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『バレンタインデー』side伊織(3)

 突き刺すような冷たい風を纏ったまま、その額にはジワリと汗が浮かんでいた。  走ってきたのだと一目で分かるほど、白く吐き出される息は乱れていた。 「大和……」  扉を開けたまま立ち尽くす俺に、少しだけ寂しさを覗かせて困ったように大和は笑った。 「勝手に帰るなよな」 「……ごめん」  そう言って視線を落とした俺の体を、冬の匂いが染み付いたチャコールグレーのダッフルコートが包み込む。 「!」 「いいよ、もう」  呟くように囁かれた声は、大和の高い体温と冷たい外の温度が混ざり合ったまま、俺の耳に触れた。たったそれだけのことに俺の胸は苦しいくらいに痛み出し、そして同時に吸い込んだ空気に大和の匂いを感じてどうしようもなくホッとしていた。  ――大和は佐渡さんとどんな話をしたのかは言わなかった。  ――俺もそれについては何も聞かなかった。  俺と大和の間に置かれたダイニングテーブルの上には、今日お互いがもらってきたお菓子たちが広がっている。義理チョコ、友チョコ、本命チョコ……名前を変えて込められた想いを前に、俺たちは目を合わせて小さく笑った。 「大和、新記録じゃない?」 「んー、確かに。……伊織は今年も変わらず多いな」 「まぁね。でも本命はそんなにないよ。……大和と違って」  少しの意地悪を混ぜた俺の言葉に、大和が慌てたように立ち上がる。 「いや、俺はちゃんと断ったからな。でも、これだけでも受け取ってほしいって言われたから、仕方なく……」  ちっとも悪いことをしているわけではないだろうに、おかしなほど焦ったように弁解する大和に「そんなに言われるとかえって怪しいんだけど」と俺はわざと眉根を寄せる。 「っ、……伊織、俺、」  今にもテーブルの上のチョコレートを払い落として迫ってきそうな大和の額に片手を当てて制すると、俺はそっと一瞬だけ首を伸ばし、そして離れた唇の先で「うん、わかってるよ」とつぶやいた。 「……」  目を見開いたまま固まる大和の顔が少しずつ赤くなっていく。  俺はそっと額に置いたままだった手を離し立ち上がると、自分の頬の熱を自覚しながらも「コーヒーでいいよね」と小さく笑ってやった。 「あ、うん……」  その小さな声を背中で聞いて、俺はキッチンへと向かった。  ――それでもいいのだと、思えた。  お互いに知らないところで何かがあったのだとしても、それでも今こうして二人でいられる事実に変わりはないのだから。  ――それだけが変わらないなら、それだけで俺は十分幸せだった。  使い慣れたマグカップに入れたコーヒーを大和の前に置き、牛乳を混ぜたカフェオレの方を自分の前に置く。カップの中で揺れる色は全く違うけれど、その上を漂う湯気は混ざり合うように溶けていく。 「あれ、コレは?」  綺麗にラッピングされた包みが転がる中で、一つだけ包装されていないお菓子が置かれていた。コンビニでも買えるそれは、とても美味しいのだが、たった三つしか入っていないのに五百円くらいするので、クラスの中では『ご褒美チョコ』と呼ばれている。テスト終わりのお楽しみや、ちょっとしたゲームの景品にしたりする——とても馴染みのあるお菓子だ。  俺が手にとって不思議そうに眺めていると、まだ熱いコーヒーをすすりながら視線を背けた大和がぽそりと呟くように言った。 「……それは違うから」 「違うって?」  視線を上げた俺に、顔を横に向かせたままの大和がカップから手を離すことなく困ったように口の先を尖らせる。 「だから、それはもらったやつじゃないってこと」 「!」  ようやく大和の言葉の意味を理解した俺は、ちっとも予想していなかったことだったので、素直に驚いた。 「……意外なんだけど」 「……」  白いマグカップで顔を隠すようにしながら必死で目をそらす大和に、そんな表情を初めて見せる大和に、俺の胸はどうしようもなく温かく、そしてくすぐったくなってしまった。 「大和ってそういうことしないんだって思ってた」 「……悪いかよ」  顔を背けたまま、視線だけをこちらに向けた大和に、俺は堪えきれすに笑ってしまった。 「ふ、ふは……ううん、悪くない。全然悪くなんかないよ」 「……誰かのせいで走らされたから、潰れてるかもしれないけど」  そう言ってズズッと音を立ててカップを傾けた大和に、俺は「ありがと」と他のどんなお菓子よりも最初に封を切った。  プラスチックのケースを外しただけで甘い香りがふわりと舞う。三つ並んだうちの一つを手に取り、包み紙を開く。  ココアパウダーを散らしながら現れた球体は、一口で食べるには少しだけ大きい。  半分ほど齧ると、中に閉じ込められたいたチョコレートガナッシュが一気に口の中に広がる。 「うまっ」  思わず漏らした俺の言葉に「そうかよ」とつぶやいてカップをテーブルに置いた大和がこちらへと手を伸ばす。 「……何?欲しいの?」  目の前に伸ばされた手の意味がわからず、チョコレート嫌いの大和が欲しがるとは思えなかった俺はそう言って笑ってやる。 「うん、ちょっとだけ頂戴」 「え、何言ってんの。これめっちゃチョコだよ」  そう言って引っ込めようとした俺の手首を大和の大きな手が掴み、戸惑う間もなく俺の手の中に残っていた食べかけのトリュフは大和の口の中に消えてしまった。 「!……っ、ちょ、なんで」  手の中に残された包み紙から、茶色い細かなパウダーがテーブルへと落ちていく。 「チョコ、苦手なんじゃ、」  大和の予想外の行動に、俺の声は揺れ、頬から耳の先まで熱くなる。 「コレだけは食べられるんだよ」  そう言って大和は口元に残ったココアパウダーを、俺の手首から離した手で拭った。  ――コレだけ……『コレ』は『このお菓子』って意味だろうか? 「……へぇ、知らなかった」  包み紙を丸めた俺は、カップの中に視線を落として、飲みやすい温度になったカフェオレに口をつける。  ――『コレ』の意味が『トリュフ』って意味だったら……そんなことを考えてしまったことを大和に気づかれたくなくて、俺は白いマグカップをさらに傾けた。

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