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『ホワイトデー』side大和(2)
劇的な展開を期待していたわけじゃない。
ただ、少しだけ伊織の役に立ちたいとそう思っただけだ。
それなのに、現実は俺の予想をはるかに超えて、突然、目の前に現れた。
「父さん……?」
まったく予想していなかったわけじゃないけれど。
でも、こんなふうに思いもよらぬ方向からやってくるとは、本当に思っていなかったんだ。
*
「大切、と言うよりは……もう愛しちゃってたのよね」
その言葉は確かな熱を持って、俺の中に染み込んでいった。だから、なんとかしてその気持ちに応えたくて、今、俺が言えることはこれしかないと思った。
「っ、……あの、ありがとうございます!」
伊織と付き合うことを認めてくれて、伊織をここまで育ててくれて、何より伊織のことを愛してくれて、そのすべてが『今』に繋がっているのだと、そう思ったらこれ以上の言葉なんて見つからなかった。
「! ……ふ、ふふ」
思わず下げていた俺の頭にその小さな笑い声は優しく降ってきた。
そっと俺が顔を上げると、向けられていた柔らかな視線がゆっくりと色を変えていく。
「?」
「……下まで送るね」
何かを決意したようなその静かな声に、俺はただ頷くことしかできなかった。
ふわりと一瞬浮き上がるような浮遊感の後、エレベーターの階数表示が変わっていく。閉じ込められた狭い空間の中で、伊織と同じ柔らかな香りが漂う。ゆっくりと流れていくドアの向こう側を見つめたまま、先程と同じ静かな声が響く。
「さっき見えたんだけど、旅行先は二人で決めたの?」
いつもとは少し違う雰囲気を感じ取り、俺はちょっと身構えるように握りしめた手をコートのポケットに入れていた。
「あ、いえ、行き先は伊織が決めてくれて」
「……そっか」
それはほんの一瞬の間、だったように思う。声の響きは変わらないけれど、後ろからでは表情を確かめることもできないけれど……でも、何か言葉を飲み込むような空気を確かに感じた。
「あの?」
続きを促すように問いかけた俺の声は、到着を知らせる機械音に重なった。開き始めた扉からは冷たい風が流れ込み、二人同時に首を竦ませていた。エレベーターホールからエントランスまではわずかな距離しかない。俺の半歩後ろでヒールの音が響く。
「これは偶然かもしれないし、本人に聞かないとわからないけど」
「?」
どこか迷いながらも言葉を探すその視線は、俺の方を見てはいなかった。ただ前だけをまっすぐ見つめたまま、薄い白さを伴って吐き出されたその言葉に俺は思わず足を止めた。
「伊織は父親に会いたいのかもしれない」
「え?」
自動ドアが外と内の仕切りを消し去り、自然と混ざり合った夜の空気の中で、小さな星が広がる空を見上げる、その黒く澄んだ瞳を俺は振り返っていた。
*
一日遊び倒した最後に思わぬ難問が待ち構えていた。
一つの駅とは思えないほどの広さに、複雑に入り組んだ地下街に、あらゆる方向から押し寄せてくる大勢の人に、俺も伊織も圧倒されていた。
「……出口、どこだ?」
太い柱に表示された駅構内の地図を確認するが、駅自体がとんでもなく巨大なため、方向音痴ではないはずの俺でも正解が導き出せない。一日中体を動かしていた疲れもあるだろうけど、それにしても情報が頭に入ってこない。俺は手元のスマホも確認するが、頼りの地図アプリも外にさえ出られていない俺たちには曖昧な現在地しか教えてくれない。
「もうどこでもいいから、とりあえず外に出ちゃおうぜ」
すぐにでも座り込みたい気持ちを柱に寄りかかることで耐えていた俺は、難解な地図の解読を諦めてそう提案したが、伊織はそんな俺を見上げてため息とともに眉根を寄せた。
「でも、変な出口から出ちゃったら、余計に迷子じゃん」
そう言って、伊織は再び巨大な地図へと視線を戻し、小さな文字を丁寧に拾っていく。
「ここがこの出口だから、その反対側の……」
疲れているのはお互い様で、早くホテルに着きたい気持ちも同じ。少しでも早く体を休ませるためには、確実なルートを探すしかない。それはきっと自分のためだけではなくて、相手のためでもある。俺はもう一度自分に気合いを入れ直し、背筋を伸ばした。
「ごめん。もう一回ホテルに向かうルート見せて」
「うん」
伊織が手に持っていた自分のスマホを俺に差し出した、その時。
「何かお困りですか?」
俺たちの背中から、それはハッキリと届いた。電車の遅延を知らせるアナウンスも、耐えることのない人の足音も、途切れることのないざわめきも、その声をかき消すことはなかった。
振り返った俺は『天の助け』とばかりに「ここに行きたいんです」と勢いよく伊織のスマホの画面を突き出した。少し驚いたように俺を見上げたその顔は、すぐに柔らかく目を細め、小さく笑った。
「あぁ、ここなら、その先の出口を……」
その少し低い声が、目の前に広がる難解な駅構内の攻略方法を伝えてくれている間、俺はそれを聞き取るのに精一杯で、隣に立つ伊織の様子に気づけなかった。
「あー、わかりました! 本当にありがとうございます」
「いえいえ、この駅は本当にわかりづらいからね。お役に立ててよかったよ」
「ホント助かりました」
春用の薄いグレーのコートの襟元からは、白いシャツときっちり締められているネクタイが見える。出口を教えてくれた時に伸ばされた腕の先からは紺色のスーツの袖と銀色の重そうな腕時計が覗いていた。仕事帰りだろうと一目でわかる。巨大な駅を行き交う人々はとどまることなくあふれ続けているけれど、こうして俺たちに足を止めてくれたのはこの人だけだった。その優しさに俺が再び頭を下げようとした時だった。
「旅行かな? 楽しんで……」
その優しい視線が、俺の顔からずっと黙ったまま隣に立っていた伊織へと向けられ、止まった。
「?」
――その一瞬の時間、俺の耳からすべての音が消えた、気がした。
「……伊織?」
そう躊躇いがちに、それでもどこか確信を持った声がはっきりと耳に届く。
名前を呼ばれた伊織の瞳がゆっくりと見開かれるのを、俺はただ静かに見つめることしかできない。
「父さん……?」
その伊織の小さな声が、一瞬にして俺の中にあの日の深い黒色の瞳を蘇らせる。
――冬の空気をわずかに残した夜の中で、放たれた言葉のカケラたちが一気に頭の中を巡っていく。
「もし、伊織が父親に会いたいって自分から言ってきたら」
「そしたら、協力してあげて欲しいの」
「伊織はきっと私には言わないから」
「だから、大和くんがそばにいてあげて」
そう言って渡されたメモも写真も、今、俺が背負っているリュックの内側のポケットに入れてある。
伊織がそれを欲したなら、すぐにでも手渡すつもりだった。
一緒に会いに行ってもいいかと、そう俺から伝えようと決めていた。
――あぁ、そういえば今俺の背中にあるはずの写真は、伊織が夢に見たと言っていた『白雪姫』の劇の当日を写したものだったな。
そんな些細なことでさえ、すべてが今に繋がっていたのではないかと、そう疑いたくなる。
「……」
俺はそっと息を吸い込み、自分の手を強く握りしめる。
待ち構えていた俺の気持ちを無視するようにやってきた現実に、戸惑っているのはきっと伊織の方だから。
――だから、今、俺ができることを。
今、伊織を守れるのは、きっと俺だけだから。
俺は疲れて重くなっていた足を一歩前に動かした。
「あ、あの!」
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