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『バレンタインデー*番外編』side佐渡瑞穂
――第一印象は「大きい人」。
同じ一年生とは思えない身長に広い背中。バスケのポジションで言えば、センター向き。その大きな体で相手に押されても負けないでゴール下を守る。シュートだってリングを揺らすような豪快なダンクを決めそうだ。
――それなのに……なんなのだ、アレは。
あんな綺麗なシュート見たことない。
「繊細」という言葉がちっとも似合わない見た目のくせに。
太い指先から放たれたボールが美しい放物線を描き、ゴールの中に吸い込まれていく。
リングに当たることなく、通り抜けたネットの音だけが響く。
思わず息を止めていた。
ボールが床を弾む音で空気が戻っていく。
振り返った彼はいつもと同じ顔で笑っていた。
――私はあの美しいシュートを放つ成瀬くんが好きなのだ。
ぼやけていく視界の中で、その姿は廊下の先へと消えていった。「振り返らないで」と言ったのは自分だ。その大きな背中を押し出したのも、「これが最初で最後だから」と決めたのも、全部自分だ。
――それなのに、熱くなっていく両目からは涙が溢れて止まらない。
「っ、……ん、……」
飲み込んで、押し込めたはずの言葉が嗚咽となってせり上がってきて、押さえている手の甲の隙間からこぼれていく。
――痛かった。
胸の奥がどうしようもなく痛くて仕方なかった。
本当は振り返って欲しかった。
戻ってきて欲しかった。
まだ好きでいてもいいって、これで終わりになんかならないって、そう思いたかった。
あの日、どうして私は遊園地になんか行ってしまったのだろう。
どうして二人を見つけてしまったのだろう。
何も知らなければ、何も気づかなければ……そう何度、思ってしまっただろうか。
「まだ……好きなのに、な」
こらえきれずに俯けた顔の先、床の上に指の間をすり抜けた雫が弾けた。
胸の奥から湧き出る痛みが熱となって鼻の奥を刺激する。涙の止まらない両目は熱いし、触れている頬から伝わる体温は高いはずなのに、動けなくなったつま先には廊下からの冷たい空気が流れてくる。足先から這い上がってくる寒さと止まることなく発散される自分の熱は混ざり合うことなく余計に体をこわばらせ、頭痛を呼ぶ。
「……っ、」
頭が痛い。こすり続けた目元もヒリヒリとする。足だって寒くてたまらない。もうこんな場所に一人でいたくない。そう思うのに、まぶたを閉じれば、廊下の先に消えてしまった背中が鮮やかに蘇る。
消えてしまったその姿を思い出して、自分の大きくなっていた想いを自覚する。
「……なんで、こんなに」
――なんでこんなにも悲しいのだろう。
――なんでこんなにも苦しいのだろう。
――なんでこんなにも涙が止まらないのだろう。
こんなになってしまうほど、私は成瀬くんが好きだったのか、と今更ながらに気づかされる。笑って終われるような、成瀬くんの恋を応援する言葉が吐き出せるくらいの、そんな軽い気持ちではもうなかったんだ。
――どうしたら、この痛みは消えてくれる?
――どうしたら、私は笑ってあげられる?
――どうしたら、ここから歩き出せるだろう?
遠くで奏でられる吹奏楽部のメロディをかき消すようにチャイムの音が鳴り響いたが、それでも私は目の前の扉を閉めることも、揃えてしまった足を動かすこともできない。
成瀬くんが戻ってくることはないのだとわかっているのに、それでもどこかで期待してしまう自分がいて、そんな自分自身が嫌でたまらないのに、どうしたって体は動いてくれない。こんなにも涙は止まらないのに、こんなにも激しく心臓の音は聞こえるのに、私の足は固まったままだ。
――悔しかった。
先月から急に騒ぎ出した女の子たちが疎ましかった。
――私の方が先に見つけたのに。
ちょっと試合見たくらいで、そんな簡単に「好き」だなんて言って欲しくない。
振られるってわかってるけど、もうどうにもできないってわかってるけど、それでも、昨日今日好きになった女の子たちと一緒にされたくない。
ずるいってわかってるけど、断られないってわかってるから、伊織くんに言ったのだ。
恋人である伊織くんにお願いしたのは、二人のことを知っている私の誠実さなんかじゃない。ただの当てつけだ。私は隠すことなく成瀬くんに告白できるっていう、優越感だったのかもしれない。周りに関係を隠すしかない伊織くんが断らないのをいいことに、つけ込んだのだ。なんて私はずるくて嫌な人間なのだろう。成瀬くんの前では二人を応援しているように振舞っておきながら、伊織くんに対してはこんなにずるい自分が出てきてしまう。
「……最低、」
沼の中に沈み込むように囚われてしまった足の先からは熱だけでなくその感覚さえも消えていく。
帰らなきゃ。
家に帰りたい。
頭ではそう思うのに、私の体はちっとも動いてくれない。
一人で歩き出すための気力も体力も、全部涙と一緒に手放してしまったのだろうか。
「……情けな……」
「大丈夫?」
「!」
突然耳に飛び込んできた声に、思わず顔を上げていた。
床と上履きしか映していなかった視界が、廊下からこちらを覗き込む見慣れない顔をとらえる。
誰……?
鮮やかさを取り戻しきれていないぼやけた世界の真ん中、その人は私が超えられなかった境界線を簡単に踏み越えて、教室へと入ってきた。
「どこか痛い?保健室行く?」
「……あ、ううん、大丈夫。ごめん、えっと、なんでもないから……」
どう言えばいいのか、言葉が見つからない。失恋して泣いていたなんて素直に言えるわけもない。
必死でごまかして涙を止めようと試みるが、吐き出され続けた悲しみは簡単にはおさまってくれない。私には視線を落として、顔を背けることしかできない。
「……そっか。あー、俺は忘れ物を取りに来ただけだから」
「あ、うん」
私が泣いていることに気づいただろうに、彼はそれについては何も言わなかった。
彼は私の横を通り過ぎ、窓際に並ぶ机へと向かっていく。
何も聞かれなかったことにホッとして、聞いていないのにここに来た理由を言ってきたことに小さなおかしさがこみ上げ、痛みしかなかったはずの胸の中が少しだけおさまった気がした。
「……」
視線だけをそっと向けると、「お、やっぱここだったか」とつぶやきながらカバンに何かをしまう彼の姿が目に入った。
――あぁ、そうだ。思い出した。
「じゃあ、俺帰るわ」
そう言って彼は私の視界を横切り、入って来た時と同様に廊下側へと簡単に足を踏み出した。
「あ、うん、」
片側に寄せられたドアの後ろへと消えていく上履きを視界の端で見送り、再びせり上がって来たさみしさに息を吐き出そうとした、その瞬間――
「あのさ!」
「!」
その声は戻ってきた。
「やっぱ、コレ使って」
私の目の前へと戻って来た彼が、片手に握った水色のハンカチを差し出す。
「え、でも……」
突然の出来事に、私の視線は彼の顔と差し出された右手を行き来する。
「いや、シワシワだからどうかと思ったけど、ちゃんと洗ってあるから。俺がアイロンさぼっただけだから、安心して使って!」
「!」
私が戸惑っていたのは、躊躇っていたのは、皺が気になったからではなかったけれど。視線を向ければ、確かにその水色のハンカチはアイロンがかけられていないことが一目で分かるような状態だった。
あんなに動かなかったはずの私の足が彼の方へと向けられる。
「……ありがとう。じゃあ、使わせてもらうね」
角が合わないまま折りたたまれたハンカチからは、爽やかな洗剤の香りがした。いい香りだな、と顔に当てたまま大きく息を吸い込むと、胸の奥へと広がる空気に渦巻いていた苦しさが包み込まれるようにして消えていく。
「あ、洗って返すね」
「あー、いや別に気にしないで。なんせシワシワだから」
「確かにシワシワだけど……ふふ、」
小さなおかしさにくすぐられて、思わず声が漏れる。
私の抑えた笑い声が途切れる頃、彼が真剣な表情で呟いた。
「……こういうところか」
「?」
「俺に彼女ができない理由」
「!……シワシワ?」
「うん、これからはピシッとアイロンのかかったハンカチをサッと差し出せるような男になるわ」
「……シワシワでも私は嬉しかったよ、冨樫くん」
「!」
「ハンカチ、ありがとう」
――私がこのハンカチを返すときは、しっかりとアイロンをかけてあげよう。
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