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『バレンタインデー*前』side大和
――冬休みが終わって一週間が経った。
新人戦が終わり、部活の朝練から解放された俺は、目覚めてしまった体を持て余し、いつもよりだいぶ早くその場所に着いてしまった。
伊織はまだ来ていなかった。
駅へと続く大通りと交わるそこは、学生やサラリーマンがひっきりなしに通っていく。小さな支流が大きな本流へと混ざっていくように駅へと向かう人の足は同じ方向を保ったまま止まらない。俺は人の流れを避け、忘れられてしまったようにポツンと置かれている小さな公園の入り口へと体を寄せた。
吐き出した息は一瞬にして白く染まり消えていく。
コートのポケットに突っ込んだままの左手をちょっとずらし、腕時計を確認すると待ち合わせ時間まではまだ二十分ほどある。
――どんだけ楽しみにしていたのかと、暖かい家を飛び出したほんの数分前の自分につっこんでやりたい。
「……」
俺は少しでも寒さを避けようと、日陰を回避して陽射しが降り注いでいる砂場の方へと足を進める。申し訳程度に作られた狭い砂場と滑り台。並んだ二つのベンチ。公園と呼ぶのに最低限の設備しかない空間をぐるりと見回し、こんなに小さな世界だったのかと、改めて実感する。
「……懐かしいな」
飽きることなく競うように滑り台で遊んだことも、食べれもしない泥団子をひたすら磨いたことも、トンネルを掘ることに夢中になったことも、忘れていた思い出はいたるところから溢れてくる。
今は通り過ぎるだけになってしまったこんな場所にすら、ちゃんと伊織と遊んだ思い出が転がっていて、寒さしか感じていなかったはずの俺の胸は少しだけ温かくなった。
「伊織、まだかなぁ」
勝手に早く家を出ておきながら、いつもは当然のように待たせておきながら、俺は自分勝手に呟いてみる。見上げた空からまっすぐ伸びる光の眩しさに目を細めた、その時。
「大和?」
「!」
聞き慣れた声が、ずっと待っていたその声が、耳に飛び込んで来た。
聞こえた方へと惹きつけられるように振り返ると、驚いたように目を丸くさせた伊織が立っていた。
「え、なんで?大和の方が早いとかこわいんだけど」
「こわいってなんだよ」
俺は少しだけ眉根を寄せ、戸惑うように表情を変える伊織に向かって歩き出す。
伊織は俺の顔と空を見上げ、小さく白い息を吐き出しながら首をかしげる。
「え、今日って晴れ予報だったよね?雪でも降るのかな」
「俺だって早く来ることくらいあるんだよ。先週までずっと朝練してたし」
そう言って隣に足を並べると、俺はいつものように少しだけ視線を下げる。伊織が鼻の先を赤く染め、寒さに首をすくめている。巻きつけたマフラーに顔を埋めると、柔らかな髪がふわりと風に揺れた。
その見慣れた視界は、そこがとても落ち着く場所であったことを俺に教えてくれる。
「いや、朝練なんて中学の頃からあったじゃん。何?なんで?どうしちゃったの??」
「別に……ただ早く目が覚めただけだから」
見上げてきた伊織の視線から逃げるように、俺はささやくように揺れる木の枝を見上げる。一年中葉っぱをつけているクスノキを「秘密基地」と呼んで登った時から十年が経とうとしている。それだけの年月を俺は伊織と過ごしてきたけれど、関係性が変わってからはまだほんの二週間しか経っていない。
「へぇ、そっかぁ……」
「なんだよ」
「べつにぃ」
伊織がからかうように見上げてきた視線を外し、駅へと向かう道の方へと歩き出す。向けられた背中を追うように踏み出した俺は、伊織の冷えて赤くなっている耳の先を見つけ、ふと自分の左手首に視線を落とす。
黒いスポーツウォッチは、先ほど時間を確認してからまだ五分ほどしか経っていないことを示していた。
俺は歩幅を大きくし、見慣れた視界の中に伊織を誘い込む。並んだ小さな細い肩に軽く腕をぶつけて、気が付いてしまったことを言ってやる。
「……ていうか、伊織だって早いじゃん」
「俺はいつも通りだし」
当たり前のように返されたその言葉に、足が止まる。
不思議そうに視線を振り返らせた伊織に、俺は思わずポケットから取り出した手を伸ばしていた。
「え、待って。じゃあ、いつもこんな時間から待っててくれたわけ?」
「!……ちょ、掴むなよな。ほら、もう学校行くぞ」
振り払われた手が、揺れた表情が、赤みを増した頬が、恥ずかしさを隠すように早められた足が、一気に俺の中に熱を作り出す。公園を出て、大通りへと向かう人の流れに混ざろうとしていた伊織の背中を俺は追いかける。
「え、待ってよ。ちょっと、伊織!」
――伊織はいつも何を考えて俺を待っていてくれたのだろう。
*
今までも伊織と電話することはあった。けれど、用事もなく約束もなく当たり前のように毎日話すなんてことはなかった。こうやって少しずつ変わっていく日常が、増えていく習慣が嬉しくて仕方なかった。
登下校は部活があるせいで一緒にはできていなかったけれど、それでも教室では毎日顔を合わせているわけで、昨日も一昨日ももちろん電話しているわけで、話すことがなくなってもおかしくないのに、不思議なほど繋がった瞬間からスルスルと言葉が溢れてきた。
「あーあ、伊織にも見て欲しかったなぁ」
体の中には今日の試合の余韻がまだ残っている。
ベッドに背中を預けて見上げた天井に、俺はシュートを放つように右手を動かす。
指先にオレンジ色のボールが放たれるその瞬間の感触が蘇る。
「この前も活躍してたじゃん」
「いや、今日のあのシュートは俺的にここ一番の出来だったんだって。あんなん見せられたら俺なら惚れ直しちゃうね」
目を閉じれば鮮やかに思い出されるその情景の中に、伊織がいてくれなかったことが悔やまれる。振り返った先、自分を取り囲むように集まってくれた仲間たちの中にも、観客で埋まったスタンド席にも、伊織はいなかった。
「ふは、そこまで言う?」
自信満々の俺の言葉に、悔しさを隠せない俺の声に、伊織が耳元で小さく笑った。
ふわりと自分の中の熱が大きくなったのを自覚した俺は、そのくすぐったいような心地よさに、その声をもっと聞きたくなってしまう。俺は速まってしまった鼓動を隠して、先ほどのテンションを保ったまま会話を続ける。
「いや、ほんとすごかったんだって。俺、先輩にも監督にもめっちゃ褒められたもん」
「もんって、自分で言っちゃうのかよ」
――もっと、笑ってくれないかな。
「言わなきゃ伝わらないじゃん」
「そうだけど。なんかいつもよりテンション高いね、大和」
――もっと、俺の名前を呼んでくれないかな。
「そりゃ、あんな試合したら、そうなるって。ホント、先週じゃなくて今日の試合に来てもらえばよかったなぁ。帰りに食べたアイスも美味しかったし」
「アイス?」
――どうしたら、もっと伊織は俺を見てくれるだろうか。
「そー。今日の会場の近くにさ、地元で有名なお店があって、試合に勝ったご褒美で監督が奢ってくれたんだわ」
「へぇ。監督、太っ腹じゃん」
――どうしたら、もっと伊織に興味を持ってもらえるだろうか。
「ま、三年ぶりのベスト16ですから?」
「じゃあ、次は焼肉かもな」
――どうしたら、もっと伊織の近くにいけるだろうか。
「いいな、それ。よし、明日も頑張るわ」
「……明日は行けるから」
不意に放たれた言葉に、小さく呟くような伊織の声に、俺は勢いよく体を起こす。視界が真っ白な天井から膝の上に置いていたオレンジ色のボールへと一気に切り替わる。
「え、マジ?三連休はバイト休めないって言ってなかった?」
「バイト夕方からになったから午前中の試合なら大丈夫」
「マジか!うわ、がんばろ」
声が弾むのを抑えることなんて、もうできなかった。
伊織が観に来てくれる。それだけで、体に残っていたはずの疲れは消えていた。
「惚れ直させてくれるの楽しみにしてるわ」
意地悪く笑いを堪えるように伊織がそう言うから。
俺は思わずほんの数分前の自分の言動を振り返ってしまった。
「……頑張ります」
「え、なに?自分で言ったくせに今さら照れるとかナシでしょ」
そう言って笑った伊織の声が俺の耳の中で転がるように弾む。
――その声をずっと聞いていたくて。
「……そうだけど」
「声、ちっさ」
――そんな言葉にさえ、俺は揺さぶられてしまうけれど。
「あー、もう!ありがと!」
「!」
――だけど、それはおかしなほど心地よい瞬間でもあって。
「俺、伊織が観に来てくれるの本当に嬉しいから」
「……俺もバスケしてる大和観れるの嬉しいし」
――笑い出したくなるほど、幸せな瞬間を連れて来てくれる。
「!……声、ちっさ」
「……」
――その沈黙の時間にさえ愛おしさを感じてしまうから。
「……じゃあ、」
「うん、おやすみ」
――やっぱり俺は伊織のことが好きなのだと自覚する。
「明日会場で待ってるな」
「うん、頑張れよ」
――そして、この想いが叶ったことを何度でも噛み締めたくなる。
「……」
「……」
――揃ってしまった息を吸い込む、その瞬間に、この先も続いていく時間を思い浮かべながら。
「「せーの」」
俺は耳から離したスマホの画面に、その感触を確かめるように優しく人差し指を置いた。
*
混み合う電車内で、そっと息を吐き出すように見上げた視線の先、ピンク色で縁取られたつり革広告が目に入った。有名デパートのバレンタインフェアを知らせるその広告には、細かな装飾が施された芸術品のようなチョコレートの写真が載っている。
「……」
いる、かなぁ?
俺は増えていく後ろからの圧力を背中で受け止めながら作り出したわずかなスペースの中で、顔を背けるように立つ伊織へと視線を向ける。ドアに寄りかかりながら流れていく車窓を眺めている伊織が、胸の前に抱えたカバンを持つ手にぎゅっと力を込めた。満員電車という狭い空間が無理やり近づける距離に、伊織は小さな体をさらに縮めて俺に横顔を向けていた。
この状況では、伊織は視線を合わせることも、言葉を発することもしないのだろう。
「……」
もう、俺たちは「幼馴染」でも「親友」でもない。
些細な会話にさえ周りに気を遣い、不可抗力の至近距離にすら意識せずにはいられない。
息苦しさを感じてしまうこの空間でさえ、胸が温かくなるような心地よさはなくならない。
ドクドクと速くなっていく鼓動に、車内の暖房と人の熱気が合わさり、手すりを掴む手が汗ばんでいく。顔をほんの少し傾けただけで、伊織の髪から変えたばかりだというトリートメントの香りが吸い込んだ空気に混ざり込む。
「!」
あからさまに顔を背けた俺の動きに、ガラスに映していた伊織の視線が俺に向けられた。
「?」
窺うような伊織の表情に、俺は何も答えず先ほどの広告まで視線を戻した。
「……そういえば、大和ってなんでチョコ嫌いなんだっけ?」
ぽそりと俺だけに聞き取れる小さな伊織の声が、車内に吹き付ける暖房の音に重なる。
「え?」
「甘いのがダメってわけじゃないよな。アイスもたい焼きも好きだし」
俺は美しく飾られたチョコレートからドアの上に設置された案内表示へと視線を動かす。学校の最寄り駅まではあと二つ。時間にして五分ほど。俺は適当にごまかす方向へ舵を切った。
「あー、うん。甘いのがダメってわけじゃないんだけどなぁ……」
「なんで?」
不思議そうに俺を見上げる伊織の顔を窓ガラスの反射で視界の端に受け止めながら、俺は次の停車駅を知らせる車内アナウンスの声に自分の言葉を重ねた。
「さ、さぁ、なんでだろうなぁ」
「大和自身もわからないってこと?」
「……うーん、まぁ、そうかなぁ」
言えない。
言えるわけない。
俺は自分がどうしてチョコを嫌いになったか、その理由をはっきりと覚えている。それがさっきから視界をかすめる広告に書かれた「バレンタイン」が原因だってことも、俺はちゃんと覚えていたが、それは俺だけの秘密だ。伊織にさえ、いや伊織にだけは話したくなかった。
俺がチョコを嫌いになった理由を話したら、伊織はきっと笑ってくれるだろうけど、それは俺が欲しい笑顔では決してないだろうから――。
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