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第二話

 感情のままにケインとの思い出が詰まった街を離れて田舎町に戻ってきたオレを、両親はだいぶ驚きながらも迎え入れてくれた。  驚くのも当然だろう。本当ならば卒業後は街で就職をし、田舎には帰らない予定だったのだから。  しかし決まっていた就職先を採用辞退し、田舎で職を探すと言ったオレを両親は黙って受け入れ、深い話は聞かずにいてくれたのだ。  街で借りていた部屋に残った荷物は、後日引っ越し業者に依頼して全て運んでもらった。  卒業式にも出席していない。  以来、一度も街に足を踏み入れたことはない。  当然ケインと会うはずもなく。  もし会えば、正直何をするかわからない。激情のままに罵倒し、殴りつけてしまいそうだ。  だから会わないのが一番いい。これでよかったのだと、時折わけもなく乱れる心に何度も語りかけて、最近ようやくそれを飲み込むことができた。  気付けばあれから五年の月日が経っていた。  あれからオレは、地元の工務店で事務員としてとして働いている。  小さい会社で従業員数も少ないため、一人一人が担当する仕事は多岐にわたっている。そのため何かと忙しい。けれど余計なことなど考えず、仕事に没頭できるのはよいことだ。  地元に戻って五年の間に、オレにも恋人と呼べる存在はできた。  残念ながらどれも長くは続かず、少し付き合ってはすぐに別れて……ということを何度か繰り返している。  最初はケインを忘れるために、新しい恋にのめり込もうと必死になったが、最近ではそれもちょっと違うな……と考えるようになった。  そして一年前に最後の恋人と別れてからは、誰とも付き合っていない。  終わった恋を忘れるための恋愛なんて、最初からしない方がいい。第一、相手に失礼だ。  元恋人たちには本当に不義理なことをしたと思うが、それが分かっただけでも随分成長したように思える。 「何またジジくさいこと考えてるのよ」  昼休憩中、自分の席でホットコーヒーを飲みながらボンヤリしていると、後ろからパコンと頭を叩かれた。 「……何するんだよ、ヴァネッサ」  後ろを振り返ると、書類を手にしたヴァネッサが呆れたようにオレを見ている。 「書類で叩くなって前も言っただろ?」 「あら別にいいじゃない。痛くなかったでしょ?」 「そう言う問題じゃない」 「ところでまたグダグダと後ろ向きなこと考えてたんじゃないの?」 「そんなことない」 「嘘おっしゃい。アタシには全部お見通しよ。何せアークの元恋人なんですからね」  そう、ヴァネッサとオレは以前一度付き合っていた仲だ。  告白はヴァネッサの方から。 『アークは物静かで同僚たちのなかで一番落ち着いているし、それに凄く真面目じゃない。お給料日に散財する様子もないし、普段の生活態度を見てると堅実に貯金してるのがわかるもの。だから結婚したら苦労せずに済みそうじゃない?』  そんなことを悪びれもなく告げられて、呆れるよりも可笑しさが先にこみ上げる。  下心を隠すことなく自分の欲望をハッキリと口にできるヴァネッサに、むしろ好感を持った。変な思惑を隠されて、気持ちを乱されるのはもうごめんだから、正直に話してくれた彼女が眩しく見えたほどだ。 『アタシね、言葉を綺麗に飾って取り繕うのが苦手なの。だからストレートに伝えてみたんだけど、気を悪くした?』 『いや、むしろ清々しいくらいだったよ。君って面白い女性(ひと)だね』  こんなやりとりを交わした後、俺たちは付き合うこととなった。  ヴァネッサは今まで付き合ってきたどの恋人たちとも違い、とても魅力的な女性だった。天真爛漫で自分を飾ることなく、時に耳を塞ぎたくなるような苦言を呈することもあったが、それでもオレは彼女を厭わしいとは思わなかった。  好き嫌いで言えば、確実に好きだったと思う。  だけど、オレたちは別れた。  原因はオレにある。  もう付き合えないと何度も頭を下げて謝罪するオレを、ヴァネッサは『仕方ないな』と受け入れてくれた。  バネッサとは恋人という立場を解消した今も、仲のいい異性の友だちとして付き合いが続いている。  友だちになってもヴァネッサの態度は変わらない。  口が悪くストレートな物言いをする一方で、情に厚く少しばかりお節介な性格の彼女。付き合っている当時からそれは変わらず、いやむしろ、ますます酷くなった気もする。  ヴァネッサ曰く『いつまでもウジウジ悩むアークを放っておけないだけよ』とのことだが、些細なことにもいちいち口出ししてくるため、君はオレの母親かと何度口にしたことか。 「だってアタシが言わないと、アークはいろいろ考えすぎて、浮上できなくなるでしょ」 「そんなことはない」 「ありますってば。とにかくその辛気くさい顔をなんとかして、この書類を処理してちょうだい。ついさっき急に取引先の人が明日訪問してくることが決まって、大急ぎで資料を作らなくちゃならないのよ」 「そりゃ大変だ。わかった、任せて」 「今日の十七時までに書類を仕上げて、ボスのサインを貰っておいてちょうだい。期待してるわよ」  ヴァネッサは言いたいことだけ伝えると、自分の席へと戻って行った。  彼女から渡された書類を眺めて、ふと気分が軽くなっていることに気付いた。  過去を思い、自分では気付かないうちに、少し気持ちが沈んでいたのだろうか。  全く、ヴァネッサには適わない。  オレの弱さを受け止めて、全てを赦してくれた人。  彼女のためにも、もっと強い自分でありたいと願う。  幸いにもあのとき負った心の傷は、今ではだいぶ癒えている。時間薬というのは本当に凄い。  これからはきっと、前を向いて歩いて行ける。  今日のこともいつかいい思い出になるかもしれない。そのときはヴァネッサと共に酒を酌み交わしながら、笑い飛ばすことだってできるだろう。 ――だからきっと、大丈夫だ。  このときのオレは、もう自分は大丈夫だと本気で信じていた。  しかし運命は時に残酷で、現実がどれほど非情なものかを改めて思い知ることになるなんて、このときのオレは思いもしなかったのだ。 **********  事態が大きく変容したのは、その翌日のこと。  ヴァネッサが言っていた取引先の人間を見て、オレは絶句した。 「ケイン・マクレガーです。今日はお忙しい中突然の訪問をお許しいただき、感謝いたします」  訪問予定時間ピッタリに現れたのは、まさかのケインだったのだ。  五年前よりも大人びた、精悍な容貌。逞しい肉体をさも高価そうなスーツで包み、当時は下ろしていた前髪を後ろに軽く撫で付けている。  額にかかる後れ毛がセクシーねと、ヴァネッサが耳元で囁いた。その声は明らかに弾んでいる。それもそうだろう。今のケインは以前よりもっと人目を引く容貌になっているのだから。  ケインはオレに声をかけることなく、営業担当と応接室に入って行った。  すれ違う際、フワリと甘い香りがした。彼が付けているコロンだろうか。  何故かあのとき贈られた薔薇の花を思い出して、途端に苦い気持ちになった。 ――なぜ彼が……。  彼はたしか、実家の会社を継ぐはずだった。  それはこの国では誰もが知る自動車メーカーだ。決して片田舎の工務店と取引するような会社ではない。  けれどあの顔、あの声、そして名前。  全てがケインと一致する。  オレは固まったまま、彼が入っていった応接室をジッと見つめ続けるしかなかった。 「アーク、どうしたの?」 「……いや、なんでもない」 「嘘よ。だって顔色が悪いもの。絶対何かあったでしょ」  ヴァネッサには全てお見通しだった。  しつこく質問してくる彼女に参ったオレは、彼がケインであることを告白した。 「そんなことって……」  さすがのヴァネッサも、口をポカンと開いたまま絶句するしかなかったようだ。  きっとなんと言ったらいいかわからないのだろう。  彼女の気持ちもわかる。事実オレ自身がそうなのだから。 「それで……」  長い沈黙の後、小さな声で彼女が口を開いた。 「アークはどうしたいの?」 「どうするも何も……オレたちはもう終わったんだ。これ以上何も起きないよ」  ふぅん……といいながらオレの顔を覗き込むヴァネッサ。  疑っているようだけれど、これは嘘偽りない本心だ。  けれど彼女はオレの言葉を信じてはくれないようで、ジッと顔を覗き込むばかり。 「……本当だって」  無言の圧に耐えられなくなって顔を逸らしたオレに、彼女は爆弾発言を落とした。 「そう。アークの気持ちはわかったわ。じゃあアタシが彼にアプローチしても問題ないわね」 「えっ」 「だって彼はとてもセクシーだし、あの年で重役に就いてるなんて凄いじゃない! 結婚相手に選ぶには最高の人だもの」  そう言って花がほころぶような艶やかな笑みを浮かべたヴァネッサを見て、何故か心がジクリと痛んだ。

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