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『ホワイトデー*翌々日』side大和(1)
駅へと向かう人の流れから外れ、見慣れた小さな公園の入り口へと俺は足を向ける。いつもと変わらない朝の待ち合わせ場所。三月も半ばだというのに、緩やかに吹き付ける風の冷たさは相変わらずで、俺は思わず首をすくめてしまう。
「まだ寒いなぁ」
そうつぶやいてしまったものの、吐き出された息からは白さが消えていて、気温は確実に高くなっている。それでも未だにコートを手放せないのは、一度ついてしまった習慣が抜けないからなのか、それとも周りが着ているから流されているだけなのか。
首元のマフラーに顎を沈めながら、視線を前に向ける。
「……!」
袖の隙間から確認した腕時計は待ち合わせ時間の二十分前であることを示していたが、そこにはいつもと変わることのない光景が当たり前のようにあった。
手元のスマートフォンへと向けられていた顔が上げられる。
「おはよ」
伊織がそう言って俺の顔を確かめてから、不意に眉根を寄せた。
「……大和にしては早くない?」
「伊織こそ、ひとのこと言えねーから」
「……確かに」
小さく笑った伊織の視線が俺の視線と繋がり、こちらへと向けられた足が俺の隣に並ぶ、その距離さえもいつもと変わらない。
まるで、本当にまるで、何も変わっていないかのように、当然のように時間は進んでいく。今日だって普段と変わらない月曜日で、俺と伊織はこの公園の前で待ち合わせをして、学校へと向かう。いつもと同じ毎日が当たり前に用意されている。
それでも……どんなに変わらず振舞ってみても、どれだけいつも通りに過ごしてみても、俺も伊織も家を出る時間を少しだけ早めていた。それはとても些細なことではあったけれど、そうしてしまうほどに自分が意識しているのだと、少なくとも俺は自覚している。
――伊織が変わらずにいてくれるのを、早くこの目で確かめたかった。
そして、俺はできることならもう一度その手に触れたいとさえ思っていた。
「伊織」
「ん?」
足を止めることなく伊織が肩越しに顔を振り返らせる。向けられたその瞳の奥がどこかまだ不安定に揺れている気がして、俺は出かかった言葉を飲み込んだ。
今は――少なくともこの学校に向かう間は――触れてはいけない気がした。
「あ、っと、その……英語の宿題やった?」
「え? もしかして、大和やってないの?」
「半分はやってあるんだけど……」
曖昧な俺の返答に、小さく眉根を寄せた伊織が少し意地悪な笑みを浮かべる。
「そ、じゃああと半分頑張れ」
「いや、英語一時間目じゃん⁉ 頼む! ノート見せて‼」
「……土日出かけるのわかってて、なんでやっておかないんだよ」
「いや、俺だってちゃんとやろうと思ったよ。だから半分はやってある……はず……?」
「はずって。結局、終わってないんじゃん」
伊織が呆れたようにため息をつくと、俺から視線を外して足を速めた。思わずその腕を捕まえそうになった俺はポケットの中で握りしめた手の代わりに口を開く。
「あーもう、だってさ、なんかその時はそれどころじゃなかったんだよ……」
「?」
半歩先で振り返った伊織の表情が目に入り、俺はとっさに熱くなっていく顔を隠すように両手を合わせて頭を下げた。
「あ、いや、……お願いだから見せてください」
「それどころじゃなかった、って?」
下から覗き込むように見上げてきた伊織の瞳は楽しそうに細められ、その声は軽く弾んでいる。
「いや、だから」
「ん?」
逃げようとする俺に伊織がにっこりと笑顔を作り、言葉にはしないが「英語のノートいらないの?」とその顔面で圧力をかけてきた。
「……遊びに行くのが楽しみ過ぎて、手につかなかったんだよ」
顔を背けながらも観念して言葉にした俺に、伊織は小さく笑いながらその完璧な作り笑顔を崩した。
「ふ、ふは、どんだけ楽しみにしてたんだよ」
「楽しみにしちゃ悪いかよ」
「……じゃあ、十分だけ貸してやるよ」
「!」
俺は英語のノートよりも、伊織が自然に笑ってくれたことが嬉しくて、少しだけ照れたように口の先を尖らせるその表情に胸の奥がぎゅっと痛くなるのを感じた。
「早く行こう」
「おう」
――時間は止まることなく進んでいくけれど、きっと俺も伊織も知ってしまったその事実を消化するまでにはもう少し時間が必要だった。
*
着席を促すアナウンスが途切れ、視界がゆっくりと明るさを失っていき、場内からざわめきが消えていく。隣に座る伊織の姿さえ見えなくなった、次の瞬間、最初に届いたのは声だった。何も見えない空間に響き渡る歌声は、そっと優しく寄り添うように流れていく。たったそれだけで、ここにいる観客の心は掴まれたのだと、はっきりと感じる。
次第に光を取り戻していく視界の先に現れたのは、大きな船の上を思わせるセットが置かれた舞台だった。スピーカーから流れる風や波の音が、ここがもう海の上なのだと教えてくれる。見えるもの、聞こえるもの、それだけではない。ふわりと漂う潮の香りも強いライトの光に照り返される熱も、感じられるもの、そのすべてが先ほどとは変わっていた。
現実感は消え、ただただ目の前に広がる景色に五感を持っていかれる。
初めて触れる感覚に、その感触に、恐怖にも似た震えが全身を覆っていく。
――圧倒されるとは、きっとこういうことなのだろう。
目の前で作り上げられていくその流れを拒むことなんて、きっともう誰にもできない。
音も光も、セットも衣装も、演者の動き一つ一つ、その呼吸までも、そのすべてが必要不可欠な構成要素だった。人の手によって作り上げられるこの小さな世界は、俺の『今まで』を簡単に超えていく。それは言葉にすると「感動」とか「興奮」とかそういうものなのだけれど、俺の知っているそれらとは比べものにならないくらいの大きさで俺を飲み込んでいった。
――振り返らずにはいられなかった。
ただ一緒に引き込まれているだけなら何も不安に思うことなんてないはずなのに、俺の中には言いようのない苦さが膨らんでいた。理由なんてわからなかったけれど、今この瞬間の出来事が伊織を俺から遠いところに連れて行ってしまうような、そんな予感がしてならない。
俺は俺の視界を奪おうとする強い力を振り払い、顔を右側へと向ける。
隣に座る伊織はそんな俺の不安も葛藤も気づくことなく、ただまっすぐに舞台上へと視線を向け、その全身で目の前の世界へと入り込んでいた。
――伊織のこんな表情を、俺は初めて見た。
大きく開かれた瞳が、興奮に赤く染まる頬が、小さく開いたままの口が、一言も逃さないようにと傾けられる耳が、息をすることさえ躊躇うかのように引き込まれているのが嫌でも伝わってくる。
――どうしてだろうか。
こんなにも楽しそうな伊織を見つけたのに、俺には嬉しさよりも寂しさの方が大きくて、たまらなくなった。隣に座る、手を伸ばす必要もないくらいに近い距離にいるはずの伊織が、今この瞬間だけはどうしようもなく遠くに感じる。俺は言いようのない不安に耐えるように自分の手を強く握りしめていた。
*
伊織に借りた英語のノートを広げていると、机の上にふわりと影が落ちた。
「おはよ」
視線を上げると、冨樫が机にカバンを載せながら耳にかけたイヤフォンを外している。俺も「おはよ」と返してから、ふと思い立って上着をしまいに向かった冨樫の背中を振り返る。
「冨樫! 伊織のノート、今日は俺が先に写すからな」
俺の声に視線を向けた冨樫は一瞬目を瞬いてから、にやっと笑って見せた。
「あぁ、今日は俺大丈夫だから」
「え」
「俺、今日の宿題はやってあるから」
そう言って俺の前に座ると冨樫は机の中に置きっぱなしにしていたらしい漫画雑誌を取り出した。
「うっそ? 絶対冨樫とノートの取り合いだと思ったのに」
「ま、そういうことだから気にせず写しなよ」
いつもと変わらない様子で窓枠に背中をもたせかけて膝の上でページをめくる冨樫を訝りながら、俺は声を潜める。
「……なんかあった?」
「んー?」
パラリと乾いた紙の音をさせる冨樫の視線は手元に向けられたままで、その表情はよく見えない。
「冨樫が宿題やってくるなんておかしくない?」
「別におかしくないだろ。俺結構マジメよ?」
「いや、頭がいいのは知ってるけど。授業態度とかテストとか、そういう手を抜いちゃいけないところはやるけど、宿題はいつも誰かの写してるじゃん」
「そうだっけ?」
とぼけたように小さく笑う冨樫にため息をつきながら、あと半分とはいえ授業前に写し終わるかどうかは微妙な分量であることを思い出した俺は目の前のノートへと向き直る。
「今まで俺が何回ノート貸したと思ってるんだか……」
俺が取り出したシャーペンを罫線に沿って走らせながら呟くと、それまでこちらを見ようともしなかった冨樫が不意に顔を上げる気配がした。
「そういう大和こそ、宿題忘れるなんて珍しいじゃん。なんかあった?」
「……別に? 何もないけど」
視界に入り込む冨樫の影に気付きながらも、俺は写し取った文字で埋まっていくノートから顔を上げることなく素っ気なさを含めるように答える。
「あ、そういえば土日はデートだったんだっけ?」
「まぁ」
手元では意味もわからないまま書き出された英文が増えていく。
「しかも泊まりだっけ?」
「! ……」
ポキっと小さな音を立てて折れてしまった芯を吹き飛ばし、俺は何事もなかったかのようにカチカチとシャーペンの頭をノックする。そんな俺を下から覗き込むように冨樫が顔を傾ける。
「あー、楽しみすぎて? それでつい宿題を忘れ……」
無理やり視界に入ってきた冨樫がからかうように笑ってきたので、俺は思わず声を強めた。
「あーもう、間に合わなくなるからちょっと静かにしてくれ」
そんなにきつい言い方をしたわけではなかったけれど、冨樫は一瞬俺の顔を見つめ、わずかに間を取るように小さく息を吸い込んでから、そっと声を緩ませた。
「……大和さ、なんか聞いてほしいことあったら言えよな」
「!」
自分が今どんな表情をしていたのかはわからないけれど、何かを感じ取らせてしまったのだろう。俺は先ほどよりも深く顔を下に向けながら、視界のすべてを指先から作られていく文字で埋める。
「……そん時は、頼むわ」
視線を向けることなく放った俺の言葉に冨樫が「おぅ」と小さく笑って体の向きを戻したので、俺は溜めていた息をそっと吐き出した。目の前のノートを見ながら、俺の脳裏には昨日の言葉が焼き付いて離れない。
今と同じように白い紙の上に走る罫線の上、並べられた文字がどうしても忘れられない。そして、それを目にした時の伊織の表情も。
――伊織の母親は、生きている。
知らされた事実をどう受け止めればいいのか、俺にはよくわからなかった。
わかるのは、冨樫にあんなふうに答えておきながら、俺は自分が今抱えている不安を誰にも話すことはしないだろうということ、それだけだった。
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