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『バレンタインデー』side大和(1)
どんなに好意を寄せられても。
どんなに美味しいお菓子をもらっても。
そんなの関係ない。
俺が欲しい言葉をくれるのは伊織だけで。
俺が一緒にいたいと思うのも伊織だけだから。
それなのに――恋人ではなくても、好きな人がいるというだけでも――特別な日になるはずのバレンタインデー当日、俺はちっとも伊織に会えていなかった。
気持ちに応えることはできないと言ったものの、「お返しはいらないから、これだけは受け取ってほしい」と押し切られて受け取ってしまった紙袋を片手に俺は教室に戻った。
昼休みが始まってすでに十五分は経っている。俺はいつも冨樫と伊織の三人でお弁当を食べている教室の奥へと視線を向けた。
冨樫はいつも通り、俺の前の席で窓枠に寄りかかるようにして、お弁当を食べている。
そんな冨樫の斜め後ろ、俺の隣の席に――いつもならそこで笑ってお昼を食べているはずの――伊織はいなかった。
「?」
教室内を見回してみてもそれらしい姿は見当たらない。
俺は窓際一番後ろの自分の机に戻ると、カバンからお弁当を取り出しながら持っていた赤い袋をしまった。そして、スマホをいじりながら片手で器用におにぎりを頬張っている冨樫に顔を向けた。
「……伊織は?一緒じゃないの?」
そう言いながら視線を手元に落とした俺に、冨樫は見上げるように顔を振り返らせる。
「あー、いつもの演劇部の子たちとお昼食べてくるって」
演劇部の女子たちがイベントごとに伊織を取り囲むのはいつものことだ。そこに便乗した演劇部員以外の女子も何人かはいるだろうけど、伊織からは「みんな大切な友達だよ」と言われている。
「演劇部か……んー、じゃあ待つしかないか」
俺は気になってしまっている自分を押し込めるように呟きながら、お弁当の包みを解く。
「行かないの?」
スマホの画面へと視線を戻した冨樫がなんでもないことのように普段通りの声で聞いてきた。俺は箸を手にしながらため息に混ぜて言葉を吐き出す。
「さすがにそこまではなぁ……」
俺の声が消えてしまうより一瞬早く、こちらに顔を向けることなく冨樫が小さく笑った。
「モテる恋人を持つと大変だね」
「いや、伊織はもう……は!?え?」
冨樫のいつもと変わらない声で言われた言葉と、蓋を外した先に現れたお弁当の中身の両方に驚いた俺の声は、衝撃を受け止め損ねて転ぶように弾んだ。
「今回ばかりはお互い様って感じだけど」
「え、いや、ちょっと、冨樫??」
とりあえずお弁当には蓋をして、俺は冨樫の方へと向き直る。
そんな俺の動きに合わせて、冨樫も顔を上げて俺にまっすぐ視線を向けてからニヤリと笑った。
「ま、よかったじゃん。どうせ放課後は約束してんだろ?」
「……そうだけど。あのさ、冨樫、」
「そんな顔すんなよ。べつに誰かに言ったりしないよ、俺は」
「そうじゃなくて、」
「どんだけお前らのそばにいたと思ってんの?いい加減じれったすぎて口はさみそうだったわ」
笑いながら教えてくれた冨樫の言葉に、俺の胸は温かくなり、ほんのちょっとだけ鼻の奥が痛んだ。
「俺は二人が素直になってくれて嬉しいから」
「……冨樫」
「うん、だから俺にも恋人ができるように協力してね」
それは今まで見た冨樫の笑顔の中で一番と言えるような表情だった。
俺も笑いをこぼしながら、言ってやる。
「!ふは、うん。伊織にも言っておくわ」
「よろしくー」
そう軽く言って冨樫はまた手元のスマホゲームの世界へと戻っていった。
俺は早く伊織が戻ってくることを期待しながら、誰にも見られないように急いでお弁当の中身を掻き込んだ。バレンタインだからと気合を入れて母さんが作ってくれたお弁当は、俺ではなく父さんに食べて欲しかったであろうことがひしひしと伝わってくるようなものだった。新婚の愛妻弁当か?高校生の息子に持たせる弁当じゃねーよ。俺はそう心の中で毒づきながらも、とても美味しいのは間違いなかったので文句は言ってやりたいが完食はさせられてしまうだろうと悔しい気持ちをおかずと一緒に飲み込んだ。
*
――あれは小学二年生の時のバレンタインデーだった。
小学生といえど好きな男子がいる同級生の女子たちにとっては、バレンタインはすでに重要なイベントとして認識されていた。当時からすでに整った顔立ちの伊織はもちろん、足の速さと物怖じしない性格で俺もそれなりに女子から人気があった。だから、伊織が自分以上の数をもらおうが、そこまで気にはならなかった。正直、バレンタインというイベントごとは女子のためのものであって、俺にとってはチョコよりも放課後に伊織の家に遊びに行くことの方が重要だった。
きっと伊織も同じだろうと思っていた俺は、返ってきた言葉に驚きを隠せない。
「え?」
「だから、今日はミキちゃんとカナちゃんに誘われてるから、大和とは遊べないんだって」
「なんで?」
「なんでって、だって先に約束した方が優先でしょ?」
「先って、俺といつもゲームしてたじゃんか」
「そうだけど、約束はしてないよね?」
そう言って伊織の丸い瞳がまっすぐ俺の顔を覗き込む。
「……」
約束なんてしてない。
約束なんて必要ない。
だって、そんなことしなくても、当たり前にいつも一緒にいたじゃないか。
それはこんなに簡単に他人の約束によって壊されてしまうものだったのだろうかと、俺は悲しくなった。伊織も自分と同じなのだと思っていたのに。伊織に裏切られた気がして、悲しみが痛みと悔しさに変わっていく。
「……っ、」
噛み締めた唇の先、それでも堪えきれない気持ちが溢れ出す。自分の感情を持て余した俺は、思ってもいないような言葉を吐き出していた。
「わかったよ!もう俺、伊織とは遊ばないから!」
「え、ちょっと、大和!!」
戸惑うような伊織の声に振り返ることなく、俺は放課後の教室を飛び出した。
家に着いた俺は、ランドセルを投げつけるように床に落っことして、自分のベッドにダイブした。言ってしまった言葉はもう取り消せない。自分でもどうしてあんなことを言ってしまったのかわからない。ただ、悲しくて、悔しくて、ざわざわと痛み出した胸が心地悪くて、そんな気持ちごと吐き出したくて――その結果があの言葉だった。
部屋の外では、母さんがいつも聞いているラジオの音が小さく流れている。「ただいま」だけ言って外に遊びにも行かずに自分の部屋に閉じこもった俺を母さんは気にしているだろうか。二階のこの部屋まではっきりと聞こえるはずの音楽が今日はとても聞きづらい。俺は布団に顔を押し付け、唇を噛み締めて声を殺した。
「……う、うぅ、」
「大和?」
「!」
足音さえ聞こえなかった母さんの声がドアの外から聞こえ、俺は思わず布団の中に潜り込んだ。今、母さんに顔を見られるわけにはいかない。
「おやつあるから、お腹空いたらリビング来なさいね」
「……うん」
母さんはドアを開けることも、部屋に入ることもしなかった。
しばらくすると母さんの階段を降りる音が聞こえてきて、俺は詰めていた息を吐き出した。
「……っ、」
――そのまま泣き疲れて寝てしまったのだろう。
目を覚ますと部屋の中は薄暗かった。
ぼーっとする頭を持ち上げ、窓の外に顔を向けると、青暗くなった空には小さな星が見えた。
本当に今日は伊織と遊べなかったんだ。
空の色の変化に終わってしまった一日を思って、再び目が熱くなってきた、その時――
ピンポーン。
家全体に響き渡るようなチャイムの音が耳に飛び込んできた。
とっさに俺は窓へと駆け寄る。
「!」
家の門扉の前、明かりのついた外灯に照らされるようにして、両手に紙袋をいくつもぶら下げた伊織が立っていた。
玄関から顔を出した母さんの声がしたかと思うと、伊織は母さんに引っ張られるようにドアの中に入っていった。窓ガラス越しではなく、同じ家の中、一階から響く物音に俺はそっと耳をすます。
「……」
規則正しいリズムを作って近づいてくる足音に、俺はどうしていいかわからず再び手にしていた布団を頭から被った。
コンコン。
軽いノックの音とともに伊織が「大和?」とドアの向こうから声をかけてきたけれど、俺は寝たふりを決め込んで返事をしなかった。やがてゆっくりとドアの開く音がしたかと思うと、カサカサと紙袋の擦れる音とともにふわりと廊下からの冷たい空気が流れてきた。
壁の方に顔を向け、目を閉じている俺には、今、伊織がどんな表情をしているのかわからなかった。ただ、静かに立ち止まった伊織の気配と、まっすぐ見下ろしてくる視線だけはハッキリと伝わってきた。
「大和……ゲーム持ってきたから、一緒にやろう?」
「!」
今にも消えそうな小さな声に、泣き出しそうな伊織の顔が浮かんだ俺は、思わず布団を跳ね上げるようにして起き上がった。
「!!」
そんな俺に驚いたのは伊織の方で、大きな目を丸くして息を飲み込んでいた。
「あ、あれ……伊織?」
泣いているのかと思った。それだけ俺の言葉に傷ついたのかと思った。だから、俺は寝たふりを続けられずにこうして上半身を起こしたわけなのだが。
驚いた表情を見せていた伊織が、ゆっくりと目を細め、両肩を震わせ始めた。
「ぶ、ふはは、何その顔」
伊織は俺の予想に反して、大きな口を開けて笑い始めた。
「え、あ、あれ?」
戸惑いを隠しきれない俺は、そんな伊織の顔を見つめたまま何と言って良いかわからない。
「ふはは……大和、俺と遊べなかったからって、もしかしてずっと寝てたの?」
「そ、そんなわけ、」
ぐるるきゅううう……
否定しようとした言葉をかき消すように、部屋の中に響き渡るほど大きな音が俺のお腹から発せられる。
「……食べる?」
「え」
伊織は両手に持っていた紙袋たちをなんのためらいもなく俺のベッドの上に置いた。
「お腹空いてるんだろ?」
「でも……」
どの袋の中にも綺麗にラッピングされた箱やカラフルな包み紙が見える。これは俺が食べていいものではないはずだ。それくらい、俺にだってわかる。
「大和さ、俺がコレ全部一人で食べられると思う?」
ため息を吐き出しながら漏らした伊織の言葉に、俺は目の前に並んだプレゼントの数を確認する。
「……虫歯になりそうだな」
「でしょ?だから手伝ってよ」
伊織はそう言うと赤い紙袋からピンク色の包みを取り出し、丁寧にかけられたリボンを惜しむ様子など微塵も見せず、少し乱暴に解いてしまった。剥がされた包装紙は足元に落とされ、蓋を外した箱の中から丸いトリュフを一つ摘まみ、俺に残りを差し出す。
「……」
伊織に倣って俺も親指と人差し指でココアパウダーのついた一粒を挟む。
声に出したわけでもなかったが、なんとなく合わさった視線で同時に口の中に放り込む。
少し苦味のあるココアパウダーが口の中に張り付く。奥歯で一気に噛み砕くと柔らかな甘みが口に広がった。
「……うまいかも」
飲み込むと同時に呟いた俺に、伊織は少し呆れたように笑った。
「食べたかったらもっと食べていいよ」
「うん」
一つ食べたら、もうどうでもよくなってきた。
伊織に向けられた女子たちの気持ちなんか俺の知ったことではない。
むしろこんな物のせいで俺は伊織との時間を奪われ、挙句に思ってもいない言葉まで言わされたのだ。今までの苦しかった思いが、溢れ出る悔しさが、すべて目の前のチョコレートへと向けられる。俺はベッドの上に無造作に置かれた紙袋を手当たり次第ひっくり返し、その中身を飲み込むように食べていった。
「……大和が虫歯になりそう」
そんな伊織の言葉さえもう聞こえなかった。
*
虫歯にはならなかったが、胸焼けを起こした俺は、それからチョコレートが苦手になった。
伊織を取り囲む女子たちに、その原因となったチョコレートに、俺は嫉妬したのだ。
「……」
「ん?どうかした?」
昔のことを思い出し、思わず苦い表情をしていたであろう俺に冨樫が視線を向けてきた。ゲームがキリのいいところまで進んだらしい。
「いや、なんでも」
「そう?なんか、変な顔してたけど……あ、伊織戻ってきたぞ」
「!」
冨樫の声に俺は勢いよく顔を振り返らせる。俺の視線の先、廊下に向かって小さく手を振りながら伊織が開いた扉から教室へと入ってくる。
「……っ、」
伊織の名前を呼ぼうと口を開いた俺だったが、それは声になる前に消されてしまった。
学校中に響き渡る予鈴の音に、こちらへ視線を向けることなく席へと戻ってしまった伊織に、その手にかけられたいくつもの紙袋に、俺は何も言えずに唾を飲み込んだ。
「……ほんと、どっちもどっちだな」
そう呟いた冨樫の声は、俺の耳にはもう届かなかった。
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