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『バレンタインデー』side伊織(2)

 こんな時でも自分は笑っていられるのかと、自分で自分に呆れてしまう。  胸の前で小さく振っていた手を握り締めると、手のひらに突き刺さる爪の先よりも本音を押し込めて飲み込んだ胸の奥の方が痛み出した。手首に重なり合った紙袋の紐が急に重みを増したように、ため息とともに肩が落ち込む。  俺は視線を落としたまま、暖かな空気で満たされている教室内に足を踏み入れる。このままドアを背にまっすぐ歩いていけば、いや歩かなくても顔を上げさえすれば、そこに大和はいるだろう。窓際の一番後ろ、日当たりの一番いい特等席で、きっといつもと変わらない明るい声で名前を呼んでくれるだろう。 「……」  そうわかっているのに、俺は小さな傷でいっぱいの床に載せられた上履きを見つめたまま、自分の席へとまっすぐ向かった。  頭の中では、自分が笑顔を崩すことなく吐き出した言葉が蘇る。  ――じゃあ、大和には俺から伝えておくね。  そう口にした俺に、一瞬だけ申し訳なさそうな表情を見せた佐渡さんが、それでも「うん、ありがとう。ごめんね」とまっすぐ俺を見上げてきたから、俺は「じゃあ」と笑って手を振ることしかできなかった。  佐渡さんは、あの時ごまかすように紛れ込ませることしかできなかった俺とは、違うから――。      *  そんな言葉が返ってくるとは思わず、俺は駆け出した大和を追いかけることさえ出来なかった。 「え、ちょっと、大和!!」  戸惑ったままの声は大和を振り返らせることもできずに、大和が出ていった教室の中で虚しさだけを残して消えてしまった。  今からでも追いかけて、それで……そう思って体が前のめりになったのもつかの間、背中から「いおりくん!」と弾むような声が飛んできて、俺は足を踏み出すことができなかった。 「!」  振り返ると、同じクラスのミキちゃんとカナちゃんが赤いランドセルを背負って俺に笑いかけてくれていた。 「待たせてごめんね。それじゃあ、行こっか」 「……うん」  ――それは二週間ほど前の出来事。  バレンタインデーは女の子がチョコレートを渡す日。俺はずっとそう思ってきたけれど、本当は女の子じゃなくても好きな人や大切な人に渡してもよいのだと、ミキちゃんたちが話しているのが聞こえた。  俺はいつも手作りをくれる二人に、自分も手作りで返したいからと、もっともらしい理由をつけてチョコレート作りに混ぜてもらった。  けれど、家の冷蔵庫にしまっておくと母さんに見つかりそうだったので、バレンタイン当日までカナちゃんの家で預かってもらうことにしていた。  だから、今日はどうしても大和と帰るわけにはいかなかった。 「いおりくんがお菓子作りに興味あるなんて意外だったな」 「ほんと、ほんと。でもいおりくんすごく上手でびっくりしちゃった」  ミキちゃんと楽しそうに話しながら、カナちゃんが冷蔵庫からピンク色の包みを取り出してくれる。「よかったら、これも使って」とカナちゃんはラッピングで余ったという赤い紙袋もくれた。 「ごめんね、何から何まで」  俺がそう言うと、「ううん。一緒に作れて楽しかったよ」とカナちゃんが小さく笑い、「ホワイトデー楽しみにしてるね」とミキちゃんが声を弾ませた。 「……うまいかも」  俺が作ったものだとは気づくことなく口にした大和が言った。  それだけで俺の胸はいっぱいだった。 「食べたかったらもっと食べていいよ」  素直になれない俺の気持ちに気づくことなく、大和は「うん」と口元を緩ませた。 「……」  ――言えなかった。  自分が作ったのだとは、どうしても言えなかった。  それがどうしてなのか、その理由を俺が自覚するのは、もう少し先のことだった。      *  そうだ、あの時までは大和は普通にチョコレートを食べていた。虫歯になるんじゃないかとこちらが心配になるくらい、俺宛のチョコを俺よりも食べていた。自分だってもらっていたくせに。 「……あの後、何があったんだろう」  大和のことならなんでも知っているような気がしていたけれど、本当はそんなこと全然なかったんだよな。  ふわりと漏れたため息が、開けたばかりの冷凍庫の冷気に溶けていく。  母さんに見つからないようにと、手前に積み重ねた冷凍食品を避けると、一番奥に白い小さな箱が見える。両手を伸ばし、手前に引き寄せると、貼られていたシールに青色の文字が並ぶ。それは青色の屋根をしたアイス屋さんの――寒い中一人で並んだあのお店の――名前だ。  ピーピー……  ため息ばかりを繰り返し、手にしながら取り出すことはしない俺に、冷蔵庫がしびれを切らして鳴りだす。俺は再び奥へと押し込んだ白い箱を視界から消すように開いていた扉を閉じる。  名残惜しそうに吐き出された冷気が顔に触れ、俺は小さく肩を震わせた。 「……エアコンつけよ」  リビングの方へと振り返りながら呟いた俺の言葉をかき消すように、それは部屋中に響いた。  ピンポーン。 「!」  視界の端で四角い画面が明るくなる。インターホンに映し出されたその姿に、俺は小さく息を漏らした。

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