせた。
佑也は、ふて腐れたふうに口をとがらせる。その唇を素早く盗み、橘は、くくと喉を震わせた。
不屈の闘魂の持ち主。
歯ごたえがある白鳥に色事のイロハを含めて演じるということを教え込むのは、これだから興趣が尽きない。
「きみに牙を剝かれてベソをかく日が訪れるのを、楽しみにしておこう。さて、先ほどの脚本を印刷してくる間にシャワーを浴びておきなさい。ひと休みしたらレッスン再開だ」
「だぁれが学校ごっこみたいな茶番につき合うかよ。おれを、ここから出す気になったとき以外は、二度とその気障ったらしいツラ見せるな」
愛しい者の罵声は、カーテンコールを髣髴 とさせて耳に心地よい。
橘はいまいちど王族に拝謁つかまつったように、うやうやししげに腰を折った。
それから下手 へと捌ける主演男優さながら、意気揚々と〝檻〟を後にした。
──了──
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