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『バレンタインデー』side伊織(4)

 チョコレートで甘かったはずの口の中に、苦いコーヒーの香りが流れ込む。 「ん、……や、ま」  その名前を呼ぶ隙間さえ見つけられない。 「……伊織、……」  わずかに漏れる大和の熱が、ささやくように俺の名前を呼ぶ。  一気に上がる体温に、跳ね上がる鼓動に、俺は目を閉じていられなくなる。  明るくなった視界のすべては大和の顔でいっぱいで、見たこともないようなその表情に、余計に俺の心臓は震えてしまった。大和の息が吐き出されるたびにその温度を上げていくのがはっきりと伝わってきて、堪らなくなった俺は再びその瞼を閉じた。 「……伊織……好きだ」  そう呟いた大和の声は俺の耳ではなく肌から直接伝わってくる。  どうしていいかわからないまま固まる俺にかまわず、大和の唇はゆっくり移動していく。 「!」  首に触れる大和の吐息が熱となって俺の体の中に染み込んでいき、くすぐったいだけだったはずの感覚が変わっていく。 「……伊織……伊織」  大和が俺の名前を繰り返すたびに、俺の肩は強張っていくのに、全身からは力が抜けていく。 「あ、待っ……」  ソファの軋む音が再び耳に届いたのと、俺が自分の体を支えきれずに倒れ込んだのはほぼ同時だった。 「!」  俺の頭は大和の大きな手に支えられていて、柔らかなソファに沈んだ俺の体には天井のライトが作り出した大和の影が重ねられる。 「……」 「……」  離された顔の距離を結ぶように視線がぶつかる。言葉が出てこない。今はその名前を呼ぶことさえうまくできない。それは俺を見下ろす大和も同じなのだろう。触れ合ってしまった体を引き剥がすことも、今より先に進むことも、うまくできない。  先ほどとは違う戸惑うような色が大和の顔に揺れている。  速くなっていく鼓動の中で、俺はようやく小さく息を吐き出した。 「……アイス、溶けるだろ」  俺はスプーンを握りしめたままの右手で大和の肩に触れ、視線をテーブルの上へと向ける。 「……うん、」  大和がようやく俺の言葉に応えてくれたので、この熱は次第に収まっていくのだろうと油断した俺は触れていた大和の肩をそのまま押し上げるようにして体を起こそうとした。そのまま大和も俺を引き起こしてくれるのだと、抵抗などしないのだと、そう勝手に思っていた。  ――だから、力を加えたはずの手の先、大和の体がピクリとも動かないことに驚き、俺は大和の顔を見上げるように振り返った。 「大和?」  小さくなっていくはずだった心臓の音が、俺の体の中で再び大きくなっていく。 「……アイス、食べないの?」  俺の声はわずかに震えていた。  戸惑った表情を隠しきれていないくせに、大和の視線は熱いくらいにまっすぐ俺に注がれている。 「……大和?」  いつかは変わるだろうと思っていたことが、まだ先の未来だと思っていたことが、今、この瞬間、目の前に突然現れた……そんな感じだった。  大和の熱はもう戻れないところまで来ているのだろうか?  ――じゃあ、俺は? 「伊織」 「!」  大和がはっきりと俺の名前を呼び、先ほどとは違う柔らかな熱の中でいたずらっぽく笑った。 「アイスは少し溶けたくらいがうまいから」 「え?」 「だから、もうちょっとだけ……」 「え、いや、ちょ……ん、」  大和の肩を押していたはずの俺の手が大和の手の中に収まるのと同時に、俺の言葉は再び大和の熱に飲み込まれた。押し上げられた右手にかかる力はそれほど強くはなかったけれど、一度力の抜けた俺の体は大和の手をうまく振り払えなかった。  掴まれていない左手だけでどうにか抵抗を試みるけれど、再び流れ込んできた大和の熱に、身体中を駆け巡るような震えを抑えきれず、その指先はいつの間にか大和のシャツをぎゅっと握りしめていた。  程よく溶けたアイスを掬うように、カップのふちにスプーンをそわせる。柔らかなチョコレート色のアイスを載せた金色のスプーンを咥えると、冷たい温度と甘すぎないカカオの香りが口の中に一気に広がった。 「!……うまっ」 「だろ?」  思わず漏らした俺の言葉に、隣に座る大和が嬉しそうに笑う。  ほんの数分前に見せていた表情とはあまりにかけ離れた無邪気な笑顔を見せる大和に、どうにかしてその顔を崩せないだろうかと俺の中のいたずら心が顔を覗かせる。 「……」  大和は自分が言ったその言葉通り、アイスが美味しく柔らかくなるまでのわずかな時間だけ俺に触れると、俺の中に生まれてしまった熱はそのままに、「……アイス、食べよっか」と笑って体を離した。俺は大和に引き上げられるままに「……だな」と小さく笑い返した。  ――だけど、本当は俺の熱は簡単に収まってなどいなかった。  だから、何事もなかったかのように戻っていく大和に、今日はずっとペースを握られている気がして、なんだか悔しくてたまらない。 「……そういえばさ」 「ん?」  あっという間に最後の一口を飲み込んだ大和が、手放すのを惜しむようにスプーンを握ったまま振り返る。 「なんで大和ってチョコだめなんだっけ?」 「……さぁ、なんでだったかな」  わずかに表情を強張らせ視線を外した大和が空になったカップを手に立ち上がろうとしたので、とっさに俺はその手を掴んだ。 「確か、小学二年生の時のバレンタインまでは普通に食べてたよな、チョコ」 「……」  俺の言葉に、逃げようと浮かした腰をソファへと戻した大和は、くるりと体ごと振り返らせ、俺の顔をまっすぐに見つめてきた。 「……伊織」 「な、何?」  真剣な表情を作る大和に、俺の声の方がわずかに揺れる。 「俺、たぶんもう普通にチョコレート食べられると思う」  そう言って大和は表情を崩し、ニヤリと不敵に笑った。 「え、なんで……ん、……ちょっと()っ……んん」  今日の大和にはもう勝てないのだと、そう俺が認めるよりも早く、冷たくなったはずの俺の口の中はあっという間に甘い熱で満たされた。

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