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『バレンタインデー』side大和(3)
――その顔を一目見たら、「大和……」と俺の名前を呼んでくれたなら、もうそれだけでいいと思えた。
「勝手に帰るなよな」
「……ごめん」
――会いたくて。
――その声を聞きたくて。
自分の体を包み込む空気はどこまでも冷たかったけれど、走り続けて温まった体からは確かな熱が発せられている。制服姿のままの伊織に、俺はそっと手を伸ばす。
「!」
伊織が一瞬、息を飲むのがわずかな空気の震えで伝わってくる。
それでも、俺はその温もりを感じたくて、その匂いを確かめたくて、ぎゅっと腕に力を込めた。
「いいよ、もう」
――そう、もういいんだ。
――ただ、どうしようもなく……俺は伊織に触れたかっただけだから。
テーブルの上に広げられたお菓子たちはそのままに、俺は「やっぱちょっと休憩」と言って、白いマグカップを片手に座り慣れたテレビ前のソファへと移動した。ぬるくなってしまったコーヒーはカップの三分の一ほどのところでその表面を揺らしている。
ローテーブルの上に置かれたリモコンでとりあえず電源を入れたテレビからは夕方のニュース番組が流れ出す。観るともなしに視線をテレビへと向けながら、俺の意識はキッチンに立つ伊織へと向かっていた。マグカップを片す水音に耳をすませながら、俺は先ほどの出来事を思い出してしまう。
「……」
――もっと触れたい。
――考えるよりも先に手を伸ばしていた。
――本当に触れたかったのは、本当に口にしたかったのは……もっと先にあった。
だけど、そんなことできるはずもなくて、そんなことを考えてしまった自分に自分で驚いて、どうしようもなく恥ずかしくなった。そして、誤魔化すように伊織の手の中に残っていたとろける中身を晒したままのお菓子を口に入れた。
「コレだけは食べられるんだよ」
トリュフなら自分でも食べられる、そう思って買ったのは嘘ではない。
「……へぇ、知らなかった」
驚いた表情を見せた伊織の顔が赤くなるのを見ながら、自分も同じようになっているのだろうと自覚して、テーブルの上を片付けることもなく、思わずこちらへと逃げてきてしまった。
右から左へとアナウンサーの声が素通りしていく中、カタンと小さな音が目の前で弾けた。飲みかけのコーヒーの隣、白い長方形の箱が置かれていた。
「!」
顔を上げると、小さな金色のスプーンを二つ手にした伊織が「それ、俺からな」と言って、隣に座った。
「え、あ、ありがと……」
当たり前だったはずの距離に、なぜだか俺はちょっと緊張していて、俺は視線を伊織から目の前の箱へと移す。ドクドクと心臓の音が大きくなっていくのが、指先まで熱を持ち始めるのが、自分でもはっきりとわかる。
貼られていたシールを剥がし、箱を開くとダークブラウンの丸いカップが二つ並んでいた。その見覚えのある姿に、俺は思わず隣に座る伊織を振り返った。
「これって!あそこのアイス屋のじゃん!!」
「そうだよ」
なんでもないことのように言って、伊織が持っていたスプーンを一つ俺に渡してくれる。
「な、なんで?たまたま用事でもあったとか?だって、あの辺、他に何にもないじゃん……」
先月のバスケの大会中、ベスト16を決めた試合の後、普段は厳しい監督が珍しくご褒美だと言って奢ってくれたのがこのアイスだった。俺は他の味を頼みたかったのに、注文が面倒だからとマネージャーたちによって、一番人気だというチョコレート味に統一されてしまったけれど、そのアイスはチョコが苦手な俺でも美味しいと思えるくらいだった。――でも、そんな話を俺がしたのは、ほんの一瞬の出来事だったはずだ。繰り返し話したわけでもない。それなのに……。
「これなら食べられるって、言うからだろ」
消えていたはずの頬の赤みが俺の目の前でゆっくりと広がっていく。耳の先まで伝わっていく熱に、俺の視線を避けるようにアイスの入った箱へと向けられた視線に、「ま、俺も食べたかったからだけど」と呟く薄い唇に、先ほどかき消したはずの俺の欲が、溢れ出す。
――もっと、触れたい。
俺は手にしたばかりのスプーンをテーブルに置くと同時に、ソファを軋ませる。
「……大和?」
不思議そうに振り返った伊織の顔へと右手を伸ばしながら、右足をソファの奥へと持っていき、俺は体ごと伊織へと向ける。俺の指先が伊織の頬に触れると、一瞬だけ、伊織は小さく肩を震わせた。そのことに俺は気づいたけれど、そのまま伊織の首の後ろへと手を滑らせる。
「……」
ドクン、ドクン……
大きくなる自分の鼓動が頭の奥まで響き渡り、生まれてしまった熱が身体中へと回り出す。
――伊織が繋がった視線をその瞼で塞いだのと、俺が右手に力を加えたのは、ほぼ同時だった。
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