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今日と同じ明日は訪れない(2)
希望を断られるだけならいざ知らず、休暇の理由を訊かれると困ったことになる。上手く噓をついてやり過ごせるようなスキルが真壁にあるわけもない。最初はまんまとやりおおせたとしても、後々ボロを出してしまう自分が容易に頭に浮かんだ。
例えば、恋人と会うからです、などと馬鹿正直に答えた後の顛末は想像したくもなかった。「だったら写真見せてよ」とか「どんな人なの?」と深堀りされたときには地獄だ。「ふーん、そうなんだ、分かった」と興味なさそうに流されてしまった方がまだマシどころか、考えられうる返答としては最も色好いものだろう。最悪なのは、理由を追及された上で休暇申請を却下されることだった。
結論から言うと、理由は訊かれなかったが、休暇は取れなかった。休憩室に貼り出されたシフト表に真壁の希望は反映されていなかった。それを確認したのが昨日のこと。
連休の申し出を上長にしたことは宮下に伝えてある。結果が振るわなかった今となっては、余計なことをしてしまったと真壁は後悔していた。最初は黙っていようと思っていたのだが、希望通りにいかなかった現状を変えようと行動していることを宮下に示したくて、つい伝えてしまった。
明日は休みが取れた土曜日だった。けれど、彼と顔を合わせて件の内容を伝えるのは気が引ける。期待を持たせておきながら失敗してしまったのだから、宮下が更に落胆することになるのは火を見るより明らかだ。会えた瞬間に恋人の気分を損ねることはしたくない。
メール着信を示す携帯のライトが、小さく水色に点灯している。時刻は午前十時になっていた。出勤が一時間後に迫っていた。
***
売り場から倉庫に戻り、携帯を取り出した。時刻は午後五時半を回っている。残業さえなければ、宮下はもう帰宅している頃だろう。
予定よりも休憩の入りが遅くなってしまった。真壁は客との会話が長くなることが多い。販売実績が予算の百二十パーセントを下回ったことはないが、業務の進行に支障をきたしがちだった。得意不得意が明確なので扱いやすいと評されたことはあるが、逆に言えば苦手を克服できないまま数年勤めあげてしまったということになる。ここ数か月は、書類や売り場の作成をパート従業員に任せるなどの役割分担を明確にすることで、店舗全体の作業効率や利益率は上昇傾向にあった。
ともかく、真壁は現職で働くことについては前向きに考えている。業務内容に不満はない。年間休日が少なくて連休が取れないことが問題なのだ。しかし、給料、休日、人間関係、担当業務の全てにおいて高い満足度を得られる職業など、世の中にそうそう存在しない。ないものねだりだ。
入社一、二年で半数の同期が退職したのだが、そのときのことが今更ながら脳裏に浮かんだ。結婚に伴って遠方へ転居したというような、御目出度い理由なんて稀だ。職場の人間関係が悪化した、休みの日にも職場から電話がかかってきて休めない……などの不満によるものが大半を占めていた。是非はともかくとして、退職代行サービスを用いて行方をくらました奴もいる。退職代行なんて都市伝説だと真壁は思っていたのだが、どうやら実在したらしい。
彼らが仕事を辞めようと決心したのは、自分の将来について考え直すきっかけがあったからだろう。仕事に不満があったとか、時間を作って一緒に過ごしたいと思える大事な人が出来たとか、中身は何でも良い。自分のことを大切にするために、今と未来の自分がより幸せになるために環境を変えるのは、逃げではない。
勿論、再考の上で今いる場所に留まるのも悪いことじゃない。その場に残ることにした一部の者の中には、離れていった者を「逃げた奴」と表現する輩もいた。彼らも留まるために色々なものを捨てたのかもしれない。捨てたのか選び取ったのかはその人の考え方次第だろう。
ともかく、そういう再検討の時期が、今度は真壁にやってきたのだ。
私物のマグカップにポットのお湯を注ぎ入れると、はちみつと柚子の香りが事務所に広がった。冬場は温かい飲み物に限る。寒さや緊張で強張った体を優しく解してくれるような気がした。
吹く風がやけに冷たく感じる。辺りはもう暗く、車のライトが次々に道路を通り過ぎていった。繰り返される呼び出し音に急き立てられて、折角緩んだ頬の筋肉に力が入る。
仕事の休憩中に電話をかけようと考えたのは、真壁の今日の終業時間が午後八時であり、彼の家に向かうのが夜遅くなるからだ。気は重いが、今までの社会経験上、悪い知らせを伝えるのは早めにした方が良いことは身に染みて分かっている。従業員通用口のすぐ隣、倉庫のシャッターの前で、呼び出し音が途切れるのを待った。
『俊明《としあき》さん?』
何回目かのコールで、落ち着いた低い声が返ってくる。機械を通してぼやけた声は、独特の甘さを含んでいた。
名前を呼ばれるのにはやっと慣れてきたところだ。ここ数年で下の名前を呼ばれた記憶がほぼ存在しない真壁は、名を呼ばれても自分のことだと認識するのに時間がかかる。今も、恋人の声がじわりじわりと染みわたって、体の隅々まで行き届いてから、ようやく顔が熱くなってきた。
「悠人《ゆうと》くん、いま家?」
『うん、さっき帰ったところ。俊明さん、今休憩中でしょ? どうしたの』
「ええと、ちょっと話したいことがあって」
『お休みのことですか?』
食い気味な質問に隠しきれないほどの期待が滲んでいたので、真壁は思わず息を詰まらせた。落ち着いた声音がプレッシャーを放っている、ような気がする。彼の想望が砕け散ったあと、どんな修羅場になるのか考えたくない。全て有耶無耶にできれば、どんなに気分が楽になるだろう。
刺すような冷たい風が時間を止める。何か言わねばと吸われた息が肺に滞留したまま出口を見失って、心臓を圧迫していく。ますます口が動かせなくなった。
『あ……ごめんなさい。俊明さんの話を遮ってしまって』
「……ううん、その話だよ。休み、やっぱり取れなかった。シフト見たら連休なんてなかった」
『そう、ですか』
彼の声のトーンが落ちたのは明らかで、真壁まで暗い気分になる。咄嗟に謝りかけたが、その自分の行動に違和感を覚えた。
宮下と会える時間が少ないのは、決して自分だけが悪い訳ではない。というより、誰が悪い訳でもなかった。望む結果は得られなかったけれど、だからといって、真壁の好意が宮下のそれより劣っているということにはならない。真壁だって、自分の時間を宮下と共にいるために使いたいと思っているのだから。
「うん……残念だけど、その分、一緒にいる時間を大事にしたい」
『俺も、そう思ってます』
力強い宮下の返事に口元が綻んだ。体の中から、綿のように柔らかくて優しい力が湧いてくる。今なら何でもできそうだった。
「良かった。……大好きだよ」
不意に零れた甘い言葉は、恋人の落ち着いた息遣いを乱すには十分だったようだ。もにょもにょと不明瞭な呟きが耳に届いた後、『俺も、です』と恥ずかしそうに同意が返ってくる。面映ゆさで真壁まで口ごもってしまった。
スピーカーの向こう側の彼は今、どんな顔をしているのだろう。早く会いたい。とっとと店を閉めて、一足で彼の家まで向かいたい。
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