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『バレンタインデー*前』side伊織
ついこの前までお正月飾りで華やかな空気が流れていたのに、気づけば駅ビル内も近所のコンビニも赤やピンクで彩られ、目立つ棚にはチョコレートのお菓子が並んでいる。世間はもう一ヶ月も前からバレンタインの準備に入っていた。
「……バレンタイン、ねぇ」
思わずこぼした言葉がふわりと白い息に包まれる。人通りの多い駅前を抜け、スマホの画面を頼りに歩いていく。広げた地図アプリの現在地を示す水色の丸が、どこか思い切れない俺の姿を表すように定まらず揺れている。初めて訪れた街への不安に、引き返したいような気持ちが持ち上がり、思わず足が止まる。
「……」
振り返れば、今抜けてきたばかりの駅舎が目に入る。駅ビルのくっついた大きなターミナル駅からは絶えず電車の到着を知らせる音楽が流れている。学校の最寄り駅からいつもとは反対方向の電車に乗って二十分ほど。そこまで遠いわけでもない。ここから家まで一時間もかからずに帰れるのだから。だから……
俺はもう一度、手元の画面に視線を向ける。
目的地として登録された地点までは、あと少し。
――きっと大和は自分が言ったことさえ、覚えていないんだろうけど。
それほど些細な出来事だった。そんな何気ない言葉でさえしっかりと記憶してしまっている自分が恨めしい。
吸い込んだ空気は肺の奥まで冷たさを染み込ませてくる。
見上げた空には降水確率0パーセントの予報を疑ってしまうような灰色の雲が広がっている。それでも……
「……行くか」
大きく息を吐き出した俺は、スマホの画面を頼りに足を踏み出した。
*
周りを気にするように声のボリュームを落として話し出した大和の声が、冷たいスマホ越しに聞こえる。特に聞かれたらまずいような話をしているわけではないから、普通に話してもなんの問題もない。それでも、大和の声は聞き慣れない小ささで言葉を紡ぐ。
そんな些細な変化がくすぐったくて、俺は思わず笑ってしまった。
「ふ、ふふ……」
「伊織?」
「あ、ごめ、なんでもない」
「なんか面白いことでもあった??」
「まぁ、そんなとこかな」
「?」
これくらい、いいだろう。「幼馴染」で「親友」のままだったら、きっとこうはならなかった。俺と電話で話す、たったそれだけの何回も繰り返してきたことですら、こんなふうに変わるなんて、思わなかった。たったそれだけのことで嬉しくなってしまう自分を初めて知った。これくらい、俺だけが知っていても、いいだろう。
「大和、明日から部活だっけ?」
「三日後から大会始まるからなぁ」
「昨日、年が明けたばかりなのにね」
ベッドの上に弾むように体を乗せると、広がった髪の毛から新しく買ったトリートメントの香りがふわりと舞う。
「本当になぁ。きっちり朝練からあるし……」
「じゃあ、しばらくは一緒に学校行けないね」
嗅ぎ慣れない甘く爽やかな香りに気を取られていた俺は、頭で考える前に言葉を滑らせていた。
「なに?さみしいの?」
小さくすることを半分忘れた大和の声は、からかうような色を見せるくせにどこか柔らかく耳に響く。
「っ、別にそんなんじゃ」
「ふは、まぁ言っても二週間ぐらいだから」
「だから別にさみしいなんて一言も言ってな……」
「伊織」
否定しようとした俺の言葉を遮るように、大和が俺の名前をまっすぐ呼んだ。大きな声ではないのに、はっきりと耳の奥から頭の奥まで響き渡るその声に、俺は一瞬、言葉を飲み込む。
「……なに?」
大和の声の残響がはっきりと体の中にとどまっていて、自分の心臓が速くなるのを感じた俺は、少しだけ声を低くする。
「試合、観に来る?」
どこか不安を混ぜ込んだような頼りない、窺うような声。けれど、それはどこまでも優しく俺の中に響く。今、大和はどんな表情 をしているのだろう。
「!……大和が来て欲しいなら、行ってやらなくもないけど」
「うん、来て。俺、めっちゃ頑張るから」
見えない。
触れられない。
それでも、どこか安心したように小さく笑う大和の顔が浮かび、揺さぶられていた俺の心も温かさに包まれていく。
「そんなに俺に会いたいの?」
「……悪いかよ」
「ふは、いいんじゃない?」
言葉でいくら強がってみせても、伝わってしまう。
素直になれる瞬間が噛み合わなくても、そんなの気にならないくらいに。
どうしたって、伝わってしまうんだ。
それが心地よくもあり、気恥ずかしくもあり、嬉しいはずなのになんだかくすぐったくて落ち着かない。
ベッドに寝転がったまま、そっと視線を天井から机の前へと移すと、置かれたデジタル時計がもうすぐ日付が変わることを教えてくれた。
俺は明日も変わらず冬休みだけど、大和は明日から部活が始まる。通話を終わらせるタイミングは今だろう。静かに息を吸い込んで、神経を耳に集中させる。
「じゃあ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
いつもならそこで消えてしまうはずの音が、変わらず繋がっていて。
言葉も声もない空間に漏れるわずかな息遣いが触れられない距離を近くに感じさせる。
やっぱり今までとは違うのだと、そう実感する。
「……」
「……」
通話終了のボタンに触れるのをためらってしまう。そんな瞬間さえ同じだから。
でも、こうやって惜しむ瞬間は今日だけじゃなくていいはずだ。
俺は変わり続ける通話時間の表示を確かめてから、そっと息を吸い込んだ。
「もしもし?」
「!お、おう」
――驚いたように少し弾んだ大和の声が、やっぱり心地よくて。
「明日朝練なんでしょ」
「あ、うん」
――そう返事をしながらきっと首も動いているんだろうなと想像できて。
「せーので切るよ」
「お、おう」
――通話一つ切ることさえこんなに時間がかかってしまう。
「せーの」
「せーの」
――そのどれもが、今はこんなにも愛おしい。
顔から離した手の中で、止まってしまった通話時間の表示から見慣れた桜の写真に切り替わる。枕元の定位置に暗くなった画面を裏返し、俺は部屋の電気を落とした。
変わってしまったこと。
変わらずに続いていくこと。
そして、これから変えていきたいこと。
その全部が今の自分の中にあると、そう自覚しながら。
*
住宅街の細い路地を曲がった先、冷たい風に背中を丸めながらも五人ほど外に並んでいるのが目に入る。白い壁に水色の小さなドア。大きめの窓からは店内の明るいライトの光と併設されたカフェで話すお客さんの様子が見える。青い屋根の下、コーンに乗せられたアイスの看板が吊り下げられている。
「冬にアイスって……どんだけ美味しいんだろ」
そう呟いた俺の声も白い息とともに風にさらわれる。冷たくなってしまった手を、握っていたスマホごとコートのポケットにしまう。マフラーに顎を埋めるようにしてみても、日が落ち始めて低くなった温度が容赦無く肌に触れてくる。
正直、早く家に帰って暖まりたい。いくら憶えていたからといって、コレでなくても大和ならきっと喜んでくれる。そうは思うけれど……
「……並ぶか」
再び呟いた言葉はため息とともに消えていく。
――そして、俺の足は列の六人目になるべく向かっていた。
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