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第一話
芳しい花の匂いに意識が浮上する。
幸せな、夢を見ていた。
大好きな人の暖かい腕 に優しく包まれながら、優しく揺さぶられ続ける。
湧き上がる多幸感。
嬉しくて、涙が止まらない。
ずっとずっと、この温もりに包まれたい……その願いも虚しく、オレの瞼はゆっくりと持ち上がる。
目を開けるとそこは、いつものオレの部屋だった。
リビングと寝室が一体の、必要最低限の家具しか置かれていない、殺風景な狭い部屋。
けれど今日ばかりはこんな部屋が輝いて見える。
オレは昨日、ここで恋人と初めての夜を過ごしたのだ。
ケインは大学でも指折りの美丈夫で、平凡なオレが側にいるのは烏滸がましいと思うほどの男。
優しくて、いつもオレを気遣ってくれる優しい性格。
しかも実家は金持ちと来ているから、彼の側には恋人になりたいと希望する人たちが余計に列をなしていたほどだ。
入学直後から目立つ彼に惹かれはしたものの、 オレみたいなやつがケインに近付くなんて……と思い、一度も側に行くことなく四年近くが過ぎた。
そして卒業まであと半年となったある日。
突然ケインに声をかけられたのだ。
前からオレを気になっていた、付き合って欲しいと告白をされて、パニクったオレは申し出を即座にお断りした。
自分で言うのもなんだが、彼にオレは本当に似合わない。自分のことは自分がよくわかってる。断るのは当然の流れだった。
だけどケインは諦めず、校内で会うと満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきて、愛を囁いてくれた。
顔だけじゃなく性格も最高で、非の打ち所のない人物とは彼のことを指すのだろうと感心したほど、ケインは 誠実で、しかも真剣にオレに接してくれた。
元々惹かれていた人物に優しくされ、しかも好きだと迫られるのだ。
ケインの告白から二週間後、ついにオレは彼に諾と告げた。
ケインは飛び上がらんばかりに喜んで、これまで以上にオレを甘やかしてくれたのだった。
そしてついに昨日……俺たちは一つになった。
何もかもが初めてで、パニックのあまり泣き出したオレを、ケインは優しく宥めてくれて、溢れんばかりの愛情を注いでくれた。
夢のようなひととき。この時間が永遠に続けばいいのに……と思うほど、最高に幸せだった。
まるで揺り籠の中いるかのように、心地よい揺れの中、オレはいつしか眠っていたらしい。
らしい、というのは途中からよく覚えていないせい。
ただ一つだけ……本当に幸せだったことだけはしっかりとこの胸に刻まれていた。
ケインの温もりと囁かれ続けた甘い言葉は、きっと一生忘れることはないだろう。
その余韻に浸りながら目覚めたオレは、ケインの姿が どこにもないことに気付いた。
「ケイン……?」
広くもない室内に、オレの声が虚しく響く。
どこへ行ったのだろう。シャワールームだろうか。
ベッドサイドに置いたメガネを取り、ケインの姿を求めてベッドから降りると、下半身に激しい違和感を覚えた。
足がガクガクと震えて、主に股関節のあたりに鈍い痛みが走る。昨夜たっぷりと愛された後孔の縁が引き攣れたような感覚があり、まだ何か入っているような錯覚すら感じる。
それを堪えてシャワールームへ向かう途中、テーブルの上に一輪の紅薔薇とメモを見つけた。
少し角ばった男らしい筆跡で、こんなこと書かれてあった。
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愛しのアーク
先に学校へ行く。
昨日は少し無茶をしてしまったから
疲れただろう。
今日はゆっくり休んで。
また連絡する。
ケイン
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何度も繰り返し読み返して、テーブルに置かれたままの薔薇を手に取る。
甘い香り。目覚める間際に感じたのは、この花の匂いだろう。
昨日、ケインがこの家に来たときにはなかった物。彼が朝買って来てくれたのだろうか。
ケインの気持ちが嬉しくて堪らない。
「……会いたい」
会いたいという気持ちが抑えきれない。今すぐ温かな胸の中に飛び込みたい。
その気持ちを抑えきれなくなったオレは、急いで支度を済ませると家を飛び出した。
もちろん薔薇を水の張ったコップに挿すことは忘れない。
昨夜の愛の結晶とも言える花。できる限り長持ちさせたい。
上手く動かない足を叱咤しながら学校の門をくぐり、ケインを探す。
彼はよく仲間たちとカフェや中庭にいる。その辺りを探せばケインは見つかるはずだ。
はたして彼は中庭にいた。ケインの周囲に四人の友だち。
もしも彼らに昨日のことがバレたらどうしよう……そんなことを考えると、恥ずかしすぎてケインの元まで行くことができない。
どうしようかと悩むオレの耳に、彼らの会話が聞こえてきた。
「それでケイン。目論見通り、あのメガネくんを攻略したんだな」
「……あぁ」
俯いたまま小さく話すケイン。
感情のこもらない声。長い前髪が邪魔して、その表情は窺い知れない。
そんなケインとは対照的に、彼の一言で周囲の友人らがドッと沸いた。
「チェッ! もっと身持ちの堅いやつかと思ってたのにな」
「馬鹿だな。あぁいう真面目そうで野暮ったいやつに限って、案外簡単に足を開くもんなんだぜ」
「おい、そんな言い方は」
「じゃあ半年以内に堕とすに賭けたやつが勝ちな」
「くっそー、負けちまった!」
……彼らは今、なんと言った?
攻略? 賭け?
衝撃的な発言の連続に、上手く思考が回らない。
ケインがオレに近付いたのは、賭けの一環だったってことか?
全身の力が抜けて、崩れ落ちそうになるのをなんとか堪える。
衝撃の事実に心が悲鳴を上げるも、涙は全く出てこない。
人間、あまりに悲しいことがあると、むしろ泣けなくなるなんて知らなかった。
こみ上げるのは、激しい怒り。
愛おしいという感情は一気に吹き飛んで、心は激情に支配されていた。
奥歯を噛みしめ、彼らの前に進み出る。
オレの姿に最初に気付いたのは、友人の一人だった。
「あっ……アーク……」
その声に弾かれるようにケインが立ち上がる。
驚いた顔をしてこちらに駆け寄る彼に、オレは手を振り上げた。
バチン!
乾いた音が辺りに響き、誰かがヒュッと息を飲むのが聞こえた。
「ア……ク……」
「ゲスな遊びは楽しかったか? つまらない男を相手にしなきゃならなかったなんて、アンタも大変だったな」
「ちが、アーク、話を」
「煩いっ!! お前なんか大嫌いだ。二度とオレに近寄るな!!」
そう叫んで、ケインの前から走り去った。
ケインは、追いかけては来なかった。
やつを殴った手が痛い。
それ以上に心が痛い。
信じていた……信じていたのに!
あの微笑みも、愛の言葉も、昨夜の出来事も……全部全部、嘘だった!
ケインの態度に一喜一憂していたオレを、やつらは影で笑いものにしていたに違いない。
きっと彼も一緒になってオレのことを……。
絶望に支配されたオレは学校を出て、そのまま家へと戻った。
ケインと同じ空間にいることすら厭 わしかった。
玄関を開けると微かに甘い香りが漂っていることに気付く。
ケインが送ってくれた薔薇の花だ。
『アーク……愛してる……』
ナカを穿ちながら、何度も繰り返し囁いたケイン。
あれも、全部、嘘だった。
「あーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
絶叫しながら、薔薇の入ったコップを薙ぎ払う。
カチャンと鋭い音を立てて砕けるコップ。ジワジワと広がる水の中に、薔薇の花弁が散る。
無残に千切れた花びらが、まるで今のオレたちのように見えた。
愛情も、プライドも、何もかもがズタズタだ。
――今すぐこの街から去ろう。
そう決心したオレは、とりあえず必要最低限の荷物だけ持って、部屋を後にした。
向かうはこの街から遠く離れた、とある田舎の小さな町にある実家。
幸い単位と出席日数は足りている。今まではケインに会いたくて、用もないのに大学へと行っていたが、もうその必要はない。
実家に帰っても、何の不都合もないということだ。
スマホの連絡帳からケインのデータを呼び出して、彼の番号やSNSのアカウント、全てを拒否する。
名前を見ただけで胸がジクリと疼き、指が震えたけれど、なんとか作業を終わらせた。
――もうここには戻らない。
数時間前、ケインと愛し合った部屋を一顧だにすることなく――悲しい現実から逃げるように、オレはこの街を後にしたのだった。
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