22 / 41
『ホワイトデー*翌々日』side伊織(1)
手の中で響く鍵の音に、そっと息を吸い込んだ。
ダークブラウンの大きな扉を開くと、反応した天井のライトが廊下の先まで光を伸ばす。
「ただいま」
応える声はなくとも家に帰ると口にするのが当たり前になっている。「おかえり」という言葉が返ってくることの方が少ないので、もしかしたらこれは自分自身に言っているのかもしれない。ここが俺の家で、ここが俺の帰ってくるべき場所なのだ、と。
脱いだローファーを揃えて立ち上がると、肩にかけていたエコバッグの中からカサリと小さな音が聞こえた。
「……鍋なら準備は簡単だな」
買ったばかりの食材を横目で確かめ、そっと息を吐くと、ほんの数時間前の大和との会話が蘇る。
――部活終わったら、行くから。
――何か食べたいものある?
――んー、鍋は? そろそろ食べなくなりそうだし!
そう言って笑った大和はいつも通りで、「りょーかい」と答えた俺もきっといつもと変わらなかったと思う。廊下からバスケ部員に呼ばれて、大和が「じゃあ」と言うのだって、その大きな背中を見送りながら「おう」と片手を挙げるのだって、習慣化されたやりとりだ。
――ただ、教室を出て行くときに、ほんの一瞬だけ振り返った大和の視線が、何も言わずに向けられたその瞳が、やけに印象に残った。
俺が何かを言いかけたわけでも、大和が何かを言おうとしていたわけでもない。
「……」
一瞬だけ繋がった視線が、いつもよりほんの少し解 きがたく感じた、それだけだ。
*
ずっとどこかで緊張していたからだろうか。
引きずり込まれるように没頭した世界は、その余韻ですら俺をなかなか現実へと戻してはくれなかった。
「……伊織?」
なかなか席を立とうとしない俺の顔を大和が心配そうに覗き込み、その大きな手を俺の肩に置いた。
「あ、ごめん」
気づけば、ほとんどの観客がすでに退出していて、会場内の人はもう数える程しか残っていない。
「大丈夫か?」
「大丈夫、大丈夫。ちょっとぼーっとしてただけ」
急いで立ち上がり出口へと振り返ると、そこから続く列ももう途切れかけている。
「急ごう」
「あ、伊織ちょっと待って」
慌てたように声を弾ませた大和が、俺の肩に残していた手にほんの少し力を加えた。
「?」
引っ張られるように振り返った俺の顔を確かめ、小さく笑った大和がその太い指をこちらへと伸ばす。一瞬にして強まった大和の匂いに思わず首をすくめると、大和は着ていた服の袖で俺の目の下を軽く擦るように触れてきた。
「!」
「伊織、泣いただろ?」
そう言って表情を緩ませた大和の視線があまりにも優しくて、明るくなった場内では隠しきれないほど自分の顔が熱くなるのを感じた。
「ふは……伊織、真っ赤」
「なんだよ、大和は泣かなかったのかよ」
ゆっくりと離れていくその少し冷たい手を視界の隅に置き、俺は片手で顔を隠すようにしながら出口へと体を向ける。歩き出した俺の後ろ、半歩ほどの距離を保ってから、大和は笑っていた呼吸を止め、小さく吐き出すように言った。
「……泣きは、しなかったな」
どこか不安げに揺れるその声に思わず大和の顔を振り返りかけた俺だったが、直後に退場を促すアナウンスが会場内に響き渡ったため、何も言葉にすることはできなかった。
*
キッチンでの作業を早々に終えた俺は、畳み終わった洗濯物を持って自分の部屋のドアを開けた。天井のライトに照らし出される部屋の中は先ほどと何も変わっていない。椅子に乗せたカバンの口は開いたままだし、机の上には図書室で終わらせてきたばかりの課題のノートが置いてある。部活終わりの大和が泣きついて来るだろうと、忘れないように出しておいたのだ。
「……」
手に抱えていたものをクローゼットの中の衣装ケースへと移し、俺は自分の机を振り返った。足を向けた勢いのまま、椅子と机に挟まれるようにして置かれていたカバンをずらす。手を伸ばした先、隠れていた細い取手を手前に引くと、木のこすれあう音ともに昨日そこに仕舞い込んだモノたちが姿をあらわす。
――黒色の表紙のパンフレットと、白い封筒。引き出しの中にあるのはそれだけだった。
ドクン、と自分の心臓が動いたのをはっきりと自覚する。
昨日の出来事が夢ではないのだと、そう言われている気がした。
そっと息を吐き出した先、机に置かれていたデジタル時計がちょうど表示を変えたのが視界に入り、無意識のうちにそこに並んだ数字を俺は確かめていた。
――途切れることのない振動と、一瞬にして暗くなった窓の外、ガラスに映り込む俺と大和の顔。几帳面な字の並ぶ手紙を大和と二人、覗き込むようにして読んだのは、昨日のちょうど今くらいの時間だった。俺は目の前の白い封筒へと手を伸ばし、小さな深呼吸をしてからその中身を取り出した。俺の指先からゆっくりと広がっていく紙の乾いた音が静かな部屋の中に響いていた。
*
出入り口前の人波を越え、俺と大和は会場の裏手へと回り込む。観劇を終えた人や夜公演を待つ人で溢れていた表口とは違い、大きな駐車場と接している裏口側に人はいなかった。
「……伊織?」
視線を振り返らせた大和が何かを確かめるようにゆっくり俺の名前を呼んだ。
「ん?」
重くなっていく足先を大和のスニーカーに引っ張られるように動かしていた俺は、その声に顔を上げる。あまりにも自然で気にしていなかったけれど、いつのまにか大和は俺の前を歩いていた。
「いや、ちゃんといるかなって」
「……またそれ?」
心配そうな表情を見せる大和に俺は小さくため息をついてから歩幅を変えた。前ではなく、隣に行くために。
「これでいい?」
繋ぐことのできない手は上着のポケットに入れたまま、軽く肩をぶつけた俺に「うん」と少しホッとしたように大和が表情を緩ませた。
緊張していないと言ったら嘘になる。
怖くないと言ったら嘘になる。
それでも隣に大和がいてくれるから、俺は逃げ出したくなる気持ちを抑えてこうして歩いていられる。潮の香りが増した冷たい風に首を竦めた俺は、大きくなっていく自分の心臓の音を確かめながらゆっくりと息を吐き出した。
「伊織」
わずかに強張った大和の声が聞こえ、俺はその横顔を見上げるようにして視線を動かす。大きな会場には不釣り合いな小さな扉の前、約束どおり父さんはそこにいた。
「っ」
思わず立ち止まりそうになった俺の肩を大和の大きな手が支えるように優しく触れ、そしてゆっくりと力を込めるように押し出した。
「……大和」
大和は何も言わなかったけれど、繋がったその視線がいつもと変わらない優しい温度を俺に伝えてくれていた。
側に植えられていた南国を思わせるような大きな木の葉が揺れ、その音があたりに降り注ぐと、耳にスマートフォンをあてた父さんがゆっくりとこちらを振り向いた。
「!」
正直なところ、その瞬間に見せた父さんの表情を、俺はどう受け止めればいいのかわからなかった。
どこかホッとしたような、嬉しさを滲ませた柔らかな笑顔。そんな顔をしてくれるのかと思ったら、余計にどうして一度も会いに来てくれなかったのかと思ってしまう。
「せっかく来てくれたのに、ちゃんと時間を作れなくてごめんな」
通話を終えた父さんが手にしていたスマートフォンをジャケットの内ポケットにしまいながら、申し訳なさそうに言った。
「……突然来たのは、こっちだから」
そう言いながらも俺はまだうまく視線を合わせることができなくて、父さんの胸のあたり、水色のストライプのシャツの襟の先に焦点を合わせる。
「来てくれてありがとう」
父さんは笑ってくれたけど、俺はこれからぶつけてしまうであろう言葉を考えるとうまく笑えなかった。
*
廊下を挟んだ向かい側、母さんの部屋の扉をそっと押し開ける。俺のよりはるかに広いクローゼットの奥、それは数週間前と変わらずそこにあった。埃の払われた緑色のボックス。その中に並ぶアルバムの一冊を俺は取り出した。この前も見たから覚えている。ちょうど真ん中あたりにその写真はあるはずだ。幼稚園での劇の発表会で写された、俺と父さんが隣に並んでいる瞬間。自分でもなぜなのかはわからないけれど、それを今どうしても見たくなった。
「……?」
パラパラと乾いた音を立てる膝の上、いくらめくっても目当てのものは見つからない。代わりに見つけたのは、そこだけ切り取られたようにポッカリとできた、不自然な空白だった。この前までは確かにここにあったはずの写真がなくなっている。その理由はわからないけれど、剥がしたのが母さんであることは明白だった。
「どうして……」
ピンポーン。
聞き慣れているはずのその音が静かな空間を突き破るように響き、俺の体は一瞬ビクリと震えた。壁にかけられた時計を振り返りつつ、リビングへと繋がる廊下へと急ぐ。
ピンポーン。
二回目の音が消えようとしていた、その瞬間を捕まえるように、俺は壁にかけられた受話器を手に取った。
小さな四角い画面には、大和の顔が映し出されている。
「伊織?」
「ごめん。今、開けるから」
そう答えると同時に『開錠』ボタンに触れると、動き出した自動扉を振り返る大和の顔が少しだけ笑った気がした。
扉を開けると、冷たい夜の温度をまとった大和が少しだけ息を弾ませていた。
「やっぱ日が暮れると一気に寒くなるな」
駆け込むように入ってきた大和の背中で鍵の回る音が聞こえ、靴を脱ごうと屈んだ大和の頭が目の前に下りてくる。
「大和、髪濡れてない?」
玄関のライトの下、整髪料で固められていたはずの毛先の束は緩まっていて、その自然な黒色に俺は無意識に手を伸ばしていた。
「雨は降ってないよな?」
先ほど感じた外の空気よりも明らかに低い温度と指先から伝わってくる湿った感触に「? なんでこんな濡れてるんだよ」と呆れたように俺が聞くと、大和はそのまま顔を上げずに「あー、部活で汗かいたから水浴びてきた」となんでもないことのように答えた。
「そんなのいつも気にしないくせに」
「いや、今日はマジでキツかったんだって」
そう言って吐き出した息に混ぜて答えた大和がなかなか体を起こそうとしないので「大和? まだ靴脱げないの?」と俺が笑って足元へ視線を向けるとスニーカーの紐はとっくに解 かれていた。
「!」
動かした手の先が耳にあたり、大和がビクッと肩を震わせたのが伝わってくる。驚いて顔を戻すと、俯いたままの大和の首も、耳の先も、真っ赤になっていた。
「あ、俺、タオル持ってくるな」
そう言って手を引っ込めると同時に体を翻し、逃げるように俺は静かな廊下にスリッパの音を響かせる。
――完全に無意識だった。
普段は手が届かないはずの大和の頭が目の前にあって、濡れて光を跳ね返す黒色が綺麗で、考えるよりも前に体が動いていた。
――こんな些細なことで、自分がこんなにも動揺するとは思っていなかった。
洗面所の棚から取り出したタオルを両手に持つ自分の顔が鏡に映り込み、俺は耐えきれずにその場にしゃがみ込んだ。
「あー、もう」
嗅ぎ慣れた柔軟剤の香りに顔を埋めるようにして声を出していると「伊織?」とすぐそばで名前を呼ばれた。
「!」
驚き振り返った先、大和の大きな体が入り口を塞ぐように立っていた。
「あ、ごめん。これ使って」
まだ自分の顔が熱を持っているのを自覚しながら、俺は手にしていたタオルを差し出す。そっと視線を上げると、大和は笑いを堪えるように口元を押さえていた。
「……なんだよ?」
声を尖らせて睨んだ俺に、大和がふっと表情を崩した。
「いや、まだあのルール継続中なのかと……」
そう言って困ったように笑う大和の顔には、先ほどの色がまだ残っている。それに気づいてしまった俺は自分の中の感情がゆっくりと塗り変わっていくのを感じた。
「……何? そんなに俺に触 りたいの?」
「!」
踏み出した一歩で、手を伸ばさなくても触れてしまうであろう距離まで近づいた俺は、僅かに肩を揺らして息を飲み込んだ大和の顔を見上げる。
「俺に触れるより前に自分の髪拭けよな」
ため息に混ぜた俺の声が弾むように揺れる。
「伊織 っ」
「風邪ひくよ」
大和の顔にタオルを無理やり押し付けて、俺はその大きな体の横をすり抜ける。
「あ」
廊下に出たところでふと思い出し、俺は振り返る。
「課題のノートいる?」
「! ……いい、いらない」
「え」
大和は俺から受け取ったタオルで乱暴に自分の頭を拭きながら、洗面台の方へと移動する。入り口の正面奥にある鏡がこちらからは見えない大和の顔を映し出す。
「とりあえずは自分でやってみるから、間に合わなかったら貸して」
そう言って慣れたようにドライヤーを手に取った大和が電源プラグを差し込みながら、鏡ごしに俺と目を合わせた。
「!」
「何?」
「いや、てっきり初めから泣きついてくるかと思ってたから」
「いや、泣きつきたいくらいには疲れてるんだけど……でも、まるっきり写したら何も身につかないじゃん」
そう言って笑った大和の太い指がスイッチに触れ、カチッと小さな音が響くと同時に吐き出された風の音が静かな空間をあっという間に飲み込む。
「この前英語のノート写したの誰だっけ?」
「あれは緊急事態だったから! それに最初から写したわけじゃないし。俺だっていつもはちゃんとやってるだろう?」
ドライヤーの音にかき消されないように大きくなった声を、そっと戻して俺はつぶやく。
「……まぁ、そうだね」
確かに大和は最初から他人《ひと》をアテにするようなやつじゃない。とりあえず自分で一回は挑戦してみる。挑戦した結果、どうにも解けない問題がある時だけ俺に聞いてくる。なんだかんだ真面目なのだ。適当に手を抜く見本みたいなやつ(冨樫のことだ)がいつも目の前にいるのに、大和のそういうところは変わらないらしい。
温かな風が止まり、響き渡っていた大きな音が消えていく中、その声は届いた。
「何もやらないで諦めるっていうのが出来ないんだよなぁ」
大和が自分でも困ったようにため息をつきながらこぼしたその言葉は、吸い込まれるように落ちていった俺の胸の奥で、小さな音を響かせた。
*
何から聞けばいいのだろうか。
聞きたいことはいっぱいあったはずなのに、そのどれもがうまく言葉にならない。
「……どうして」
――どうして、何も言ってくれなかったのか。
――どうして、いなくなったのか。
――どうして、会いに来てくれなかったのか。
――どうして、嘘をついていたのか。
――どうして……
続く言葉は溢れるように頭の中に浮かぶのに、そのどれもが正解ではないような気がしてしまう。俺が本当に聞きたいことは、こんなことじゃなくて……。
「……、なの?」
自分でもこんなことを聞くなんて、思ってもみなかった。
――これは本当に俺なのだろうか?
ずっと『いい子』でいようと、誰からも褒められるような子になろうと、笑ってみせるのが俺だったのに。そうすることで少しでも両親が悪く言われることがないようにと振舞ってきたのが俺だったのに。それなのに今、目の前の父さんを苦しめているのは、間違いなく俺だった。
「……俺のせい、なの?」
――その言葉が、俺自身を含めたこの場にいる全員を傷つけるのだとわかっていても、それでも俺は言わずにはいられなかった。
「俺が生まれたせい、なの?」
「‼」
「伊織っ」
傷ついたように目を見開く父さんの表情と、叫ぶように俺の名前を呼ぶ大和の声が重なる。それでも俺はもう止められない。
「俺が父さんと母さんの幸せを奪ったの?」
「違う、そんなことはない」
「でも、俺が生まれなければ、きっと」
「そんなこと言わないでくれ、お願いだから。俺も律《りつ》もそんなこと一度だって思ったことはないから」
父さんが母さんのことを『律 』と名前で呼ぶ声が、その懐かしい響きが、押し込めてきた俺の感情を奥底から引き摺り出す。
「じゃあ、なんでだよっ‼ ……あんなに当たり前に、毎日繰り返すように『好きだ』って、『愛してる』って言ってたくせに……なんで、いなくなったんだよっ‼」
もう十年も経つというのに、子供の頃に毎日聞かされたその言葉を忘れることはできなかった。何も知らずに、それが両親の愛情なのだと信じて疑わなかったあの頃の自分を思い出すたびに吐き気がした。いつか消えてしまうような愛情を口にするのは、相手を縛り付ける『呪い』だとさえ思った。
「それは」
「本当は俺に言ってたんじゃなくて……本当は、父さんたちは、自分たちに言い聞かせてたんじゃないの? 俺を、二人の子供ではない俺を、それでも愛さなきゃいけないって、だから」
「そんなんじゃないっ! ……僕は、今でも二人を……愛してるんだよ」
伝えられた事実に、俺の周りにあったはずのすべての音が一瞬にして消える。隣にいる大和の声も、鳴り止まない風のざわめきも、自分の中で動き続けている心臓の音も、その全部が時を止めた気がした。あるのはどうしようもない悔しさとぶつける先のわからない悲しみだけだった。
「っ、なんだよ、それ……じゃあなんで」
「あの時は、そうするしかなかったんだ」
「!」
――俺の言葉を遮るように声を強くした父さんがそんな表情《かお》をするなんて、本当に俺は思ってもみなかったんだ。
*
カバンから課題のノートを取り出そうとしていた大和が不意にその手を止めた。
俺はローテーブルにいつものマグカップを置いてやりながら、動きを止めてしまった大和の顔を覗き込む。
「大和? どうかした?」
何かを隠すようにカバンの口を両手で押さえた大和が俺を見上げながら、戸惑うように声を揺らす。
「! あ、いや、なんでもない」
「何? もしかしてノート忘れた?」
「いや、ノートは大丈夫。あー、……教科書忘れたみたい」
「……はぁ。取ってくるから待ってて」
わざとらしく大きなため息をついてやりながら、俺は自分の部屋へと向かうべくリビングのドアへと歩き出す。廊下に出る直前にそっと振り返ると、大和は自分の手元を見つめて小さく息を吐き出していた。その強い視線に、何かを飲み込むような表情に、俺の胸はざわついたけれど、なぜだかそこに触れるのが怖かった俺は何も言わずに手にしていた取手を放した。
自分でも何を不安に思っているのか、どうしていつも通りに振る舞えないのか、よくわからなかった。ただ、昨日からずっとザワザワとした言いようのない心地悪さがずっと体の中を巡っていた。
ともだちにシェアしよう!