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『バレンタインデー』side大和(2)

 目の前に現れた人物に、手元の画面から顔を上げた俺は思わず「え?」と声を零していた。  そんな俺の表情に佐渡は小さく息を漏らしながら、俺の心を読んだかのように呟いた。 「伊織くんじゃなくてごめんね」 「え、いや……あ、あーっと、どした?」  部活休みの放課後、誰もいなくなった教室で俺は一人、職員室に行っている伊織が戻って来るのを待っていた。窓から入る陽射しは緩やかに傾き、向かい合う俺と佐渡の影を床の上に引き伸ばしていく。 「これが最初で最後だから」  そう言って俺の方へとまっすぐ伸ばされた腕の先、白い小さな紙袋が揺れる。 「え」  俺の視線は胸の前に差し出された茶色い紐をぎゅっと握りしめる佐渡の小さな手と、視線をそらすことなく俺を見上げる佐渡の瞳の間を行き来する。 「応えてほしいわけじゃないよ。でも、それでもやっぱり、なかったことにはできなかったから、これだけは受け取ってほしくて……」 「……佐渡」  俺は手に持ったままだったスマホを机に置くと、小さく震える白い手から伸びる紐を指にかけた。ふわりと一瞬優しく引っ張られるような感覚の後に、確かな重みが伝わってくる。 「ありがと」 「……うん」  俺の声に小さく笑って見せた佐渡が伸ばしていた手を胸の前でぎゅっと握りしめた。一瞬だけ途切れた視線が再び俺の方へと向けられ、そして、その瞳に俺の顔を映したまま、佐渡は言った。 「好きだったよ」  それは震えていた指先とは違う、小さいけれど、とてもはっきりとした声だった。俺が言葉を発するその前に、佐渡が柔らかく笑った。 「私、成瀬くんのシュートが好きだったの」 「……シュート?」  思わず零れた俺の言葉に、自分でも可笑しそうに声を弾ませて佐渡が笑い出す。 「ふ、ふふ……そう!綺麗なシュートを打つ成瀬くんが好きだったんだ」 「!」  繋がったままの視線はそのままに言葉を飲み込んだ俺に、佐渡はまるで誓いを立てるかのように握りしめていた手を開き、手の平を俺へと向ける。 「だからもう邪魔はしません」 「え」 「ごめんね、伊織くんにお願いしたの。放課後、ちょっとだけ成瀬くんと話がしたいって」 「……」  視線を向けた先、机の上の四角い画面は『職員室に行ってくる』という短いメッセージを受け取った後は、ずっと真っ暗なままだった。思えば昼休みが終わる頃から、違和感は続いていた。きっとあの時にはもう……。 「そういうことだから、成瀬くんは今からダッシュね」 「は?」  振り返った俺に、この状況を作り出した張本人である佐渡が俺の荷物をまとめ出し、俺を教室の外に押し出そうと背中側に回ってきた。 「伊織くんはもうとっくに帰っちゃってるからさ、頑張って追いかけないと」  思わず受け取ったカバンを両手で抱えたまま、俺は佐渡に押されるがまま足を動かす。 「え、ちょ、」 「ほら、行った行った!」  開けっ放しだった扉の外、冷たい廊下の空気に首を竦ませ、視線を振り返らせた俺の手に、机の上に置かれていたはずの俺のスマホを押し付け、「じゃあね」と一方的に言って、佐渡がポンと弾ませるように俺の背中を叩いた。佐渡の揃えられた上履きは廊下と教室の境界線であるレールを超えることなく、床の上に並んでいる。 「いや、佐渡、お前なぁ」  足の先を教室の方へと戻そうとした俺の背中に、再び小さな二つの手が押し付けられる。 「振り返らないで」 「!」  その声は、先ほどまでの弾むように笑っていたものとは明らかに違っていた。 「……振り返っちゃ、ダメ、だからね」  声が震えるのを必死で堪えるように、途切れ途切れに言葉が紡ぎ出される。 「……佐渡?」 「成瀬くんは、いつもゴールだけ見て、走ればいいの。じゃないと……また、シュート、打てなくなっちゃうから」  ふわりと消えた感触に、思わず視線を向けそうになったが、俺は受け取ったばかりの白い紙袋の紐をぎゅっと握りしめることで、動かしてしまった視界を廊下側へと戻した。 「……ありがと」  それしか渡せるものなんてなかったから、それだけを、その言葉だけを残して、俺は走り出した。 「……っ、」  言葉を飲み込み、声を詰まらせた佐渡の呼吸が、耳の奥には残っていたけれど、俺は振り返らなかった。  きっと泣いているであろう佐渡を教室に一人残したまま、それでも俺は振り返ることなく走り続けた。  加速していく足に、吐き出される息に、自分の足音だけが廊下に響き渡る。  流れるように過ぎていく校内の景色はもうよく見えなかった。  胸の奥が痛くて、苦しくて、俺は思わず唇の先を噛みしめる。 「……」  それでも、俺の頭の中にはたった一人の顔しか浮かばない。  今すぐ会いたかった。  今すぐ触れたかった。 「……伊織、」  俺がその名前を呼んだら、どんな顔で振り返ってくれるだろうか――

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