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『ホワイトデー*翌々日』side大和(2)

 見慣れたリビングの真ん中、ソファの前にクッションを置いて腰を下ろす俺のところに、ゆっくりと部屋の中で膨らんでいたコーヒーの香りが流れてきた。 「母さん帰ってくるのもう少し遅くなるみたいだけど、大丈夫?」 「んー、おばさん帰ってくるまでに課題終わらすわ」  振り返ることなく、なんでもないことのように答えた俺は、伊織に見つからないようにそっと息を吐き出す。  ドライヤーの風に当てられたからだろうか。  室内では少し低くなる自分の体温が、今はまだ指先にすら熱を感じる。  ――伊織が何も考えずに触れたのだということはわかっていたけれど。  冷え切った肌に残る指の感触がなかなか消えてくれない。  俺は自分の頭の中を他のことで埋めたくて床に置いていたカバンの取っ手を引き寄せる。いつも必要最低限しか物を入れていないので、課題のノートはすぐに見つかった。取り出そうとその表面に指を伸ばすと、何かを意識するよりも前にそのすぐ後ろに隠れていた黒い表紙が目に入ってしまった。 「……」  思わず手が止まっていた。  カタン、と間近で響いた音と同時に「大和? どうかした?」と伊織の不思議そうな声が届き、俺はその中身が見えないようにと、とっさにカバンの口を両手で押さえた。 「! あ、いや、なんでもない」 「何? もしかしてノート忘れた?」 「いや、ノートは大丈夫。あー、……教科書忘れたみたい」 「……はぁ。取ってくるから待ってて」  伊織の呆れかえるようなため息を聞きながら、俺は吐き出した息の中で申し訳なさそうに笑って見せる。遠ざかっていくその背中が廊下に続く扉を開けたところで、俺は自分の手元へと視線を戻した。  ――今さら気づいてしまった事実を伝えたところで、きっと何にもならない。  誰にも過去を変えることなんてできないのだから。    *  伊織の口から吐き出される言葉は、きっと伊織自身をも傷つけていた。それでも止められなくなるくらいにずっと抱えてきたのだと思ったら、俺はただ名前を呼ぶことしかできなかった。こんなにもそばにいるのに、ずっとそばにいたのに、本当の意味で俺は伊織の隣にはいなかったのかもしれない。何も知らなかった、何も気づけなかった、伊織のことが好きなのに、伊織の苦しみをちゃんと理解できていなかった。そのことが悲しくて、悔しくてたまらなかった。 「っ、なんだよ、それ……じゃあなんで」 「あの時は、そうするしかなかったんだ」 「!」  そのあまりにも悲しい響きをした声に、俺は俯けていた顔を思わず上げていた。 「そうするしか、なかった……って?」 「あの頃はまだ今とは違う仕事をしていてね」  ゆっくりと息を吐き出しながら言葉を紡いでいくその表情には寂しさが滲んでいた。伊織をまっすぐ見つめて話しているから、俺と目があうことはないのに、どうしてだか俺の中には言いようのない不安が生まれる。 「その関係でちょっと厄介な記者に目をつけられてしまって」 「記者……」 「情けないけど」  俺の視界の中、固く握られていた伊織の手が、震え続けていた伊織の肩が、ゆっくりと(ほど)かれていく。 「あの頃の僕には、家族を守りきれるだけの力も自信もなかった……それで離れることにしたんだ」  その言葉が伊織の中にあった何かを壊してくれたのだと、伊織のその表情《かお》を見ればすぐにわかった。噛み締めた唇の先で飲み込んでしまった言葉にはもう誰かを傷つけるような鋭さは残っていないだろう。  ――これでよかったはずなのに。  ゆっくりと柔らかくなっていく伊織の空気に反比例するように、俺の体は広がっていく見えない不安に固くなっていった。    *  どうしてコレを入れてしまったのか、自分でもわからなかった。  開かなくても容易に浮かんでしまう、それは今朝刻まれたばかりの記憶。  土日の疲れを引きずっているのはずの体は、意外なほど早く目覚めた。  カーテンの隙間から落ちてくる光はまだ弱く、枕元に置いているスマートフォンに触れるといつも起きる時刻より一時間も早かった。鮮やかになっていく視界の中、見慣れた景色に帰ってきたのだという実感が湧いてきて、俺は思わずホッと息を吐き出していた。  ――まるで長い夢でも見ていたみたいだ。  たった二日のうちに注ぎ込まれた情報量の多さに頭も心も追いついてはいなかった。俺ですらこんな状態なのだから、伊織はもっと戸惑っているのではないだろうか。 「……伊織」  自分で呼んでおきながら、その零れてしまった自分の声に胸の奥が痛くなる。思わず触れていたスマートフォンを握りしめると、指先に固いものがぶつかった。その違和感に視線を向けると、見慣れた紺色のケースの真ん中に銀色のスマホリングがついていた。土曜日に行った遊園地のロゴが小さく入ったそれは、お土産を選んでいるときに伊織が見つけて買ってくれたものだった。中指を通すと伝わってくるその冷たい感触にはまだ慣れなかったが、伊織も同じように思っているだろうかと想像したら少しだけ胸の中が温かくなった。今はまだ感じてしまう違和感もきっとそのうち消えていくのだろう。  起きるにはまだ早かったが、振り返った視線の先に口の閉じられていないカバンと開いたままのノートを見つけ、俺は二度寝を諦めることにした。変わらない桜の風景を映した画面に触れ、アラームを消すと、その勢いを借りて俺は体を起こした。  机の上に広げられたノートにはピリオドにたどり着く前に力尽きてしまった英文が書かれている。「どうするかな……」学校に着いてからやろうにも英語は一時間目なので間に合わないだろう。やっぱり今から自力でやるしかないだろうか。そう思い至ってため息をつきながら椅子を引くと、見慣れない黒いビニール袋が目に入った。 「あ、これ」  昨日は帰ってくるのが予定よりも遅くなってしまったので、母さんに文句を言われる前にと洗濯ものだけはしっかりと洗濯カゴに放り込んだけれど、そのほかはリュックからとりあえず出しただけで片付けるまではできていなかった。  椅子の上に放置していたその中身を取り出し、俺は黒く滑らかな表紙をめくる。手の中で乾いた音を立てながら、それはいとも簡単に俺の中の記憶を引き出していく。前半だけでその世界に引き込まれた俺たちは、休憩時間には二人してパンフレット購入の列に並んでいた。そうして手に入れたものの、結局二人で一緒に眺める時間を作ることはできなかった。 「……」  解説は後でじっくり読もうと、パラパラとページを送っていた俺は、最後のところでその手を止めた。それはこの舞台を支えたスタッフを紹介するページで、顔写真と簡単な経歴が載っていた。小さな写真の中、笑顔を向けるその顔に視線が止まる。  ――伊山(いやま)織人(おりと)(本名:椿(つばき)晴臣(はるおみ))舞台俳優から演出家へと転向の折に改名。  なぜだか続く文字は頭に入ってこなかった。 「椿(つばき)……晴臣(はるおみ)……」  伊織と一緒に考えた名前の方ではなく、なぜかもう一方の名前の方が俺の胸をざわつかせる。小学校入学に合わせて『十和田(とわだ)』に変わったけれど、幼稚園までは伊織の名字は『椿(つばき)』だった。出会った頃から俺は伊織を下の名前で呼んでいたのであまり意識したことはなかったし、ましてやその父親の名前など気にしたことすらなかったように思う。  だけど、一度だけ……その名前を尋ねられたことがあったことを俺は唐突に思い出した。  それはもう遠い記憶で、印象に残るような出来事でもなかったから、ずっと忘れていたけれど……。 「……」  ドクン、と脈打つ心臓の音が大きくなり、俺の耳を塞ぐ。  そんなことはないだろうと、否定する気持ちと、もしかしたらと思ってしまう不安が俺の中で交差する。それはもう確かめようのないことではあったけれど、思い出そうとすればするほどその不安は大きくなっていく。子どもの頃の記憶は曖昧ではっきりとしているものの方が少ない。それなのに、どうしたって引っかかってしまう。伊織の父親の名前を、俺は確かに聞いたことがある。それも知っている人の声ではなくて、知らない人の声で。話した内容なんて詳しくは覚えていないけれど、でも、「教えてくれてありがとう」と言われた言葉だけが怖いくらいにはっきりと蘇る。 「いや、でも……まさか」  断片的に浮かぶのは、手の中の大きなカメラのレンズと優しそうな笑顔で声をかけられたこと。知らない人と話してはいけないと教えられていたのに、伊織の名前を口にされたことで俺の警戒心は無くなっていて、聞かれるまま素直に答えていた気がする。  ――あの時、俺に声をかけてきた人が、おじさんの言っていた『記者』だったのではないだろうか?  幼稚園児の言うことだ、それだけで何かを変えてしまうようなことになるとは思えなかったけれど、一度浮かんでしまった不安は簡単には消えてくれなかった。俺の不用意な言葉が、そこにあった『幸せ』の表面にほんの少しの傷をつけるくらいにはなったのではないだろうか。  ずっと伊織のそばにいた俺が。  ずっと伊織のことを守りたかったはずの俺が。  他でもない俺自身が、伊織の幸せを奪ったのかもしれない。  ――そう思ったら、怖くてたまらなかった。  閉じられた扉の先、ライトの消えた廊下へと顔を向けるが、伊織はなかなか戻ってこない。  ――伊織には、言えない。  伊織を傷つけるからじゃない。  伊織を悲しませるからじゃない。  伊織に嫌われるのが怖いから。  そうして許されてしまう自分が怖いから。  ――俺は自分の弱さを、醜さを、伊織にだけは知られたくない。 「……っ」  俺は触れていたパンフレットの表紙から手を離し、カバンの内ポケットへと指を入れた。そこにしまわれているのは預かったままの一枚の写真。小さな枠の中、おじさんの隣で無邪気に笑う伊織が映っている。  ――俺にできることは、懺悔なんかじゃない。    *  昼間の明るさはそこにはなかった。  駅から遠ざかろうと歩けば歩くほど、視界は夜の暗さに染まっていく。  ――本当は苦手だった。  足のつかない乗り物も、先の見えないお化け屋敷も、その不安定さが苦手だった。夜の公園なんて、できれば近づきたくはない場所だった。  ――だけど、今だけは不思議と怖くなかった。  自分の手の中に確かな体温を感じる。  伝わってくるその力がどんなに弱くても、握り返してくれたのだという事実だけで、俺の胸はいっぱいだった。  この手を離すことだけは、絶対にしたくなかった。  ――どんな言葉を伊織が吐き出そうとも、全部受け止めようと決めていた。 「……俺がいなければ、父さんも母さんもこんなふうにはならなかったのかな」 「伊織のせいじゃないって、言ってただろ」  ――どんなに痛くても、どんなに苦しくても、それはきっと伊織の方が大きいのだから。  そう思って強く唇を噛んでいたけれど、堪え切れなくなった伊織の言葉を聞きながら、俺の方が泣いてしまいそうだった。それでも俺は振り返ることなく、その手を握って歩き続ける。 「でも、どう考えたって」 「伊織、お願いだからそんな悲しいこと言うなよ」 「……!」  ――全部受け止めようと思っていたのに、先に根をあげたのは結局、俺の方だった。  伊織に言葉を飲み込ませたのだと気付き、俺は足を止めた。  響いていた足音が消えた途端、風に揺れる木々のざわめきが周りを包み込むように落ちてくる。  ざわざわと胸の中を逆なでするような心地悪さを、ぐっと強く息を飲み込んで堪える。 「伊織」  自分が今どんなに情けない顔をしていても、この暗さならわからないかもしれない。  俺は振り返って、伊織の瞳を真っ直ぐ見つめる。  ――どうしたら伊織を救えるのだろう。  ――どうしたら伊織はまた笑ってくれるのだろう。  ――どうしたら伊織は……俺のそばにいてくれるだろうか。 「おじさんもおばさんも伊織を愛してるから、伊織のことを守りたかった。それだけだろ。俺にはそう聞こえたよ。それを伊織は間違いだって言うのか?」 「そ、れは……」  途切れることのない噴水の音が勢いを増し、足元には頼りないほどの光でできた二つの影が落ちている。 「伊織」  ――俺はたぶん、怖かった。  今まで思ったことなんかなかったのに。  ――伊織が俺から離れてしまうような気がして、怖かった。  どうして疑うこともなく信じられていたのだろう。  ――伊織が俺とずっといる未来など最初から信じてはいなかったのだと、そのことに気づくのが怖かった。  そんなことないって、思いたかった。  これからも変わることなんかないって、そう思いたかった。  ――だから俺は言ってしまったんだ。 「伊織がどうしても自分を許せないなら、俺が証明する。伊織が生まれてきたこと、こうやって生きていてくれること、その全部が間違いなんかじゃないって、俺が証明する。一生かけてでも証明してみせるから、だから……」 「大和……」  ――伊織は気づいただろうか。 「だから、伊織も一生かけて俺のこと愛してよ」 「!」 「……って、重すぎ?」  そう咄嗟に冗談のように笑ってみせたけれど。  ――伊織には伝わってしまっただろうか。  ずっと深いところ、心の奥底に落としたはずの、俺の醜い本音に。  ――俺と一緒に傷ついて、伊織。  ――お願いだから、俺から離れていかないで……。    *  ――母さんと話そうと思うから、だから大和も一緒にいてくれる?  そう言ってくれた伊織を傷つけるようなことだけはしたくない。 「……」  取り出した写真を手に、俺はそっと立ち上がる。  俺ができることなんてきっと限られているだろうけれど。  それでも、少しでも今の伊織を助けることができるなら……。  俺の足は先ほど伊織が消えていった廊下の先へと向かっていた。

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