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『ホワイトデー』side伊織(1)
春になりきれていない風は少しだけまだ冷たいけれど、吸い込んだ空気の中に名前も知らない花の香りが混じっていて、ふわりと心が柔らかくなる。足元の影でさえ、薄まっているように見えるのは気のせいだろうか。
「おー! さっすが休日! めっちゃ人いるなぁ」
大和の声もどこかいつもより弾んでいる気がして、それだけで胸の中がくすぐったくなってくる。振り返った大和の後ろには淡い春の青空が広がっている。この角度も、この視界も、繋がる視線も、目の前にあるものすべてがあまりにも自然に存在していて、嬉しいはずなのになんだか泣きたくなる。
「伊織? どした?」
思わず顔を俯けた俺に優しい声が落ちてくる。俺はズッと鼻をすすり「なんか、花粉? きたかも」と適当にごまかした。
「うお、マジか。花粉症デビュー?」
「いや、まだわかんないけど」
「発症しちゃうと毎年なるんだろ? 伊織かわいそうに……」
心配しているというよりもどこか楽しんでいるような大和の表情《かお》に、若干イラっとした俺は「……大和、あれから行く?」と笑顔で大和の背後に見える新しいアトラクションを指差す。
「あれ?」
俺の視線をなぞるように振り返った大和が、一瞬にして顔を強張らせた。
「あ、あー、あれは……」
「最近できたばかりなんだよね、あれ」
「いやー、それより俺はあっちの方がいいかな。ほら、だって、せっかく計画立てたわけだし」
そう言って大和が俺の肩に手を置いて、無理やり方向転換させてきた。まぁ、別に本気で乗りたいわけじゃないからいいんだけど。
「大和って絶叫系乗れるのに、ああいう足がつかないのダメだよな」
「ホント、それだけは勘弁して……」
一目見ただけで想像してしまったのだろうか、先ほどまでの小憎らしい顔はどこかに消えてしまっていた。それだけでまたしても俺の胸の中はくすぐられ、笑いが堪えられなくなる。
「ふ、ふは」
「……」
「仕方ないなぁ。じゃあ、計画通りあっちから回りますか」
悔しそうな大和の顔を確かめて、俺は足を踏み出すとともにその大きな手の中に自分の手を滑り込ませた。
「! いお、」
びくりと震えた大和の指を捕まえ、その腕を引っ張りながら言ってやる。
「早く行こう。今日は一日遊び倒すんだからさ」
「! ……そうだな」
そう言って握り返された力は決して強くはなかったけれど、伝わってくる体温はとても温かかった。
計画していたアトラクションを半分ほど制覇した頃、気づくと太陽は真上を通り過ぎていて、走り回った体からは空腹のサインが発せられていた。俺と大和は遅い昼食を取るべく目に止まったレストランに駆け込んだ。
足を一歩踏み入れただけで、お肉の焼けるいい匂いとポテトの揚がる弾ける音に包み込まれた。空腹レベルが一気に上がる。視線を巡らすと、昼のピークの時間帯は過ぎていたが、それでも店内は人でいっぱいだった。俺と大和はどうにか空席を窓側に見つけて、二人で並んでトレーを置いた。
「さっきさぁ」
「ん?」
すでに包み紙を外してかぶりついていた大和が視線だけで振り返る。大和の大きな手にも収まりきらないアメリカンサイズのハンバーガーからはベーコンがはみ出している。
「懐かしい夢見た」
「夢? あぁ、新幹線で寝てたときか」
大和は口の端についたケチャップを指で拭うと、そのままコーラの入った紙コップへと手を伸ばす。俺はポテトをつまみながら、隣に座る大和の顔を覗き込むように首を傾けた。
「そう。……俺が大和のファーストキス奪っちゃった? 幼稚園の時の……」
「‼ っ、んん……、ゴホゴホ」
「うわ大丈夫? こっち飲む?」
コーラでむせかえった大和に、俺は自分の飲み物を差し出す。大和は軽く俺を睨みながらも受け取り、まっすぐ伸びるストローから烏龍茶を飲み込んだ。
「……お前なぁ」
「うん?」
「なんでそういうことを突然言うんだよ」
ため息に混ぜるように言われても、少し視線を強くされても、残念ながら今の俺にはちっとも効かない。
「いや、ちょうど夢に出てきたから」
「だからって、こんなところで言わなくてもいいだろうが」
そう言って怒って見せるけど、赤くなった耳の先を隠せていない大和は、ちっとも怖くない。
「子供の頃の話じゃん。それに気にしなくても誰も聞いてないって」
店内には少し声を張らないと会話できないくらいの音量で陽気な音楽が流れている。他人の声なんてそう簡単には聞こえないだろう。
「……そうだけど」
――俺の言葉一つで変わっていく大和の顔がもっと見たくて、俺は少しだけ意地悪をしたくなったのかもしれない。
「あの時さー、大和はすぐにあれがキスだって気づけた?」
返ってきた紙コップの軽さに驚き、俺は大和のトレーに置いてあったコーラへと手を伸ばす。
「え?」
「いやさ、あれって完全に事故じゃん? 正直、俺はキスしたかなんてよくわからなかったくらいだったんだよね。だから……大和はどうだったんだろうって」
そう言って俺がためらうことなくストローをくわえながら大和を見上げたのは、もっと大和を動揺させたかったからだ。
*
――幼稚園の時のことだ。
劇で『白雪姫』をやることになって、教室での時間は劇の練習ばかりになっていた。
その日は、白雪姫役の女の子が風邪でお休みだった。
どういう経緯だったのかは正直覚えていないけれど、その女の子の代わりを俺がやることになった。代わりと言っても、その日は白雪姫が死んじゃった後のシーンだったから、俺はただ寝ているだけでよかった。
王子役の大和は、少し顔を近づけるだけ。幼稚園の劇にキスシーンなんてない。
目を閉じているだけ、それは簡単なようで意外と難しかった。
周りの音が気になる。自分の見えていない世界が気になってしょうがない。
「大変だ!」
「白雪姫が死んじゃった!」
「目を覚まして、白雪姫!」
じっと寝ているのが苦痛になってきて、胸の上に組んだ両手にグッと力を入れた時、一番聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。
「どうしたんだい?」
聞こえてきた大和の声に、思わず開けそうになった瞼を急いで戻す。
「王子様!」
「白雪姫が死んじゃったんだ!」
「なんて美しい姫なんだ」
先ほどよりも近い距離に大和がいることが伝わってくる。
俺はひたすら目を閉じて、見えない視界に耐えようと唇の先を噛みしめる。
周りの様子が見えず、何が起きているのかわからないというのは、しかもそれが自分だけだというのは結構耐えがたいものがある。それでも、このシーンの練習はもうすぐ終わるはずだと思えばなんとか最後まで我慢できそうだった。そう思っていたのだけど……。
「……」
なんか、鼻がムズムズする。
そばで話しているはずの小人役の声が遠くなり、あと少しで練習が終わる気配が伝わってくるのに、一度意識しだすと気になって仕方がない。
かゆい。
くしゃみしたい。
もう無理!
噛み締めていた唇を俺は離してしまった。
「ふ、ふわっくしゅ!」
「!」
くしゃみを我慢しきれずに顔をわずかに上げてしまった俺と、俺の顔を覗き込むようにしていた大和の顔がぶつかった。俺の視界は大和の顔でいっぱいになり、何が起きたのかわからなくなる。それは大和も同じだったようで、俺たちはお互いの目を見合ったまま瞬きを繰り返していた。やがて大和がぽそりと呟いた。
「……冷たい」
そう言って袖で顔を拭いた大和のなんとも言えない表情がおかしくて、俺がくしゃみしたせいなのに俺は笑ってしまった。
ぶつかった瞬間のことは正直、よくわからなかった。鼻のあたりが痛い気もしたけれど、何よりもびっくりの方が大きかったのだ。
だから、俺たちのことをすぐ近くで見ていた小人役の女の子が「今、大和くんと伊織くんがチューしたね」と隣の子に言った声が聞こえてきて、俺はそれで初めて何が起きたのかわかったんだ。
――こんなに懐かしい夢を見たのは、数日前に見つけた写真が頭の片隅に残っていたからだろう。
*
口の中に広がった甘さと炭酸の強さに俺は一口飲んだだけで、すぐにストローを離してしまった。いや、目の前の大和の表情が予想外だったから離してしまったのかもしれない。
「……」
「え、ちょ、何? そんな顔する?」
もっと照れるとか、焦るとか、そういうのを期待していたのに。
「え?」
「ごめん。謝るから泣かないで」
「いや、泣いてないし」
そう言って顔を背けた大和の表情が向かいのガラスに映り込む。
少しの罪悪感と、優越感。いや、安心感が強いかもしれない。
自分でも最低だな、って思うけど、たぶん俺はちょっと笑っている。
「だってめっちゃ傷ついたって表情《かお》じゃん」
「そんなことないって。あーもう、早く食べようぜ」
大和が食べかけのハンバーガーを手に取り、その大きな口を膨らませた。俺も包み紙を開きながら、視線を正面に向ける。窓の外には現実感のないカラフルな世界が広がっている。
「……大和ってさぁ」
「ん?」
「ほんとに俺のこと好きなんだね」
「‼ ……だから、そういうこと言うなよ!」
そう言ってこちらに顔を向けた大和が、先ほど俺が見たいと思っていた表情をしていて、俺はホッとすると同時にチーズの香りでいっぱいの口を開く。
「いいじゃん。思ったことはすぐに言わないとさ、ほら、言えなくなるかもだし」
「なんで?」
「なんでって、いつでも当たり前に伝えられるかなんてわからないじゃん」
「? 俺はどっか遠くに行く予定もないし、この先、伊織と離れるつもりもないけど」
ガラスに映る大和の顔も耳もどこも赤くなってはいない。あまりにも当然とばかりに自然に放たれた言葉に、俺はもう笑うしかなかった。
「! ……ふ、ふは」
「……なんだよ」
「ううん、やっぱり大和ってすごいなぁって」
「!」
「あ、これ食べたら、ちょっとお土産見てもいい?」
「……いいけど」
――些細なことで傷ついてしまうくらい、大和は俺のことが好きで。
――二人でいる未来になんの疑いも持っていないくらい、俺のことを信じている。
柔らかな日差しは暖かくて、透明な窓の先には鮮やかな夢のような世界が広がっている。
目の前のご飯は美味しいし、店内のざわめきも食欲を刺激する匂いも心地いい。
初めて乗ったアトラクションはどれも期待以上に楽しませてくれたし、周りから聞こえる声も俺たち以上に弾んでいた。
肩を少し動かせば簡単に視界に入り込む、視線をわずかに上げただけで簡単に繋がれる。
こんなにも当たり前に、俺の隣には大和がいてくれる。
――こんなに幸せなことがあるだろうか?
これだけあれば十分じゃないか。
この、今、目の前にあるものだけを大切にしていけばいい。
――そう思うのに……どうして俺はまだ知りたいと、思ってしまうのだろう。
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