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『ホワイトデー*前』side伊織
――ホワイトデーだから、と言ったのは嘘ではなかったけれど。
それでも、この場所を旅行先に選んでしまった理由は、それだけではなかった。
本当は一人で行くべきなのかもしれない。
いや、「行かない」という選択こそが正しいのかもしれない。
「伊織? 予約できた?」
パンフレットから顔を上げた大和が、俺に視線を向けた。
俺はとっさに大和に画面を覗き込まれる前にと、裏返したスマホをテーブルに置いた。
「あ、うん。できたよ、大丈夫」
予約完了のメールが届いていたのをすでに確認していた俺は、そう言って小さく笑って見せる。大和は一瞬、不思議そうな表情を見せたものの、ふわりと視線を外してテーブルの上に置かれたガイドブックへと手を伸ばした。
「……あー、じゃあ、どこから回るか決めるか」
「うん、決めちゃおう」
そう言ってわざとらしく弾ませた俺の声に気づけないくらい、大和の耳の先は赤くなっていて、そのことに俺は寂しさと安堵を混ぜ込んだ小さなため息を漏らした。
「……」
視界の端に映る紺色のカバーが、先ほどまで手元で表示していた写真を思い出させる。
――絶対に会える保証はないのだから、話す必要はないだろう。
話したら、きっと大和は無理にでも探そうとするだろうから。
そんなふうに必死になれるほどにはまだ、俺の決心はついてはいなかった。
*
聞き慣れたヒールの音に続き、鍵の回る音が廊下から聞こえてきた。
「ただいまー」
コートを脱ぎながらスーツ姿の母さんがドアを開き、俺はキッチンから「おかえり」と声をかけた。なんでもないいつも通りのやり取りの最後、俺はわざとらしく視線をリビングのソファへと向けた。
「?」
母さんが俺の視線の先を追うように顔を振り返らせる。
「あら? 大和くん、寝ちゃったの?」
大きめのソファに収まりきれない体を丸めるようにして、毛布をかけられた大和はスヤスヤと穏やかな寝息を立てている。
「そう、ちっとも起きなくて」
母さんが俺の方へ視線を戻したのを感じながらも、俺はレンジのスタートボタンを押してキッチン内にその稼働音を響かせた。
何かを感じ取られるようなことはないだろうけれど……それでも、なんとなく母さんとまっすぐ目を合わせるのを避けてしまう。
そんな俺の様子に気を止めることもなく、母さんは俺が畳んでおいた洗濯物の方へと手を伸ばす。いつもならソファに積んでおくところだけど、今日はソファを大和が占領しているので、ダイニングの椅子の上に置いていた。
「部活で疲れてるのかしら? 先月、大活躍だったんでしょ?」
「んーまぁ。あ、一応、大和の家には連絡したんだけど……」
俺は火加減を確かめるように鍋の方へと視線を向けたまま答える。
「そのまま泊めて欲しいって?」
「あ、うん。申し訳ないけどって、おばさんが」
炊飯器を開けると、俺と母さんの間にふわりと優しいご飯の匂いが広がる。
部屋の中へと消えていく水蒸気越しに、母さんが小さく笑って言った。
「ふふ、寝てる大和くんを運ぶなんて無理だしね。明日は土曜日だし、いいわよ、このままで」
洗濯物を抱えた母さんが「着替えてくるね」とリビングのドアを出たのと、俺の背中で仕事を終えたレンジがピーピーと鳴き出したのは、ほぼ同時だった。
俺が淹れたお茶をすすりながら、母さんは大量のチョコレートが放り込まれた袋へと視線を向けた。俺は自分の分と大和の分をそれぞれ別の大きな袋に入れて、ソファの前のローテーブルに置いていた。
「相変わらずすごい量ねぇ……」
「半分は大和のだし」
「あら、大和くんも隅に置けないわね」
積み重ねられたチョコレートの山の奥、大和は相変わらず目を覚ます気配を全く見せることなく、ソファに沈んでいる。
「……」
エアコンの温かい風が舞う静かな室内には、俺と母さんの緑茶をすする音が響く。いつもならテレビをつけているけれど、今日は大和がそのそばで寝ているので遠慮することにしたのだ。無理に会話をする必要はないのだけれど、なんとなく母さんは俺と話していたいのか、時々何かを探すように目線を動かす。
そして、母さんはキッチンカウンターに置かれていたプラスチックのケースに目をとめた。小さな透明ケースの中には、明らかに食べかけとわかる隙間を作ってチョコが二つ並んでいる。
「あれ? それは?」
「!」
先に自分の部屋に持っていっておけばよかったと思ったが、もう遅い。
下手に嘘をついて「母さんも食べたいな」などと言われても困るので、俺は正直に答える。
「あー、これは大和がくれた。ま、コンビニで買ったヤツじゃん?」
なんでもないことのように、声を揺らさないように気をつけながら、俺はそっと視線を手元の澄んだ緑色へと落とす。母さんは「あら」と一言だけ発すると、程よい温度になった湯呑みを両手で包み込んだまま、小さく笑って呟いた。
「……お酒入りなんて高校生のくせに生意気ね」
「お酒?」
母さんの言葉に思わず俺が顔を上げると、母さんは少し得意げな表情《かお》をして、楽しそうに教えてくれた。
「コレ新発売のでしょ? もともと人気のある商品だったけど、最近大人用としてお酒入りが出たのよ」
「……そう、なんだ」
柔らかなお茶の香りを吸い込みながら、俺はそっと意識を自分の背中側、ソファで眠る大和の方へと向けた。
――じゃあ、大和の雰囲気がいつもとは少し違ったように感じたのは、全部、お酒のせいだったのだろうか?
*
大和が膝に置いていたガイドブックから、小さな付箋が滑り落ちた。
「あ」
何かを考える間もなく、お互いに自然に手を伸ばしていた。
「!」
指先が触れた、そう意識するよりも前に、大和が大げさなほど体をビクつかせて手を引っ込めた。
「あ、ごめ、わざとじゃないから」
そう言って俺の顔から視線をそらして気まずそうに言葉を探す大和の顔が、少しだけ赤くなっている。
「あ、うん……」
こんなにあからさまに反応されると、こちらの方が落ち着かなくなってしまう。
俺は大和が落とした付箋を拾い、開かれたままのガイドブックの上に置いてやる。
こちらを見ないようにする大和は、その耳まで熱を持っているのが、はっきりと見てとれる。
――そんなに俺のこと意識してるんだ。
そう思ったら、少しだけ俺のいたずら心が疼きだした。
――思い出されるのは、ほんの数日前の出来事。
溶け合わせた熱の中に注ぎ込むように紡がれた言葉たち。
初めて見る大和の柔らかな表情 に、どうしていいのかわからなくなった。
「伊織……好き」
「伊織……可愛い」
「伊織……俺、今、すごい幸せなんだけど」
恥ずかしさと嬉しさで胸が締め付けられ、触れ合っているところから体温が上がっていく。笑えばいいのか、泣けばいいのか、もう自分でもよくわからなかった。
「うん……俺も」
そう答えるのが精一杯だった。
「もっと……触 ってもいい?」
そう耳元で囁かれ、俺は返事をする代わりに重ねていた手をぎゅっと握り返した。
――今にして思えば、普段の大和からは考えつかないようなセリフばかりだった。
だから、きっとそれらは全部、お酒のせいだったのだろう。
「大和」
俺の声に、大和が視線だけをそっと俺に向ける。
「……なに?」
離された体の距離はそのままに、窺うように大和が俺を見つめる。
「あの約束だけどさ」
――あんな甘い言葉ばかりで攻められたら、俺の心臓がもたない。
「触るの禁止なのは、大和だけだからな」
「え」
――指先がほんの少し触れただけで、溶けるような熱い視線が、甘い言葉を作る声が、触れたところから上がっていく体温が、そのすべてが簡単に蘇ってしまう。
「つまり、俺からは触れるんだよ」
「!」
――俺をこんなにしておいて、自分はお酒のせいでよく覚えていない、なんて許せないじゃないか。
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