12 / 41

『バレンタインデー*番外編』side冨樫賢一

 廊下の先、隠しきれていない大きな背中が見え、思わず呟いた俺の言葉に、なんでもないことのように伊織が小さく息を吐き出す。わずかに見えてしまったその表情に、俺の方が落ち着かない心地にさせられた。  俺はもう一度、廊下の奥へと顔を向ける。  ここからでは大和がいることしかわからなかったけれど、ここからは見えない場所にきっともう一人誰かいるのだろう。バレンタインを口実に気持ちを伝えに来た誰かが、きっと。  自分のことではないのに、いや、自分のことではないからこそ、ため息が漏れた。 「……、」  ――よくやるな、と思ってしまう。  相手に「好き」だと言えるくらい見ているなら、自分に望みがあるかどうかくらいわかりそうなものなのに。どうしてわざわざ傷つきにいくんだろうか。  自分の都合のいいようにしかその視界は映せないのだろうか?  それともわかっていても言わずにはいられないのだろうか?  どっちにしろ、俺にはちっとも理解できない感情だった。      *  ――俺の長所は「空気が読める」こと、だと思う。  物心がつく頃には、俺は大人の言うことや周りの期待することが手に取るようにわかるようになっていた。何かきっかけとなるような特別な出来事があったわけではないけれど、友達の多い母親が家に人を呼ぶことが多かったから小さな頃から両親以外の大人と接する機会は多かったように思う。そしてきっと自然に子供心に何かを感じ取っていたのかもしれない。俺は周りの空気や声に敏感な子供になっていた。  幼稚園で「将来は何になりたいか?」と聞かれれば、父親と同じ『警察官』と答えていたし、小学校の授業参観で「母の日に手紙を書きましょう」と言われれば、添削した先生を涙ぐませるくらいのことは書けた。  全部が嘘かと言われればそんなことはないだろうけど。  だけど、あの頃の俺には特別なりたいものなんて本当はなくて、それでも何かを答えなくてはならないなら、と心よりも頭を働かせた。もちろん、母さんに対して感謝の気持ちがないなんてことはなかったけど、それでも手紙を書くときに考えたのは、これを読む母親や先生たち、大人の反応だった。どうやったら満足のいく解答にできるか、そんなことを思いながら書いた文章は、どこかで聞いたセリフや読んだ本の言葉から拾ってきたものばかりだったにも関わらず、母親だけでなく後から話を聞いたいつもは厳しい父親をも、とても喜ばせた。  ――こんなことでいいのか、と子供心に冷めたような気持ちで悟ってしまった。  だからだろうか、俺には自分のことをどこか遠くから見ている、そんな感覚が抜けなくなった。自分のことなのにどこか他人事のような、周りを見渡し一番無難な位置に自分を置き、みんなが求める役割をこなす。それが俺の当たり前だった。勉強もスポーツも「そこそこできる」くらいで特別目立つ活躍をするわけでも、呆れられるほどできないわけでもない。誰かと衝突するような問題も起こさないし、先生に怒られるようなバカなこともしない。誰が望んだことなのかもわからない「普通」の自分であり続けた。  ――そんなふうにこの先の学校生活も過ぎていくのだと、そう思っていた、高校入学初日。  出席番号順に並んだ席に着くと、俺のすぐ後ろの席で話していた男子二人が俺の方へ視線を向けたのを感じた。俺はその意味をすぐに察して、振り返る。俺の真後ろの席に座ったまま視線を向けてきたそいつは、男の俺でも一瞬息を飲むくらい綺麗な顔をしていた。 「……、」  自分から声をかけるはずだった言葉を飲み込んでしまった俺に、そのすぐ後ろの机に腰掛けたやつが話しかけてきた。 「なぁなぁ、どこ中?俺ら第二」  机に座っていてもわかる背の高さと大きな体のくせに、威圧感を全く感じないのはその表情のせいだろう。 「あぁ、俺は第五中」 「第五かぁ。あ、俺バスケの練習試合で行ったことあるわ」 「あ、そうなの?バスケ部?」 「そ、俺バスケ部。よろしくなー。ん?それより名前言ってなかったな、俺は成瀬(なるせ)大和(やまと)。で、こっちが幼なじみの十和田(とわだ)伊織(いおり)」  そう言って成瀬がその小さな両肩に手を置くと、俺たちの会話を静かに見守っていた大きな瞳が柔らかく細められた。 「俺は冨樫(とがし)賢一(けんいち)」 「冨樫ね。よろしく」  見た目は女の子にも見えそうなくらいだけど、声はしっかり男子だな。 「うん、よろしく。成瀬と十和田、な」  成瀬大和は裏表のなさすぎるやつで、素直でまっすぐ、頭で考えるよりも先に体が動くようなタイプだった。すぐに感情が表に出るので俺が空気を読む必要なんかないくらいにわかりやすい。そんなんでもバスケをしているときはちゃんとフェイントも使えるというから意外だ。  一方の十和田伊織は、自然と人が集まるような柔らかい空気を纏っているのに、その崩れることのない笑顔は、俺を落ち着かない心地にさせた。楽しそうに笑ってくれていても、それが本心からのものなのかわからない。相手の顔色を窺うのが得意なはずの俺ですら、その感情は容易には読み取れなかった。  ――俺と同じ匂いがした。  いや、俺なんか大したことはなかったのだと、思わされるくらい敏感に伊織は周りの空気を読んでいた。俺と違って適当に手を抜くこともなく、周りの期待に完璧なまでに応えて、他人が作り上げた理想を壊さないように振る舞っていた。それはひどく息苦しいものだろうに、それでもみんなの望む「十和田伊織」が崩れることはなかった。  ――そんな伊織が、俺は正直、少し苦手だった。  それはきっと伊織も同じだったと思う。お互いに顔色を窺っているくせに、自分の本心は見せないから、結局のところ、どこにも進めない。表面的には普通の「友達」として過ごしていたけれど、実際はもっと遠い存在だったのかもしれない。大和がいなくなると途端に生まれてしまう変な緊張感に、きっとお互い気づいていたけれど、それでも、それを俺も伊織も口には出さなかった。  ――小さい頃から一緒にいる幼なじみだと言っていたけれど、俺には大和と伊織が、二人が一緒にいるのが不思議なほど、正反対に見えた。  だから、俺は自分が気づいてしまった事実に驚くと同時に、ひどく納得した。  ――それは一体いつからだったのか。 「……あの、バカ」  そう呟いた大和の声は、きっと隣に立つ自分にしか聞こえなかっただろう。  当然のことのように駆け出す大和が、いつも当たり前に触れていたはずの距離に一瞬、躊躇したように見えたのは、俺だけだっただろうか。誰よりも早く体育館の端で蹲っていた伊織に気づいたくせに、誰よりも早くそばに駆け寄ったくせに、伸ばした手を肩に触れる手前で一瞬止めたように見えたのは、俺の気のせいだろうか。  そして、そんな大和に「別にこれくらいなんでもないから。大和が大げさすぎるんだよ」と呆れたように言う伊織がふいっと視線をそらしたのは、触れられた肩を大げさなほど動かして置かれていた手を振り払ったのは、俺がいつも見慣れている伊織なのだろうか。相手が大和じゃなかったら、きっと伊織は無理にでも笑顔を作って相手に心配かけないように振る舞っているんじゃないだろうか。 「なんでもないわけないだろ、辛いなら言えよな」 「だから、これくらい大丈夫だって。俺が出ないわけにはいかないし」 「っ、そのお人好しもいい加減にしろよな」 「別に大和に迷惑かけてないだろ」 「誰が今、支えてやってるんだよ」 「頼んでないし」 「伊織、お前なぁ」  ――器用になんでもこなすはずの伊織の姿が今だけは消えていて、頭で考えるよりも体が動くはずの大和が伊織に対してだけはその態度がどこかちぐはぐで……そして、何より二人の耳が同じくらい赤くなっている。 「……ふ、ふは」 「「!」」  突然、背後で笑い出した俺に二人が同時に振り返った。 「……冨樫?」 「え、なに?なんで笑ってるの?」  ――あんなに他人の顔色を読む伊織が、あんなに周りの空気に敏感な伊織が、大和の気持ちにだけには鈍くて。  ――あんなに遠慮なく人との距離を縮められるはずの大和が、自分の感情のままに行動する素直な大和が、伊織に対してだけは不器用で。  正反対に見えていたはずの二人が、そっくりに見えてきて……そう思ったら、そんな二人がどうしようもなくおかしくて、どうしようもなく愛おしくなった。 「……伊織、次の試合は俺が出るから大和と一緒に保健室行ってこいよ」      *  ――この子、男子バスケ部のマネージャーだよな。 「……」  大和と一緒にいると視線を感じることがあったし、教室を訪ねてくることもあったので、その顔は知っていた。バレンタインデー当日の放課後に、自分のクラスじゃない教室で泣いているなんて、勘を働かせるまでもなく、何があったのか容易に想像できてしまう。そういえば、さっきすれ違った大和は俺に気づくこともなく、校舎を飛び出していった、な。  ――大和に告白、したんだろうな。  そんな顔するくらいなら、告白なんてしなければよかったのに。  大和に好きな人がいるくらい、この子なら、バスケ部でずっと一緒だったこの子なら、気づいていても良さそうなのに。最近の活躍で好きになったような女子たちとは違うだろうに。  それでも、気づいていても、止めることはできなかったのだろうか――?  ――どうして、こんなに傷つくまで必死になれるのだろう。  ――どうして、そんなに苦しむほど好きになれるのだろう。  俺はただ、回ってきた漫画を机に入れっぱなしだったのを思い出して、ここに戻ってきただけだけど。 「お、やっぱここだったか」  そうやって俺はわざと大きな声でつぶやきながら取り出した漫画をカバンにしまう。  ――気づかないわけ、ないけど。  赤くなった目元も、頬に残る涙の跡も、掠れてしまっている小さな声も、気づかないわけ、ないけど。それでも、俺に触れられたくはないだろうな、そう思うから、俺はなにも気づいていないフリを通す。  彼女が本当に戻ってきて欲しかったのは、俺じゃない。  そんな簡単なことがわからない俺ではない。 「じゃあ、俺帰るわ」  俺の声に「あ、うん、」と返ってきた声は先ほどよりも揺れてはいなかったから。だから、そのまま廊下へと俺は足を踏み出した。  ――だけど、少しだけ。  ほんの少しだけ、涙がなかなか止まらないほどに傷つきながらも、自分のことを「最低」だと、「情けない」と呟いてしまうその姿に、その不器用さに、何かが重なった気がした。  ――気のせい、だろうか。  歩き出したはずの俺の足が止まる。 「……」  教室を出ていく俺の足元に向けられた視線が、一瞬、何かを追いかけるような、そんな視線だったように感じて。  ――気のせい、だったかもしれないけど。  俺の長所は「空気が読める」こと、だから。  張り詰めた空気を緩めるのが、思いつめた表情を和ませるのが、俺の役割だから。  間違っていたら、笑ってごまかすことくらいできる自信はあるから。 「あのさ!」  そこが俺の居場所ではなかったとしても、少しくらい、俺も不器用になってみたい。  ――そんなふうに思ってしまったのは、きっと……。

ともだちにシェアしよう!