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『バレンタインデー』side伊織(1)

 これくらい予想していたし、こんなことくらいで大和の気持ちを疑って不安になるなんてことはないけれど。でも、それでも思わず一瞬言葉を飲み込んでしまうくらいには、俺は動揺したらしい。 「!」  このまま真っ直ぐ進んで、教室に入ればいい。廊下の端に見つけた大和の姿を視界に入れないように、そのまま顔を背けてしまえばいい。  そうは思うのに、俺の目はどうしたって大和の姿を追ってしまう。何を話しているのかと耳をすませてしまう。 「……」  俺はそれ以上近づくことをためらい、教室へと向かっていた足を止めた。開け放たれたドアからは暖かな空気が流れてきて、冷え切った廊下を歩いてきた体にその誘惑は大きかった。けれど、俺はその膨張した空気を振り切るように、体の向きを変えた。 「!」 「おっと、」  急に方向転換した俺に、後ろを歩いていた冨樫が驚き上半身を反らすようにして立ち止まった。ぶつからなかったのは、冨樫がうまく避けてくれたからだろう。 「あ、ごめ」 「いや、どした?なんかあった?」 「え、あー、飲み物買うの忘れたなと思って」  そう言って俺は新校舎の見える窓へと顔を向ける。自販機は中庭を挟んだ新校舎の一階、購買の入り口に設置されている。冨樫は俺に合わせて窓の外へと顔を向けたが、ほんの一瞬、視線だけが俺の後ろへと動いた、気がした。 「自販機?俺も行くわ」  何事もなかったかのように視線を戻した冨樫はそう言うと、体の向きを変えて俺と一緒に歩き出した。 「なぁ、大和ってあんなにモテるやつだったっけ?」  その声は、自販機の中を転がり落ちるペットボトルの音に重なった。  俺は透明なカバーを開け、その温度を確かめるようにオレンジ色のキャップのついた小さなボトルを片手で包み込むように取り出す。指先から伝わる暖かさに、そっと息を吐き出してから俺は後ろに並んでいた冨樫に場所を譲る。 「まぁ、あんなに活躍しちゃったら仕方ないんじゃない」 「それなぁ。俺行けなかったんだけど、そんなにすごかったの?」  ホットの赤い表示を確かめながら、冨樫の指がミルクティーとココアの間を行き来する。 「……目立ってたのは、間違いないかな」  迷ったのは、ほんの一瞬だったらしい。ピッと軽い音がしたかと思うと、先ほどと同じく派手な音が自販機の中から響いた。 「そっか。まぁ今回は時期が時期だったからな」  俺が視線を向けると、冨樫は巻かれた白いラベルを頬に当てながら、「ま、そんなに気にしなくても大丈夫でしょ」と視線を合わせることなくつぶやき、「あったけー」と顔を緩ませた。  俺はゆっくりと両手に染み込んでくる熱を握りしめたまま、足を踏み出す。 「冷え切る前に教室帰ろう」 「だな」  買ったばかりの飲み物も、丸まってしまう体も、冷たい風から守るように俺と冨樫は先ほどよりも少しだけ足を速めて歩き出した。      *  ――大和の言葉どおりだった。  ――それくらい、あの日の大和はすごかった。  第二クォーターが終わった時点で、40対42。点差はわずか2点。相手は全国でも有名な強豪校。試合は一方的になると思われていたが、その大方の予想を裏切り、大和たちは健闘していた。まさかの展開に会場の観客の興奮は増していき、チームの士気も高まる。  それでも、まだ半分。前半に点差が開かなかったからといって、後半もそのままいけるとは限らない。むしろここからが勝負とも言えた。増していく疲労と、ベンチメンバーの層の厚さ。強豪私立高校と公立高校の地力の差は、ここから明らかになっていくだろう。  そして迎えた第3クォーター。  少しでも体力を最終クォーターに残しておきたい両チームは積極的に選手交代を行ってきた。背番号12をつけた大和もスタメンを務めた二年生の先輩と交代する形で出場することになった。  相手チームのボールで始まると、一気にトップスピードにギアを上げた相手選手に攻めこまれる。ディフェンスを整わせる間も与えないほど一瞬にして得点が決められる。その最初の得点によって、試合の流れは一気に相手に持っていかれた。  こちらから始まった攻撃は、ほんの一瞬の隙も逃さない相手選手にカットされる。ゴール付近までボールが運べても、それ以上は中に入れない。外から打とうにも強力なマークにより身動きが取れない。シュートを放つこともできなまま二十四秒経過してしまう。何度ボールを手にしても、得点にはつながらず、第3クォーターが始まってたった四分で気づけばスコアは40対52になっていた。広がる点差よりも後半になって一点も取れていないことの方がチームには重くのしかかっているようだった。  やっぱりか、そんなため息さえ聞こえてしまうくらい、高まっていたはずの興奮は消え、会場の観客たちはこのまま一方的な試合になるだろうと諦め始めた。  漂う空気に負けないよう、スタンドから必死に声を送るが、それも相手校のベンチに入れない選手たちの大きな応援の声に押し潰されそうになる。 「……大和」  俺は目を逸らしそうになる自分を、強く両手を握りしめ、声を出すことで踏みとどまらせる。  一点でいい。フリースローでもなんでもいい。とりあえず、一点でも入れば、まだ試合は動くはずだ。  攻め続けた疲労か、点差が広がったことによる余裕か、それはほんの一瞬。  大和をマークしていた選手の動きが遅れた。  パスを受け取った大和は一瞬のためらいも見せず、呼吸を整える間さえ惜しむように、両足を地面から離して高く跳んだ。ディフェンスの手が前を塞ぐその前に、大和はボールを放った。大和の手を離れたオレンジのボールが大きな弧を描き、ゴールの中へと吸い込まれていく。着地した大和が拳を作るのと、白いネットを通り抜けたボールが床に落ちたのは、ほぼ同時だった。  電光掲示板の表示が変わる。  43対52。  息を吸い込む静寂の後、この瞬間を待ちわびた人々の歓声が会場に響き渡った。  たった3点。  追いついたわけでも、逆転したわけでもない。  それでも、この重苦しい空気を破るのには十分だった。  そして、そこから大和は何かに取り憑かれたように次々とシュートを決めていった。 「あの12番、すごくない?」 「何本3ポイント決めた?」 「12番が打ったら、絶対入るじゃん」  周りから聞こえる声に、俺は誇らしさで胸がいっぱいになり、嬉しさに泣きそうになる。大和がシュートを決める度に、応援の声は大きくなっていく。大和が拳を上げる度にチームの士気は高まっていく。  第3クォーター終了のブザーの音は、直前に放たれたシュートが入った瞬間に沸き立った歓声をさらに高めた。  62対65。  第3クォーターの22点のうち、大和の得点は16点。3ポイントは5本中5本決めていた。  最終クォーターを前に点差を3点まで詰めた大和たちだったが、最後は強豪校の意地を見せられ、最終スコアは70対80だった。  それでも——この試合に勝っていたなら、大和は間違いなくMVPだったと、そう思ったのは俺だけじゃなかったはずだ。      * 「あ、伊織くん!」  三階にある教室へと向かう、階段の途中。隣にいる冨樫と話をしながら上っていた俺は、その聞き慣れた声に視線を向けた。二階と三階の間、踊り場に集まっていた女子の集団が一斉に俺へと顔を向ける。 「!」  横にいる冨樫に視線を向ける間もなく、俺はあっという間に取り囲まれた。 「教室にいなかったから、探しちゃったよ」 「お昼食べた?まだだったら、一緒に食べようよ。チョコもあるし」 「放課後まではもう付き合わせないからさ、お昼休みだけお願いできないかな?」 「……えっと、」  握っていたココアをブレザーのポケットにしまいながら、俺はクリスマスイヴの時のことを思い返し、「ちょうどお昼食べるところだったから、一緒しようかな」と小さく笑った。  あの時、背中を押してもらったお礼を俺はまだしていなかった。  先ほどの大和の姿が一瞬頭をかすめたけれど、これくらいはきっと許してくれるだろう。 「俺、教室にお弁当置いたままだから、それ持って演劇部行くね」 「うん、じゃあ、私たちは先に行って待ってるね」  二階にある演劇部の部室へと向かう彼女たちとすれ違うようにして、俺は先に踊り場で足を止めていた冨樫の元に急ぐ。 「……どっちもどっちだな」  ため息に混ぜて呟かれたその言葉は、はしゃぎながら遠ざかっていく女子たちの声にかき消され、俺にはよく聞こえなかった。 「え?」 「いや、なんでも。相変わらずモテるよなって」 「そういうんじゃないけどね」 「?」 「別にみんな俺と本気で付き合いたい、って思ってるわけじゃないからさ」 「そうかぁ?」 「うん、そうなんだよ」  ――俺の周りに集まってくれる子たちがくれるのはあくまで「義理」チョコだ。「本命」じゃない。 「あれ、またかぁ?」 「!」  冨樫の声が聞こえたのと同時に、階段を上りきった俺は視線を向ける。廊下の奥、屋上階段へと続く曲がり角に、その大きな背中は隠しきれていなかった。 「よっぽどすごかったんだな、その試合……」  冨樫が呆れたようにつぶやき、俺は「だな」と小さく息を吐き出した。  ――今、大和が受け取っているのは、きっと……「本命」なんだろうな。

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