手渡されたパンフレットから顔を上げた俺は、伊織の言葉をすぐには理解できなかった。 「……え？」 　言われた言葉が信じられず、俺はまっすぐ向けられている視線の先、大きな丸い瞳を見つめ返す。飲み込んだばかりのコーヒーが小さな熱を放ちながら俺の体の中に落ちていく。 「あー、やっぱ無理？　ちょうど土日だし、部活もないならって思ったんだけど」 「え、いや、無理じゃ、ないけど……」 「マジ？　じゃあ、行っちゃおうぜ！」 　開いていたページに被さるように、隣に座っていた伊織が軽く身を乗り出し、俺の視界を埋めた。「こっちの方が駅には近いけど、値段的にはこっちかなぁ」カラフルな写真の上、伊織の白い指が楽しそうにリズムを叩く。 　目の前で揺れる伊織の髪からふわりと優しい香りが舞い、俺はわずかに顔を背けた。 「いや、でも」 「何？　お金？　この辺なら安いし、大丈夫だと思ったんだけど。でも、無理そうなら俺が出すよ。俺、バイト代あるし」 「っ、そうじゃなくて！」 「？」 　反射的に俺がパンフレットを閉じると、伊織が驚いたように顔を上げた。その表情には俺が今感じているような戸惑いは一切見つけられない。だからこそ余計に俺の心臓は騒ぎ出す。 「……いや、だから……」 　うまく言葉を見つけられない俺に、伊織はわずかに眉根を寄せて少し意地悪く笑った。 「え、何？　一緒に遊園地行くだけじゃん。まぁ、泊まりっちゃ泊まりだけど……何？　なんかいやらしい想像でもしたわけ？」 「⁉」 　隠しきれない気持ちが俺の顔にはもろに表れてしまったのだろう、伊織がわずかに距離を取るように俺から体を離し、ソファに座り直した。伊織がローテーブルに置かれていたお菓子の袋に手を伸ばしながら、視線だけを俺に向ける。 「うわぁ、マジか。……大和さ、バレンタインの次の日のこと、ちゃんと覚えてるよな？」 　その声は先ほどのように弾んではいなくて、その視線はまっすぐ俺の瞳を窺っている。俺の視線は伊織の口元に咥えられたポテトチップスへと逃げる。 「……覚えてます」 「だよな？　じゃあ、大丈夫でしょ」 　そう言って伊織は俺に有無を言わせない笑顔を作る。指の先を舐めながら「あ、これウマイ」と呟く伊織の声に、俺は視線をコーヒーの入ったマグカップへ向けながら息を吐き出した。 「誰かに会う心配もないしさ……あと、せっかくのホワイトデーだし？」 　抱えた袋の中に手を突っ込んだまま、こちらを見ることもなく続けられたその言葉が、意外なほど優しく響いたので、俺は苦いコーヒーを口に含ませながらも頷くことしかできなかった。 「……わかった」 「よし、じゃあ早速予約しようぜ」 　伊織が親指と人差し指を立てたまま、先ほど俺が閉じてしまったパンフレットを広げた。 　　　　　＊ 　――最初はただ、伊織がチョコレートの話を持ち出してきたので、それをごまかそうと思っただけだった。 「俺、たぶんもう普通にチョコレート食べられると思う」 　苦手になってしまった思い出は、先ほど口にした甘さによって塗り替えられてしまった。食べかけだったトリュフの生ぬるさも、食べたばかりのアイスの冷たさも、そのすべてが伊織の熱に繋がっている。 「え、なんで……ん、……ちょっと待(ま)っ……んん」 　戸惑うような伊織の小さな抵抗でさえ、唇の先に触れた冷たい温度でさえ、今の俺は飲み込んでしまえる。 　――すぐに離すつもりだった。 「……伊織」 　そう名前を呼んだ隙間で、自分の息が触れてしまった薄い唇が小さく恥じらうように動いた。「……大和」それは声ではなくて、ただの熱にしか感じられない吐息を吐き出す。 　それでも、そっと元に戻っていくのだと、そのまま閉じられていくのだと、そう思っていた。閉じていたはずの瞼が薄く開き、揺れるような伊織の瞳が俺の視線を捕らえる。 「ん……」 　――わずかな呼吸を残して触れられた唇は、先ほどの小さな隙間を残したままだった。 「！」 　――そこにはまだ、甘い冷たさが、ほんの少しだけ残っていた。 　戸惑うように触れていたはずなのに、お互いの熱が混ざり合うに従って、求め合う気持ちが加速していく。 　もっと深く触れたくて。 　もっと伊織の熱を感じたくて。 　もっと俺を受け入れてほしくて。 　目の前の伊織が、俺にしか見せない表情(かお)をもっと見たくて…… 「ん、……あ、……うん」 　伊織の漏らす微かな声が俺の耳に触れる度に、押しとどめていたはずの熱が溢れていく。 　――それは、初めての感覚だった。 　頭の中は薄く靄がかかっていて、何かを考えるということ自体を拒否している。 　指先まで熱く感じるほど体温は上がっているのに、不思議と体はフワフワと浮き上がるような心地よさに包まれている。 　先ほども感じた熱が大きくなっていくのを自覚しながらも、先ほどはあったはずの躊躇う気持ちが、踏みとどまろうとする理性が、今は怖いくらいに感じられないことに気づく。自分の体なのに自分のものではないような、そんな歯がゆささえ押し寄せる欲に流されていく。 「……大和？」 　繋がった視線の先、そっと窺うような伊織の瞳が、赤くなっていく頬が、いつの間にか俺のシャツを掴む小さな手が、目の前の伊織を作るそのすべてが愛おしくてたまらなかった。 「伊織」 「……？」 　――頭を通らない感情が、そのまま言葉になって零れていく。 「好きだよ」 「！」 　俺の気持ちなんか知っているはずなのに、俺が呟く度に少しだけ目を丸くさせる伊織が可愛くて。 　――溢れ出る想いを押しとどめることなんか、もうできない。 　こうやって触れ合えている奇跡に、幸せしか感じられなくて。 　どうしようもなく嬉しくて、どうしようもなく泣きたくなる。 　二人の重みにソファが軋む、その音ですら、俺の耳には心地よく響く。 　――現実感が消えていくような心地よさの中で、このまま……。 「……？」 　見慣れない風景では全くなかったけれど。 　ふわふわと心地よい暖かさに、ぼんやりと寝起きの頭が回り始める。瞬きを繰り返すうちに次第にぼやけていた視界が鮮やかさを取り戻し、そして……。 「ぅわぁっ！」 　思わず叫んで飛び起きた。 「起きた？」 「……え、あ、あれ？」 　俺が寝ていたソファを背に床に座っていた伊織が顔を振り返らせ、俺の顔を覗き込むように視線を向けてくる。 「おはよ」 「おはよう……って、え？　ちょっと、今何時？」 　かけられていた毛布を握ったまま、俺は視線を巡らす。見えるのは、いつもと変わらない伊織の家のリビングの風景で、開けられたカーテンからは柔らかな日差しが差し込んでいる。 「８時だけど」 「８時……夜じゃないよな？」 「こんなに明るいのに夜なわけないでしょ」 　そう言って伊織がリモコンを手に取り、テレビのスイッチを入れた。映し出された画面には、朝の情報番組が流れている。 「そ、だよな……」 　えっと、朝？ 　あれ？ 　俺、昨日あのまま泊まったのか？ 　ようやく自分へと目を向ければ、毛布の中の制服のズボンにはシワがついている。着ているシャツもセーターも昨日の格好のままだ。 　一体、いつ俺は寝てしまったのだろう。 「昨日のこと覚えてる？」 　伊織は両膝に乗せていた雑誌を閉じると、大きめのパーカーから覗く項《うなじ》に手を当て、ため息交じりに聞いてきた。 「えっと……」 　その呆れ返るような空気に小さな怒りさえも含まれている気がして、俺は必死で記憶を手繰る。思い出せるだけ思い出してみるが、このソファで寝てしまったところにはたどり着かない。はっきりと覚えているのは、甘いアイスの温度と熱い伊織の口の中の体温、そして曖昧になっていく自分の感覚……。 「……覚えてるけど。でも、正直、途中までしか思い出せない」 　俺は呼び覚ましてしまった記憶の鮮明さに鼓動を弾ませながらも、途切れてしまった記憶について正直に答えた。恐る恐る伊織の顔を窺う俺に、伊織はあっさりと言った。 「そう、それであってるよ」 「え？」 「俺のことソファに押し倒したまま、寝ちゃったんだから」 「は⁉　え、ね、寝た？」 　驚く俺を見下ろすように、立ち上がった伊織が大きなため息をついた。 「デカくて重い大和に押し潰されて、俺、大変だったんだからね？」 「！」 「どうにか抜け出せたけど、俺じゃ大和を運べないし。だからそのまま寝かしておきました」 「……すみません」 　伊織から告げられた事実に、俺は体を縮めるようにして首をうなだれる。ソファの上で小さくなってしまった俺に追い打ちをかけるように、伊織が先ほどよりもさらに大きなため息をついた。 「大和さ、俺に言った言葉は覚えてる？」 「え？　言葉？」 　思わず顔を上げた俺だったが、伊織を見上げる新鮮さよりも、ゆっくりと作られていくその表情の方が気になってしまう。 「ふーん、覚えてないんだ」 「え、あ、伊織……」 「大和」 　伊織が怖いくらいに完璧な笑顔を作り、聞いたこともないような低い声で俺の名前を呼んだ。 「はい」 「俺に触(さわ)るのしばらく禁止な」 「は⁉」 「禁止な」 「……はい」 　俺を見下ろすその表情(かお)は、もう笑っているのか怒っているのかわからないほど冷ややかだった。 　しばらくっていつまでだよ？　と思ったものの、それを確かめる勇気は俺にはもう残されてはいなかった。 　伊織が用意してくれた朝食を食べ終え、せめてものお礼にと食器を洗っていると、ダイニングテーブルを拭いていた伊織が不意に振り返った。俺は泡だらけの手を冷たい水で流し、カウンターから顔を向ける。 「そういえば大和がくれたチョコだけど」 「？」 　濡れた手で蛇口をひねると、静かな空間につけっぱなしになっていたテレビのボリュームが少しだけ上がる。伊織は繋がった視線をふわりとテーブルへと移しながら、俺に言葉を投げる。 「アレお酒が入ってたみたいだよ」 「え」 「やっぱり気づいてなかったんだ」 「お酒……」 　――チョコを購入した時の光景を思い浮かべる。 　確かに棚には色違いのパッケージが二種類並んでいた。ちゃんとじっくり選びたかったけれど、男一人でチョコを買うのはやっぱり恥ずかしくて、値段の高い方なら間違いないだろうと安易に選んでしまった。 「……伊織は、その」 「あぁ、多分だけど、俺が食べた方よりも大和が食べた方に偏ってたんじゃない？　俺は全然気づかなかったし」 「じゃあ、俺、お酒のせいで……」 「お酒のせいで？」 　布巾を手にしたまま顔を上げた伊織が、先ほどと同じ笑顔を貼り付けていたので、俺はそっと視線を下げて、再び蛇口へと手を伸ばす。 「……なんでもないです」 　そう呟いた俺の声は再び流れ出した水音に重なった。 　　　　　＊