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「……()……(づき)」 「へへ……! いいじゃん。裏の世界だろうが表の世界だろうが、世界ってのはめっちゃ広いもんじゃね? 裏と表だけじゃなくて縦の世界や横の世界、斜めの世界とかもあるかも知んねえし。けど……俺がいいなって思うのは……お前と俺が一緒に居られる世界――なーんつったら気障とか思う?」  照れ隠しというほど大袈裟に戯けてみせる、その仕草が心底可愛く思えて胸が逸った。と同時に目頭が痛くなるほどに込み上げてくる熱い雫を抑えることができなかった。 「紫月(しづき)……」 「そういう世界があったらいいなって……思う」 「――紫月(しづき)……!」  思わず溢れて頬を伝った涙を隠すように俺は紫月(しづき)を抱き締めてしまった。ヤツの陶器のような綺麗な肌に涙を擦り付けるように互いの頬を重ね合わせる。気付けば、そのままどちらからともなく引き寄せられるように唇を重ねていた。  それはやさしくて熱くて――先程のように何かに当たり散らすような乱暴なものでは決してなくて――、怯えるほどに大切で、触れるのも憚られるほどに怖くて、でも愛しくて欲しくて堪らない。そんな想いだった。  しばし唇と唇をくっつけ合うだけの子供のようなキスをして、そっと互いを見つめ合えば――熟れて落ちるほど真っ赤になった顔を俺の胸板に押し付けながら紫月(しづき)は笑った。 「へへ……! 俺んファーストキス……! おめえにもらってもらった」 「紫月(しづき)……」 「すっげうれしいわ」  モゾモゾと恥ずかしそうに腕の中で揺れる絹糸のような髪。華奢な肩。ほんのりと匂い立つバスソープの香り。  そのすべてが愛しくて、あたたかくて、またも滲み出した涙をヤツの髪に擦りつけては拭った。 「好きだ――」 「ん……俺も」  今なら分かるような気がする。親父と(れい)さんがどんなふうに想い合ったのかが――。  妻や子に申し訳ないという思いも当然あっただろう。それでも尚、互いを求める気持ちを抑えられずに背徳を重ね合ったその時の二人の気持ちを想像すれば、まるで幽体離脱でもしたかのように心が痛み、そして甘く苦しく俺の胸を締め付けた。  腕の中の温もりを感じながらふと窓の外に目をやれば、そこに在りし日の親父の笑顔がこちらを見つめているような錯覚にとらわれた。  すまなかったな、遼二(りょうじ)――。勝手をして、家庭を壊して、お前を独りにしちまったこんな俺を赦して欲しい――親父の幻影がそう言っているように思えた。  俺はいつでも、どこからでもお前を見守ってる。だから思った通りに精一杯生きていけ――。大事なものを大事と言える、そんな男になって幸せになるんだぜ。  そう言って幻影は空へと消えていった。  涙があふれて、あふれて、とまらなかった。  もはや嗚咽を隠すこともできなくなった俺を紫月(しづき)は黙って抱き締めてくれていた。 「(りょう)、大丈夫。俺、ずっとお前と一緒だ。ずっと――ずっと――!」  少し冷んやりとした形のいい指で涙を拭ってくれながら、紫月(しづき)がそう言った。  耳を撫でるやさしい声が、寄り添ってくれようとするあたたかい気持ちが、有り難くて愛しくてならなかった。  いつか――いつの日かあの世で再び親父に会えた時、胸を張ってこの大事な人を紹介したい。俺は幸せだぜと、そう報告したい。  そんな思いを抱き締めながらそっと腕の中の絹糸のような髪にくちづけた。  かくも尊きこの人を――生涯かけて愛していきたい。  過去の苦い(ほむら)の記憶ではなく、熱くて激しくて、そして何よりも暖かい(ともしび)の如くあふれる想いを胸に抱き、大切に大切にくちづけた。

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