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『ホワイトデー*翌々日』side伊織(2)

 玄関にとどまっていた少し冷たい空気がゆっくりと流れるように肌に触れた。俺は収まらない心地悪さを抑えるように大きく息を吸い込む。胸に手を当て体の中に広がっていく温度を噛み締めながら、そっと視線を向けると、ライトが消えて暗くなっている廊下の先に細い光が差し込んでいた。 「あ」  そこでようやく俺は自分が母さんの部屋をそのままにしてきてしまったことを思い出した。 「片付けないと……」  教科書の置いてある自分の部屋ではなく、その向かい側、漏れ出る明るさで作られた隙間へと足を向ける。押されたドアが俺の手の中に柔らかな抵抗を残し、小さな音を静かな廊下に響かせる。部屋の真ん中、点けっぱなしになっていたライトの下でそれは変わることなく先ほどのページを広げていた。  床の上に膝をつき、そっと手を伸ばす。指先が触れたのは不自然にできてしまった空白だったけれど、目が止まってしまったのはその横に貼られていた写真だった。劇の衣装を着たままの俺と大和が二人で笑っている。 「王子様って感じじゃないよなぁ」  その頃は特に疑問に思わなかったけれど、今改めてそこに写る大和を見ると、なんだか笑えてくる。頭に王冠を載せ、長いマントをつけた大和は確かに『王子様』の格好をしていたけれど、白馬に乗って来たというよりは、自分の足で冒険しながらやってきた勇《いさ》ましい『勇者』の方があっている気がした。 「悪かったな、似合ってなくて」 「!」  背中から聞こえた声に驚くと同時に、自分がいつのまにかアルバムを見ることに集中してしまっていたことに気づいた。振り返った視線の先、大和が恥ずかしさを隠すかのように大きなため息をついた。 「……教科書は?」 「あ、ごめん。俺の部屋にあるから……大和?」  そう言って立ち上がりかけた俺の前、なぜだか大和は静かにしゃがみ込んだ。 「?」  大和は俺の手元を覗き込んでから、何かを確かめるようにゆっくりとその視線を上げていく。 「なぁ、他にもアルバムある?」 「え」 「もっと小さい時のやつとか」 「あるけど……」  そう答えた俺の顔を見つめた大和は、今にも泣き出しそうな顔で笑っていた。    *  差し出された封筒を受け取る、その瞬間、父さんは俺の手を両手で握りしめた。 「こんな形でしか伝えられなくて、ごめんな」 「……」  痛いくらいに込められた力からは、止まることのない震えが伝わってきて、俺はその手を振り払えなかった。ほんの数分の間に吐き出してしまった自分の言葉の余韻が抜けず、俺は顔を上げることができない。 「伊織の聞きたいことに全部答えられているかはわからないけど、僕から話せることは一応全部書いたつもりだから」  そう言ってゆっくりと緩まっていく力に合わせて、そこにあったはずの体温が離れていく。触れていたものが目の前で消えていく、ただそれだけのことに俺の胸は自分でも驚くほど締め付けられたが、それを言葉にすることはできなかった。 「……」  ――知らなかったなら、気づかなかったなら、こんな想いはしなかっただろうか。 「他にも聞きたいことがあれば、連絡先も書いたから遠慮せずに聞いておいで」  ――俺は間違えたのかもしれない。  俺が本当に伝えたかった言葉は、本当に隠し続けてきた本音は、あんなことじゃなくて。  俺が会いたかったのは、本当に見たかったのは、こんな父さんの顔じゃなくて。  本当は……。 「……ごめん、なさい」  それでもこれが今の俺には精一杯だった。気づいてしまったことを今さら口にできるほど俺は素直でも器用でもなかった。父さんの前では当たり前に演じてきたはずの『十和田伊織』にはなれなかった。俺はどうしたって父さんの子供で、父さんと過ごした頃の『椿伊織』に戻ってしまうのかもしれない。 「伊織が謝ることなんて一つもないよ」 「でも」  ようやく俺が顔を上げると、父さんはそんな俺を受け止めるように優しく笑った。その声は先ほどよりも温かな温度で俺に触れる。 「律にも聞いてごらん」 「母さん、に?」 「うん。今、伊織のそばにいるのは律だろう」 「……」 「伊織が聞いたなら、ちゃんと答えてくれるよ」    *  引き出されたボックスの中、大和は並んだラベルをなぞるように指を滑らせ、その中の一冊を手に取った。 「伊織が生まれたことすら知らなかったって、初めて会ったのは生まれてからもう五ヶ月も経っていたって……」 「うん」  大和の大きな手の中、乾いた音を立てながらくっついてしまったページが丁寧に離されていく。 「でもさ、ここにちゃんとあるよな」 「え」 「伊織が生まれてからの記録、ちゃんと最初から欠けることなくあるよな」 「!」 「……これが『答え』なんじゃないのか?」  そう言って俺に顔を向けた大和は小さく笑っていたけれど、その声は震えていた。  どんなに言葉にされても、知ってしまった事実がすべてだった。  父さんが母さんと出会う前に付き合っていたのが俺の母親であること。  その母親が父さんには何も伝えることなく俺を産んだこと。  五ヶ月も経ってから一人では守りきれないと父さんたちに助けを求めてきたこと。  俺を守るために周りに嘘をつくと決めたこと。  実家に連れ戻された母親が今は親の決めた別の人と結婚していること。  俺がいなければ、父さんと母さんは普通に新婚生活を楽しんでいたはずで。  俺がいなければ、二人は自分たちの子供を授かっていたのかもしれない。  俺がいなければ、不倫なんて嘘をつく必要もなくて。  俺がいなければ、誰も悲しまなくてすんだ。  ――どうして、俺を、俺なんかを引き取ったのだろう。  俺がいなければ、母親はなんの障害もなくすぐに結婚できたのではないか。  俺がいなければ、誰かを巻き込むこともなくて。  俺がいなければ、誰も苦しまなくてすんだ。  ――どうして、俺を、俺なんかを産んだのだろう。  生きているのだとわかった今、俺の中のやりきれない思いのすべては自分を産んだ母親に向いていた。亡くなっていると思っていたから抑えていただけで、もう伝えるすべもないから自覚すらしていなかっただけで、本当は……自分を産んでおきながら身勝手にその手を離した母親を、俺はずっと恨んでいたのかもしれない。そうすることで両親に対する疑問をなかったことにしていたのかもしれない。  ――だけど、見つけてしまった。  父さんに言われても、その言葉を目にしても、どうしても信じることが、認めることができなかったのに。  ――ずっと、こんな近くにあったなんて。  ぼやけていく視界の中で、大和の胸がゆっくりと近づいてくる。抱き寄せられた肩からは大和の大きな手の感触が伝わってきて、耳に触れる声はどこまでも優しく響く。瞼を閉じれば簡単に涙は落ちていき、噛み締めた唇の先からはこらえきれない嗚咽が漏れていく。 「ちゃんと、愛されてたんだよ」 「っ、……」 「じゃなきゃ、こんなふうに残ってないよ」  ――答えはずっとそばにあった。    *  見慣れた景色に、止めていた息を二人同時に吐き出していた。  電車の窓からは夜の空が見えていたけれど、改札を抜けた先には騒がしい音楽と眩しすぎる光を漏らしている駅ビルの入り口があった。周りを行き交う人も平日とは違い、その歩くスピードからも緩やかな空気が漂っていた。 「……帰ろっか」  当たり前のことを確かめるように大和が口にする。 「うん」  そう答えながらも、出口へと体の向きを変えた大和の背中を見つめたまま、俺は動けない。足にうまく力が入らなかった。 「伊織?」  振り返った大和が俺の顔を見て、一瞬にして何かを飲み込んだ、気がした。 「……まだ、帰りたくない?」  ずっとしまわれていたその大きな手を大和が俺の肩へと伸ばす。 「もう少し一緒にいようか?」  そっと包み込むように掴まれた肩から伝わってくる優しい力が、俺の顔を覗き込むように傾けられたその顔が、何も考えられなくなっていた俺の体をゆっくりと動かしていく。  小さく、目の前の大和にしか気付けないくらいにかすかに、俺は頷いた。  大和は何も言わずに肩に乗せていた手を滑らせると、そのまま俺の手を握った。 「!」 「さっきまで温かったのに、外に出た途端すぐ冷たくなるよな、伊織の手」  そう言って笑いながら、大和はいつもとは反対の出口へと足を向ける。伝わってきた力は決して振り解けないほどの力ではなくて、それが余計に俺の胸を苦しくさせる。こんなにも優しく繋がれてしまったら、俺にはもうどうすることもできない。駅の構内は眩しいくらいに明るくて、当たり前にたくさんの人がいて、誰に気づかれてもおかしくないのに、それでもどうしても俺はその手を握り返さずにはいられなかった。  いつも使っているバスロータリーや住宅街に続く出口とは違い、反対口は図書館や公会堂などの公共施設を含んだ大きな公園があるだけで、夜の人通りはほとんどなかった。明るかった駅舎を離れると、目の前には少ない外灯に照らし出され、静かに揺れる木々の影が続いている。止まることのない噴水の音が遠くから響いてきて、時折通る車の音がやけに大きく聞こえた。  もっと小さい頃だったら、少し怖いと思ったかもしれない。  昼間は芝生が広がるその場所に集う人も多いのに、今は夜の色に完全に飲み込まれている。  繋いでいた手の先からわずかに力が込められたのを感じて視線を上げると、大和はどこか一点を目指すかのように前を見ていた。大和が先ほどよりも歩幅を広げて歩き出し、俺はその手に引かれるように足を進める。  静かで暗い公園の中、不思議なほど恐怖は感じなかった。  胸の中からせり上がってくる苦しさに視界がぼやけても、怖くはなかった。たとえ今この瞬間に目を閉じたとしても、この手の中の体温が離れることはないのだと、そう信じられた。  堪えていた何かが、ゆっくりと確かな熱となって自分の中に広がっていくのを、俺はもう止めることができない。一度開いてしまった蓋を元に戻すことは、もうできなかった。  大和に言うべきことではないとわかっていても、言っても仕方がないのだとわかっていても、言葉はこぼれてしまう。 「……俺がいなければ、父さんも母さんもこんなふうにはならなかったのかな」 「伊織のせいじゃないって、言ってただろ」  大和は振り返ることも、足を止めることもしなかった。ただ俺の言葉に耐えるようにその声を震わせる。 「でも、どう考えたって」 「伊織、お願いだからそんな悲しいこと言うなよ」 「……!」  ――お願いだから。  その言葉を父さんだけでなく大和にも言わせてしまったことに、俺は自分で自分が嫌になる。どうして俺は大和の前ではいつもの自分でいられないのだろう。大和だから、大和だけには、こんな弱い自分でいたくないのに。どうしても大和の前だとうまく繕うことができない。 「伊織」  気付けば、公園の真ん中にある噴水の前にたどり着いていた。足を止め、振り返った大和は俺の瞳を真っ直ぐ見つめる。 「おじさんもおばさんも伊織を愛してるから、伊織のことを守りたかった。それだけだろ。俺にはそう聞こえたよ。それを伊織は間違いだって言うのか?」 「そ、れは……」  わかっている。本当はわかっている。どんなに自分が二人に愛されているのか、大事に育てられてきたのか、痛いくらいにわかっている。でも、その一方でただ守られているだけの自分を、両親の人生を大きく変えてしまった自分を、簡単には許せない。誰も俺を責めないなら、俺が、俺自身が……。 「伊織」  ゆっくりと呼ばれた自分の名前が、それを口にした大和の声が、いつの間にか大きくなっていた噴水の音に重なる。 「伊織がどうしても自分を許せないなら、俺が証明する。伊織が生まれてきたこと、こうやって生きていてくれること、その全部が間違いなんかじゃないって、俺が証明する。一生かけてでも証明してみせるから、だから……」  そう言って笑った大和は、どこか不安げな顔をしていた。  ――何が大和をそんな顔にさせるのか。俺はその答えをもうずっと前から知っていたのかもしれない。    *  まだうまく整理できたわけじゃない。  手を離されたことを恨む気持ちが完全に消えたわけでもない。  それでも、父さんと母さんの元に預けてくれたことが、今ある当たり前の日常に繋がっていて、それが母親の選択の結果なのだと、そう思えるほどには息苦しさは消えていた。  ――今、俺の周りにはこんなにも自分を愛してくれる人たちがいて。  ――今、俺の目の前にはこの先を自分で選ぶことのできる自由があった。  失われていたかもしれない俺の未来を守ってくれたのだと、俺を愛していてくれたのだと、今なら少しだけ信じられる気がした。 「!」  ガチャガチャっと鍵を回す大きな音が廊下の奥から響いてきた。普段はうるさく感じるその音が、聞き慣れたその音が、今の俺にはとても優しく聞こえる。 「ただいまー」 「おかえりなさい」 「あれ? 大和くんも一緒に食べるって言ってなかった?」 「あー、今日の課題終わりそうにないからやっぱり帰るって」 「あらあら」  そう言って小さく笑った母さんが脱いだコートを片手に、和室に置かれていたハンガーへと手を伸ばす。いつも当たり前に見ていたはずなのに、その背中はとっくに俺よりも小さくなっていた。 「あのさ」 「んー?」  俺は大和から返された写真にそっと触れ、ゆっくりと息を吸い込む。  俺から母さんに聞くことなんて、きっとコレだけでいい。 「ねぇ、母さんは……」

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