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『ホワイトデー』side大和(1)
窓の外を流れていく景色が一瞬にして真っ暗になり、寝不足気味の自分の顔を映し出す。このトンネルは長いのだろうか、そんなことをぼんやりと考えていたら、「ちょっと、ごめん」という声とともに、自分の手がまだ少し低い体温に包み込まれた。
「!」
突然握られた手に驚いて振り返ると、隣に座る伊織が間にあったはずの肘掛を持ち上げ、椅子の間へとしまっている。
「コレ邪魔じゃん?」
伊織はそう言って満足そうな表情を見せると、俺の方へと体を乗り出しながら再び明るい景色を取り戻した窓へと顔を向けた。二人の間に置かれた手はまだ繋がれている。
「今、どの辺かなぁ?」
「……さぁ」
俺はなるべく意識を持っていかれないようにと、伝わってくる体温を握り返すことはせず、窓の方へと体を寄せる。そんな俺の動きを見越していたのか、伊織はさらに体を傾けると、その柔らかな髪を俺の肩に乗せた。
「!」
懐かしささえ感じてしまう心地よい重さに、ふわりと舞う優しい香りに、俺は背けていた顔を振り返らせる。伊織が俺を見上げて、俺の表情を確かめるように一瞬だけ視線を合わせると、小さく息を吐き出しながらゆっくり瞼を閉じた。並んだ長いまつ毛の影が白い肌に落ちていく。
「……ちょっと寝かせて」
そう小さくつぶやく声に、少しだけ先ほど見えた寝不足気味の自分の顔が重なり、俺は「しょうがないな」と短く答えて、再び景色をかき消してしまった窓に視線を向けた。
「……」
――気圧の変化によって塞がれた耳の奥、数日前の、温かな声が蘇る。
*
いつの間にか逃げ場を失っていた。
伊織が俺の大きな体をソファの枠に閉じ込め、少し意地悪な表情で笑う。
「大和は俺に触 っちゃダメだからね」
「いや、それズルすぎ……!」
どんなに体を丸めても小さな伊織の手は器用に隙間を見つけては俺の体に触《ふ》れてくる。
「ちょ、やめろって……」
バレンタインの日のお返しとばかりに、俺から触 れられないのをいいことに、伊織は散々俺をくすぐり続けた。
「ひ、ひ……ごめんって、俺が悪かった。……お願い、もうやめて……」
俺の何度目かの降参の声にようやく伊織の手が止まった。
ソファの上でのたうちまわっていた俺に、マウントポジションをとった伊織の視線が落ちてくる。
「……」
声を発することなく静かに向けられた視線に、くすぐったさから解放された俺は乱れた呼吸を整えながら、窺うように笑いかける。
「伊織? そろそろどいて……」
ドンッと胸の上にかかった重みに思わず手を伸ばしそうになって、寸前で思いとどまる。
「伊織……?」
「すごい、大和の心臓バクバクしてる」
「っ、それは」
伊織が俺の胸に顔を寄せたまま、俺よりも小さな手で俺の体を抱きしめてきた。俺の全身を伊織の心地よい香りが包み込む。
「!」
伊織に触れている表面積が一気に広くなり、俺の心臓はさらに大きな音を立てる。
――引きはがしたいけれど、伊織に触れることを許されていない俺にはどうにもできない。
「ちょ、伊織! 離れ……」
伸ばされた足の先が触れ、靴下を履いているはずなのに、その高い体温が伝わってきた。
――いや、本当は離れたくなんてなかった。
「気持ちいい」
「え」
小さく呟く声に視線を向けると、見慣れた大きな瞳がこちらを見上げていた。直接触れているわけではないのに、繋がったその視線さえも熱を帯びていく。
――触れられなくて困っているのは、引き剥がすためなんかじゃなくて。
「俺、寝るわ」
「は?」
――今、目の前にある、こんなにも近い距離にある、この優しい体温をもっと感じたいから。
「大和の匂い、なんか、すげー安心する」
「え、いや、ちょっと⁉」
――俺の体を抱きしめてくる俺よりも小さな体を、抱きしめ返したいから。
「……頭だけなら触ってもいいから……」
俺の中でせめぎ合う欲望と理性を完全に無視している伊織がそんな言葉を残して、目を閉じる。
「……」
俺は大きく息を吐き出し、俺の呼吸に合わせて微かに揺れる、その頭に手を伸ばす。窓から差し込む西日に透けていく髪をそっと撫でると、柔らかな伊織の髪の感触が指の間をすり抜けていき、その心地よさに俺はそっと目を細めた。
すっかり夢の世界に落ちてしまった伊織からどうにか体を引き抜いた俺は、ソファ横のボックスからブランケットを取り出した。
体を少し丸めるようにして眠る伊織に柔らかな手触りの大きめのブランケットをかけてやると、いつもより幼さの増した無防備な顔が「ん」とわずかに眉を寄せる。
「……はぁ」
大きなため息とともにその寝顔から顔を背けた俺は、足元に散らばったパンフレットやガイドブックたちを拾い集め、ローテーブルの上に積み重ねる。自分の指が触れた先の大きな文字を確かめながら、表紙の写真を見つめていたら、ふと、些細な疑問が浮かんだ。
――そういえば、伊織はどうしてここを選んだのだろう?
有名なテーマーパークがある場所だし、学生の観光地としては定番だ。だから、まぁ、気にするほどのことではないけれど……でも、行き先の相談さえなかったことに、少しだけ違和感が残る。
「……伊織」
「ただいまー」
ガチャガチャっと鍵を回す音ともに、廊下の先の玄関から声が飛んできた。
「!」
思わず伸ばしそうになった手を慌てて引っ込め、閉じられているリビングのドアを振り返る。磨りガラスの向こう側、ライトの光が暗かった廊下を照らしている。俺はとっさに片付けたばかりの雑誌を手に取った。
「あ、お邪魔してます!」
ドアが開けられた、その瞬間、床に座ったまま背筋を正した俺は頭を下げた。
こちらへと向けられた視線が、一瞬驚いたようにふわりと浮いたが、すぐに見慣れた小さな笑顔に変わる。
「あら。今日は伊織が寝てるの?」
「あ、はい。あ、あの、この間はすみませんでした!」
「ふふ、いいのよ。気にしないで」
「えっと、じゃあ、俺そろそろ……」
そう言って手に取った雑誌を元に戻しつつ立ち上がった俺に、コートをハンガーにかけていた小さな背中が振り返った。
「あ、大和くん!」
「はいっ」
呼ばれた名前に、まっすぐ向けられた視線に、ブレザーに袖を通していた俺は再び背筋を正した。伊織の薄い茶色がかった瞳とは違う、深い黒色をした瞳が俺の顔をじっと見つめている。
「……」
「……えっと」
謎の沈黙に耐えかねた俺がそっと視線を解こうとすると、その表情は俺が見慣れたものへと変わっていった。一瞬だけ寄せられた眉根が、柔らかく細められた目が、楽しそうに小さく笑う口元が、そのすべてが今まさに後ろで眠っている存在に繋がってしまう。
「大和くん、伊織と付き合ってるでしょ?」
「!」
まるで「夕飯食べてくでしょ?」みたいな、あっさりとした響きで言われた言葉に、俺は一瞬、何を言われたのかわからなくなる。
「え、あ、えっと……」
とっさに言葉を返すことができず、息を飲み込みこんだ俺に「あれ? 違うの?」とこれまたちっとも緊張感のない声で投げかけられる。
「……」
――素直に答えてもいいのだろうか?
伊織を好きな気持ちに嘘はないし、こうして付き合えたことに後悔なんてないけれど……でも、それを今、俺が勝手に伝えてもいいのだろうか?
「……ん」
視界の端がわずかに揺れ、小さな声が耳の奥へと滑り込んできた。
「!」
俺はこちらへと向けられたままの視線を掴み取るような勢いで、顔を上げた。
――反対されるかもしれない、喜んでなんてもらえないかもしれない。
それでも……それでも、ここで嘘をつくことだけはできない。
震えそうになる自分の手をぎゅっと握りしめる。声が揺れないように、視線を逸らさないように……そして、何よりも俺の言葉が少しでも伊織を守れるように、伝わればいい――。
「あの、俺が好きになったんです! 伊織は俺と付き合うことを最後まで悩んでて。それでも俺がどうしても諦めきれなかったから、だから、伊織は何も悪くなくて、俺が……」
途中で止まってしまったら、もう二度とうまく伝えられなくなる気がして、溢れてくる気持ちのままに俺は言葉を重ねた。そんな俺を見つめる視線がふわりと柔らかくなり、俺の名前をまっすぐに呼んだ。
「大和くん」
「!」
確かな響きで届いたその声に、言葉が止まる。
少し困ったように小さく笑ったその表情《かお》は、やっぱり伊織によく似ていた。
「ごめんね。ちょっとだけ意地悪しちゃった」
「え」
「大丈夫。私は大和くんを責めてるわけじゃないし、二人のことを反対してるわけでもないから……ふふ」
申し訳なさそうな表情を作りきれずに背けられた顔の先、小さな肩が揺れている。
「え、あー……」
じわじわと顔が熱くなる。勢いに任せて吐き出した言葉は嘘ではないけれど。
こんなにもあっさりと受け入れられて、さらには声を震わせながら笑われてしまうと、緊張していたはずの俺の体から力が抜けていく。それと同時にどうしようもなく恥ずかしくなってしまった。鏡なんか見なくても、自分の顔が赤いのがわかってしまう。
視界の端で寝返りを打つ伊織が起きなくてよかったと、そう思うことでどうにかこのいたたまれなさを抑え込む。
「大和くん」
再び響いたその声にはもうわずかな震えも感じられない。
再び繋がった視線の先、赤色の口紅を薄ませた唇から、それはどんな言葉よりも優しく響いた。
「伊織のこと、好きになってくれて、ありがとう」
「!」
その一言に、そこに込められた想いに、俺の胸は痛いくらいに苦しくて、どうしようもなく温かくなった。
だから、何かを考えるよりも先に、言葉は出てしまっていた。
「あの、俺、伊織のこと、絶対大切にします‼」
そう言って頭を下げた俺に、小さく震わせながら笑う声が再び耳に届く。
「ふふ……なんだか、プロポーズみたいね」
「え、あ、いや」
落ち着いてきたはずの熱が一気に上がっていく。開いた手のひらはじっとりと汗ばんでいる。恥ずかしさで顔を俯けたままの俺に、その柔らかな声はそっとため息を吐き出しながら、意外な言葉を乗せてきた。
「……まぁ、そもそも私には大和くんを責める資格なんてないしね」
「え」
思わず視線を上げると、先ほどと変わらない声のトーンのまま、少しだけ寂しさを滲ませた顔が向けられる。
「伊織を血の繋がった父親から引き離したのは私だから。伊織を手放したくないっていう気持ちだけで、私はすべてを押し切ってしまったんだから」
「それだけ……それだけ、伊織が大切だったってことですよね」
思わず返していた俺の言葉を受けて、一瞬何かを考えるように揺らされた視線に、確かな温度が加えられる。
「大切、と言うよりは……もう愛しちゃってたのよね」
そう言って笑った顔には、もう寂しさなんて見えなくて。そこにあるのは優しさよりも深い愛情だった。そして、その声はすべてを包み込むような温かさを俺に伝えてきた。
*
並んだ座席の先、視界を流れていく表示がニュースから次の停車駅へと切り替わる。それと同時に車内にも次の駅の到着時間がアナウンスされた。
「……つぎ?」
まだ少し夢から抜け切れていない伊織がゆっくりと体を起こし、瞬きを繰り返しながら俺を見上げてきた。俺はそんな無防備な伊織の表情に、思わず笑ってしまう。
「ふ」
「?」
「伊織、寝癖ついてる」
「え」
繋がれていない方の手を、俺はその柔らかな髪へと伸ばす。
「あ、大和、約束……」
戸惑うように体を引こうとした伊織にかまわず、俺は逃げようとしていた頭を後ろに回した手で捕まえる。
「頭だけなら、いいんだろう?」
「!」
一瞬だけ引き寄せた伊織の小さな耳はいつの間にか赤くなっていた。
そんな些細なことがどうしようもなく幸せで、どうしようもなく嬉しい。
――だから、思ってしまう。
「伊織……降りる準備しよ」
「あ、うん」
そうやって伏せられた視線が、惜しむようにゆっくりと離れていく手が、この先もずっとそばにあってほしい、と。
――あの日、あの温かな声を前に誓った言葉は、嘘ではないから。
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