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『ホワイトデー』side伊織(2)

「……伊織?」  耳に届いたその声を、無意識に懐かしいと感じている自分がいて、そのことに自分でも驚いてしまった。最後に会った日からもう十年も経っているというのに、気づいていなかっただけで、こんなにも深く刻まれていたのだ。 「父さん……?」  そう声にするだけで精一杯だった。何を言えばいいのか。何から話せばいいのか。聞きたいことはたくさんあったはずなのに、そのどれもがあやふやでしっかりとした形にならない。もし会うことができたなら……そう期待していたくせに、本当はちっとも準備なんてできていなかった。  隣にいる大和が俺と父さんに戸惑うような視線を向けていることに気づいていたけれど、情けないことに、俺は何も言葉にできず、その場に固まってしまった。 「あ、あの!」  突然大きな声が発せられたかと思うと、大和の大きな背中が俺の視界の半分を埋めた。 「!」  俺と父さんの間に体をねじ込むように足を動かした大和が、その勢いのまま父さんに向かって話しかけた。 「お久しぶりです! すぐに気付かなくて、すみません。あ、俺のこと覚えてないかもしれないですけど、幼稚園の時から伊織と一緒に遊んでた大和です」 「あ、あぁ。……大和くん、か。あぁ、覚えてるよ。いつも伊織と一緒にいてくれた子だろう」  父さんは少し驚いたような表情を見せながらも、すぐに目を細めて笑った。俺はそれを大和の肩越しに見つめることしかできない。 「そうです、その大和です。いや、ほんとびっくりですね。まさかこんなところでお会いするなんて」 「あぁ、本当に驚いたよ。まさかこんなふうにまた会えるなんて……」  そう言って向けられた視線は優しく包み込むような熱と消すことのできない憂いを含んでいる。何をどう感じ取ればいいのか、何をどう理解すればいいのか、目の前の出来事を整理するにはあまりにも時間が足りなかった。 「……」  俺はやっぱり何も言えず、その視線から逃げるように顔を俯けた。 「えっと、お仕事帰りですよね?」 「あ、あぁ、そうだが……」  大和は自分で尋ねておきながら、少し戸惑いながら答える父さんの声を最後まで聞くことなく、言葉を重ねるように続けた。 「じゃあ、お疲れですよね。俺たちも今までずっと遊んでたんで、さすがにそろそろ限界で。せっかく会えたのに申し訳ないんですけど、今日はこれで失礼してもいいですか」 「!」  それは有無を言わせないほどはっきりとした響きだった。言葉が強いわけでも、大きな声だったわけでもない。むしろ少し困ったような笑いを含めて言っているようにさえ聞こえた。見上げてもここからその表情を確かめることはできないけれど、その瞳だけは揺れることなくまっすぐ向けられているのだろうと、そう思った。 「……」  言葉を飲み込んでしまった父さんに、大和は自分から作ってしまった張り詰めた空気を自ら(ほど)くようにふわりと息を吐き出しながら言った。 「あの、これよかったら、俺の連絡先です」  いつの間に用意していたのだろうか、大和はそう言うとジーンズのポケットにしまっていた財布から一枚のメモを取り出した。 「俺たち明日の夕方の新幹線で帰るんで」 「! ……あぁ、わかった」 「本当にすみません。俺もうめっちゃ眠くて。それじゃあ、連絡お待ちしてます」 「……」  父さんは連絡をするとも、しないとも言わなかった。俺に向かって少しだけ寂しそうに笑うと「それじゃあ」と言って、背中を向けて歩き出した。  構内には絶え間なく人が流れていて、父さんの姿もその大勢の中にあっという間に混ざっていく。きっとすぐに見分けがつかなくなるくらい遠くなるのだろう。そう思いながら、静かに消えていくうしろ姿を俺が見つめていると、突然、大和が父さんの消えて行った方向に向かって大きくおじぎをした。 「案内してくれて、ありがとうございました!」  あたりに響き渡るような大きな声に、一瞬、父さんが振り返ったような気がしたけれど、それもすぐに見えなくなった。  大和は頭を上げると同時に俺を振り返った。どこか不安そうな表情を見せながら、大和はその大きな手を俺に向かって伸ばしてくれた。 「伊織、行こう」 「……うん」  俺はその温かな手に触れて、ようやく声を取り戻した。  人混みを避けながら、足を進める大和はまっすぐ出口に向かって顔を向けている。俺はそんな大和の半歩後ろを歩く。 「ごめん。余計なことして」  そうつぶやくように言われた言葉に、俺は繋いだ手を離すことなく、その腕に顔を埋めて言った。変わらない、いつもそばにあった香りが当たり前に俺を包み込んでくれる。 「……ううん、ありがとう」  この温かな手で、この大きな背中で、その全部で大和が俺を守ろうとしてくれたのだと、分かっている。  大和がそばにいてくれて、よかった。  こんなにも心強くて、こんなにも愛しい存在を、俺はきっと大和以上には見つけられないだろう。      *  知らなくてもいいと、思っていた。  父さんと母さんが別れた理由も、自分が生まれた時のことも、知らなくても俺は今幸せに生きているのだから、それでいいと思っていた。俺が何かを知ろうとすることで誰かが傷つくのは嫌だったから。教えてもらえないことは俺が知らなくてもいいことなのだと、そう思ってきたはずだった。  俺にとって大切なのは、『今』と『未来』であって、変えることのできない『過去』ではない、そう思っていたのに――。  ――それはいつもと変わらない日常の一瞬だった。  大和が今日はミーティングだけだからそんなに遅くならない、と言うので、じゃあ一緒に帰るかと俺は図書室で時間をつぶしていた。大和から連絡があって、昇降口へと向かう途中、演劇部の子たちとすれ違った。 「あ、伊織くん」 「今帰り?」 「うん」 「そっか、バイバイ」 「バイバイ。また明日ね」  そんなとりとめのないやり取りをして、階段へと向かうべく歩き出した時だった。 「――どうしても生で観たくてさ」  背中から弾んだ声が静かな廊下に響いていた。聞こえた言葉に、ライブ? それとも舞台かな? なんか楽しそうだな、そんなことを思っていた。 「脚本、イヤマオリトだっけ?」 「!」  その名前が耳に届いた瞬間、俺は思わず足を止めていた。 「イヤマ、オリト……?」  とても懐かしいその響きが曖昧になってしまった記憶のカケラを掘り起こそうとしていた。だけど、それはあまりにも長い間触れることがなかったためか、なかなか答えにはたどりつかない。  ――なんだっけ。なんの名前だっけ。  一度気になりだすと、どうしても知りたくなってしまう。忘れたままでいた時は何も思わなかったはずなのに、記憶を呼び起こそうと動き出した体は簡単には止まってくれない。  立ち止まってしまった俺に振り返ることもなく、演劇部の子たちはそのまま廊下を進んでいく。 「そうそう。しかも今回は演出も手がけるんだよー」 「あーそれは間違いないやつじゃん」 「でしょう」 「ほんと、よくチケット取れたね」 「それは……」  遠ざかっていく足音とともに、その楽しそうに笑う声も消えていった。  足元に並ぶ靴の先を見下ろしたまま、俺は無意識に呟いていた。 「イヤマオリト……」 「伊織?」  隣を歩く大和が俺の顔を振り返り「何? なんて?」と不思議そうに首を傾げている。  ――大和なら知っているだろうか。思い出せるだろうか。 「いや、なんか懐かしい名前を聞いたんだけど、それがなんだったか思い出せなくて」 「ふーん、なんて名前?」 「イヤマオリト」 「イヤマ? そんなクラスメイトいなかったよなぁ」 「だよなぁ。でもなんか聞き覚えが……」 「イヤマ、イヤマ……あ!」  呪文のように言葉を繰り返していた、大和がパッと表情を明るくして笑った。 「え、わかった?」 「ほら、あれだよ! 勇者の名前!」  立ち止まった大和が興奮したように両手を振って、よくわからないジェスチャーをしてきた。足元の伸びきった影が道の先で指揮者のように揺れている。ふっと笑いそうになって、俺は軽く息を吸い込む。 「……勇者?」 「そう! 昔さ、うちでゲーム一緒にやった時に、勇者に名前つけただろ?」 「勇者、ゲーム……あぁ! あれか!」  言葉を繰り返すうちに、曖昧だった記憶が鮮やかな色を取り戻して、俺の中に蘇った。  小学生の時、それはもうご飯を食べるのも忘れるくらいに二人してハマっていた冒険もののゲームがあった。そのゲームをやるために、学校から帰ると毎日のように大和の家に遊びにいっていた。最終的には、その俺たちの熱中具合を危惧した大和のお母さんに強制的に没収されたんだっけ? 「そうそう、名前をつけられる勇者が一人だけだったからさ、俺と伊織の名前を混ぜて一緒に考えたじゃん」 「あーそうだ、それで……イヤマオリト、か」 「そうそう。懐かしいなぁ。結局クリアできなかったんだよなぁ、アレ。……ん? てか、こんな俺たちしか知らないような名前、どこで聞いたの?」 「! ……あ、さぁ、夢の中だったかな?」  ――なぜか、俺はそう言ってしまっていた。  演劇部の子たちが言っていた脚本家の名前と同じだったんだと、そんな偶然もあるんだなと、そう素直に言えばいいはずなのに、俺はそれを大和に伝えるのを躊躇った。 「随分懐かしい夢見たんだな」  俺のウソを全く疑うことなく、太陽が傾く空を背に、大和はそう言って笑った。  ――ただの偶然。きっとそうに違いない。  そう思いながらも俺は自分の中で心臓の音が大きくなっていくのを自覚せずにはいられない。  その名前は俺と大和が作った勇者の名前で。  ゲームの中にしかいないはずの存在で。  俺たちしか知らないはずで。 「……」  だからこれは、その『偶然』を確認するため。ちょっとした興味本位に過ぎない。  俺は手元のスマートフォンに文字を入れ、検索をかけた。 「!」  それは一瞬の間もためらうかのように瞬時に検索結果を俺に示す。  小さな画面の中、一番上に現れた写真を見た瞬間、俺は自分がこの結果をどこかで予想していたことに気づいた。そんなことはない、これはただの偶然だ、そう思いながらも、もしかしたらココにつながっているのではないか、そうどこかで期待していた。 「ハハ、マジか……」  気づいてしまった事実をそれでも否定したかったのか、それとも確証が欲しかったのか。  俺は母さんが帰ってくる前にと、クローゼットの奥へと手を伸ばした。  ――それを開けることは二度とない、そう思っていたはずだった。  緑色だった表面が薄い灰色に変わってしまっていることに気を止めることもなく、俺はホコリが舞い散るのもかまわず、そのフタを持ち上げた。簡単には引き出せないほど重い箱には、何冊にも分けられたアルバムが詰め込まれている。俺は背表紙にラベリングされた日付を確かめ、その中の一冊を手に取った。膝の上でパラパラと音を立てながら何枚もの写真が通り過ぎていく。 「!」  真ん中あたりでページをめくる手を止めた俺は、再びスマートフォンを手に取り、そこに表示されている画像と見つけた写真を見比べた。  小さな画面の中では、セットされた髪には白髪が混じっていて、目尻には小さなシワが刻まれている。  でも、見間違えることなどできない。  ――舞台演出家兼脚本家として紹介されているその人物は、間違いなく、俺の『父さん』だった。 「……」  こんな形で父親の今を知ることになるとは思わなかった。  ――でも、それだけだ。  知ったからと言って会いたいと思うほど俺の気持ちは単純ではない。  父さんも元気でやっている、それだけがわかれば十分だと、そう思って俺は息を大きく吐き出し、目の前のアルバムを閉じた。 「ん、ゴホッ、ゴホ……」  間近で吸い込んだ空気にホコリが混ざり込み、喉が痒くなる。  俺は箱を元に戻す前に、少しだけ綺麗にしようと、部屋の窓を開けた。外はもうすでに暗く、吹き込んでくる風は冷たかった。それでもその低い温度がゆっくりと体の中に広がっていくのは、とても心地よかった。その名前を聞いた瞬間から今までずっとざわついていた胸の中が冷やされて落ち着いていく、そんな気がした。  先ほど放置してしまったフタを手に取り、抜き取ったティッシュをホコリだらけの表面へと滑らせる。少し色褪せてはいるけれど元の緑色がよみがえり、俺の胸の中は少しだけ軽くなる。ふっと息を吐き出し、側面も拭こうと手を回した時だった。  ひらりと、足元に写真が落ちてきた。  フタのどこかに引っかかっていたのだろうか。 「?」  不思議に思いながらも少し厚みのある光沢紙を拾いあげた俺は、表面に映る人物を確かめる。黄ばんでしまった四角い枠の中で笑うのは今よりもだいぶ若い父さんと母さんだった。よく見ると、書き上げた婚姻届を二人で大切そうに持っている。 「……入籍記念、とか?」  どこか恥ずかしそうな父さんの顔と、穏やかに笑う母さんの顔に、ほんの少しの寂しさと柔らかな安堵が胸の中を漂う。その小さい枠の中、消えることなく残っていた優しい空気に、俺は小さく息を吐き出した。  何かの拍子に紛れてしまったのだろうか。 「どこから剥がれたんだろう」  俺は手に持っていた写真の右下へと視線を向けた。そこにぼやけたオレンジ色のような光で刻まれた数字が並んでいる。  詰め込まれたアルバムの背表紙へと指を滑らせながら、確認したばかりの日付を何度も頭の中で繰り返す。 「あ、これだ」  そうつぶやいてから、今の今まで何も感じなかったはずの数字に、突然、違和感を覚えた。  もう一度、手にしていた写真を確かめる。  それは先ほどと変わることなくそこにあって、俺の覚え違いでないことを示している。  婚姻届を持っている二人。そこに刻まれた日付。両親は十年も前に離婚していて、結婚記念日なるものに興味などなかった。今まで二人がいつ結婚したのかなんて、そんなの気にしたこともなくて……。 「どういうこと、……?」  それでも、俺は浮かんでしまった疑問を母さんに言うことはできないと、そう思った。  閉じたアルバムの上に置いていたスマートフォンを手に取る。暗かった画面が光を取り戻し、桜の写真の後に映し出されたのは、先ほどの検索画面だ。俺はそっと息を吸い込み、指を滑らせた。      *  あらかじめ入っていた暖房によって乾燥してしまっていた部屋に、開けられた扉から温かな湿気が流れ込む。ふわりと鼻に届くのは、先ほど自分が使ったものと同じボディーソープの香り。 「はー、さっぱりした」  この狭い空間では、意識的に避けない限り、どこに視線を向けてもお互いの姿が映り込む。ずっと当たり前に一緒にいたはずなのに、初めて訪れた場所でのこの距離感はどこか慣れなくて、少しだけ緊張する。でも、それでも、今の俺にはこうして大和のそばにいられることで得られる安心感の方が大きかった。 「大和」  ベッドに腰掛けたまま視線を上げた俺に、まだ乾ききらない髪の上に載せられたタオルの隙間から、大和が小さく笑って答えてくれる。 「ん?」  大和が俺と向かい合うように隣のベッドに腰を下ろすと、大和の肩が少し弾むように揺れ、スプリングの軋んだ音が静かな部屋の中に響いた。  俺はドライヤーを手渡しながら、少し赤くなった大和の顔を見つめる。 「明日、一緒に行きたいところがあるんだけど」 「……うん、わかった」  大和は「どこに」とは聞かなかった。その代わり「なぁ、俺の髪乾かしてくんない?」と照れながら笑って言った。 「しょうがないなぁ」  俺は再び手元に返ってきたドライヤーのコンセントを差し込みながら、大和の後ろへと回り込む。 「ラッキー。伊織はこういうの得意だもんな」 「え」  ベッドに膝立ちになってようやく見下ろせる位置にある大和の頭がくるりとこちらを向いた。スイッチを入れようとしていた指を止めた俺を大和が見上げている。 「あれ違った?」 「え、いや、なんで?」 「だって伊織っていつも髪サラサラだし、それになんだかんだ演劇部の人たちとメイクするの楽しそうだったから」 「……」  載せられたままだった白いタオルを引き剥がし、ドライヤーから吐き出される風を最大にして、俺は一瞬だけ出かかった言葉をかき消した。  ――どうして、と思うのはもう何度目だろうか。

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