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第4話 山田オッサン編【4】

 玄関に立った男は、床の醤油ボトルの林をちょっと眺めてから山田を見た。 「なんですか? コレ」 「いま大家がきててさぁ、醤油買いに行くっつーから持ってってもらったんだよ。いらねぇからこんなに。どーせならいっぱい持ってってくれりゃいいのにさぁ、1本しか持ってかねーから減らねぇっつーの。そーいやお前も寄越したっけ? 醤油。そのなんか高そーなやつお前だろ、ぜってーそーだろ」 「山田さん」 「なに」 「よく知らない男を部屋に入れないでください」 「はぁ?」  口を開けて見上げた山田に、男は手にしていた紙袋を押しつけた。 「なんだコレ」 「手土産です」  紫色の紙袋には『人形町 やま田』の文字。 「なにコレ、どんな嫌がらせ?」 「俺じゃなくて、アサヒからですよ。よろしく伝えてくれって」  靴を脱ぎながら小島は言い、山田はふーんと気のない相槌を返した。 「ほんと変わってんな、お前の嫁さん」  最とまでは付かずとも大手企業の社長を父に持つボンボンの元後輩は、承継準備のため3年前に退職すると、それから半年も経たないうちに取引先の令嬢と政略結婚した。  披露宴には山田たちも呼ばれたが、会場もメシも招待客も豪華すぎて庶民の彼らは浮きまくった。  で、ともかく、アサヒというのが後輩の嫁の名だ。 「嬉しいんでしょうね、俺が山田さんと会うのが」 「良心の呵責なくカレシに会えるからか?」 「そんなものお互い初めからありませんけど、山田さんも良心の呵責なんて言葉知ってるんですね」 「お前は俺を何だと思ってんだ?」 「最愛の人ですけど何か」  スルーすることにした。 「嫁さん、相変わらず貧乏なカレと続いてんの?」 「貧乏っていっても、山田さんくらいの生活水準ですよ」 「お前らの世界じゃ俺は貧乏人か」  部屋に入ると、山田は『やま田』の紙袋をベッドの上に置いた。  中身は何だろう? 思いながらもそのまま煙草を咥える。まぁどうせ高級なモノに決まってるし。 「貧乏でも一生、彼だけを愛するんだそうですよ」  小島が言ってベッドに座ると、 「そりゃあ美しーハナシだなぁ」  山田は棒読みで感想を述べて煙草に火を点けた。 「てか勝手に座んな」 「俺も、貧乏でも一生、山田さんだけを愛しますよ」 「貧乏人扱いすんな」 「ツッコむのがそこってことは、一生愛するのはOKってことですよね」  めんどくさいから聞こえないフリで煙を吐いておく。 「つーかお前さぁ、来る前に連絡くらい寄越せよな」 「すみません。急に、どうしても、会いたくなってしまいまして」  急に、どうしても、を男は殊更強調した。  まるでそれが免罪符でもあるかのように。 「でも、いなければ帰りますから」 「いても困るときもあんだよ」 「例えばどういうとき?」 「だからぁ、いろいろあんだろーが」 「佐藤さんがいるときとか?」 「佐藤が何だよ!」  山田は目を三角にした。 「俺は別に構いませんよ? 鉢合わせしても。佐藤さんはどうだかわかりませんが」 「だから佐藤が何だよ!」  堂々めぐりになりかける寸前、小島の手のひらがそっと山田の肩に触れた。 「山田さん」 「何!」 「会いたかった」 「あーそうかよ」 「すごく会いたかった」 「繰り返さなくても聞こえた」 「すごく、会いたかったんです」  すごく、を強調して言い、小島が山田の指から煙草を取り上げた。      パンイチで突っ立ったまま煙草をスパスパ吸っている元先輩を、元後輩がベッドから眺めながら言った。 「そのパンツ、今日俺が来るから履いてくれたんですよね?」 「なに言ってんの? たまたまだから。別にお前がくれたから履いてるわけじゃねぇし。たまたま抽斗の一番上にあったから履いただけだし」  小島は部屋の隅を見た。乾いた洗濯物が山になっていた。 「どこに抽斗があるんですか?」 「バーチャルだよ、バーチャル! 部屋に家具とか置いたらスペースなくなんだろーが、前の家より狭ぇんだからよ」 「はいはい。で、脳内空間で俺を選んだと」 「お前が買ったパンツをな」 「えぇ、脱がせるために買ってあげたパンツをね」  余計な部分は無視する。 「もっぺん言っとくけど、選んだんじゃなくてたまたまだからな」 「脳内でね」  めんどくさくなったので、このネタは強制終了することにした。 「あのさぁ、純真無垢な好奇心で訊くんだけどさぁ」 「はい」 「嫁さんとエッチすんの?」 「しませんよ」  即答した小島を山田は見て、山田のその目を小島が見返した。 「え? いままで1回もしてねぇの?」 「えぇ。ほかの女性とはしても、彼女とはしませんね」 「は? おかしくねぇ?」 「おかしくありません。ほかの誰かを好きな相手とは寝ないことにしてるんです」 「──」  このネタもめんどくさくなりそうな予感がしてきたから、山田は黙ることにした。 「山田さんは、いないんですよね?」 「──」 「好きな人いませんよね?」 「──」 「山田さん」 「──」 「佐藤さんを好きなわけじゃないんですもんね?」 「なんでピンポイントで佐藤なんだよ!?」  沈黙はすみやかに破れ去った。 「てかお前、なんのための政略結婚だよ? 跡継ぎ作んなくていーのかよ!?」 「できないものは仕方ないですよね」 「できないんじゃなくて作んねーんだろ」 「まぁいざとなったら、あっちの彼と作ればいいんじゃないですか?」 「お前まさか、それ自分の子供として育てんの?」 「それで丸く収まるならそれでもいいですよ」 「マジで言ってんの?」 「どうせ嘘っぱちの家庭ですからね」  山田はどうということのない元後輩のツラを眺め、床の上の『やま田』の紙袋を見てからニコチンを吸い込んだ。  カネ持ちの考えることはわからねぇ。貧乏人の山田は思い、それにしても……と身近にいるもうひとりの妻帯者を頭に浮かべた。  相次いで嫁ができた2人の結婚生活は、こんなにもかけ離れてる。  かたや、押し切られたとは言え恋愛の末にゴールして、もうすぐ子供が産まれる円満な家庭。  一方コイツは── 「寂しくないですよ?」 「誰もきいてねぇ、ンなこと」  山田はそっぽを向き、仁王立ちで煙を吐いた。  その横顔を微笑ましく眺めていた小島が、ふとベッド脇の床に落ちているキーホルダに目をとめた。手を伸ばし、拾い上げる。 「山田さん、こんなに何の鍵が付いてるんですか?」 「こんなにって、3つだろ?」 「これは?」 「は? ここの鍵だよ」 「これは?」 「うるせぇなぁ、そりゃ実家」 「今度、山田さんの実家に行っていいですか?」 「何しにだよ!」 「ご挨拶とか」 「なんの挨拶だよ!」 「残りのこれは?」 「あーそれは佐藤……ぉお弟んち」  小島がちょっと黙り、言った。 「佐藤さんの弟さん、まだ実家ですよね」 「え、そーだっけ?」 「佐藤さんのご実家の鍵を山田さんが持ってるんですか?」 「うんまぁ、そういうコトかな」 「相変わらずウソつきで、相変わらずウソが下手クソですね」 「俺のどこがウソつきなんだよ、この清廉潔白、純真無垢、無菌培養、滋養強壮……」 「佐藤さんも山田さんちの鍵持ってるんですか?」 「はぁ? 持ってるわけねーだろ」 「それもウソ?」 「どれもウソじゃねーし、アイツが無理やり押し付けただけだし、べつに持ってるからって使うわけじゃねーし!」 「じゃあ外しちゃっていいですか? コレ」 「え」  男が微笑んだ。 「使わないならいいですよね?」 「は? だからってお前、ひとのモン勝手に」  文句を垂れる山田に構わず、さっさと鍵を外してしまう。 「無理やり押し付けられたんでしょう? 俺が預かっといてあげますよ」  小島はにこやかに言い、山田が伸ばした手から鍵を遠ざけた。 「オイ!」 「なにムキになってんですか?」 「べつにムキになってなんかっ」 「佐藤さんの鍵、返してほしい?」 「佐藤のじゃ……ねぇしっ」 「そんな涙目になるくらい大事なんですか? コレ」 「なってねぇし!」 「じゃあ、当てたら返してあげますよ」 「あぁ?」 「右と左、どっちにします?」  声とともに山田の前に差し出された、拳ふたつ。 「ただし、もしもハズレたら……ね?」  笑顔の男は皆まで言わない。  右か、左か。

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