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『パピコの日』side冨樫賢一
窓を開けていても風のひとつも感じられず、太陽が真上に差し掛かる空を見上げた俺は肩から頭までを大げさに落としてため息をついた。
「はぁ……」
吐き出された俺の声は一瞬にして部屋の中を漂う蒸し暑さと埃臭さに包み込まれた。
背中を流れる汗は気持ち悪く、一刻も早く脱出したいのに目当てのものはなかなか見つけられない。
「本当にここにあるのか?」
誰もいないとわかっていても声を出さずにはいられない。少しでも頭を使っていないと心が折れそうだった。
化学準備室のエアコンは壊れていて、その奥にあるこの狭い資料室にはもともと設置すらされていない。
「……サウナかよ」
連日の猛暑日予想とは言え、外の方がまだマシなのではないかと思うほど息苦しい。このままここにいたら熱中症で倒れるのではないだろうか。
窓際に置かれていたパイプ椅子の上のカバンからペットボトルを取り出す。中身はもう三分の一もない。ぬるくなってしまった水を喉へと流し込み、俺は口を離すと同時に息を吐き出す。
「なんで、俺が……」
こんな状況、文句の一つでも言わなきゃやっていられない。
*
チャイムの音がわずかに残っていた教室内にざわめきが戻ってきた。
「冨樫は? 行く? カラオケ」
カバンの中にプリントをしまっていた俺はこちらへと向けられた声に顔を上げた。自由参加の夏期講習には普段のクラスの縛りがない。最初は見慣れない顔に周りを窺っている奴の方が多かったが、二週間も経つと自然にいくつかのグループが出来ていた。
俺はその中でも一番人数の多いところに所属している。
カラオケは嫌いじゃないけど……。
机の上に出していたスマートフォンの画面が視界に入る。
8月5日……今日は漫画の新刊が出る日だったよな。
帰りに本屋寄って、そのまま家でゴロゴロしたい。
「あー、いや、今日はパスで」
「そっか、じゃあまたな」
「おう、またな」
俺が行っても行かなくても成立する。
それくらいの軽さがちょうどいい。
人数が多いグループはこういう時ラクだな。
ざわざわと話しながら出て行く背中を見送ってのんびり帰りの準備をする。
誘いを断った手前、追いついてしまうのもなんだか面倒で俺は席に座ったまま窓の外へと視線を向けた。
日陰なんて見つけられない広いグラウンドには野球部員たちの姿が見える。何を言っているのかよくわからない掛け声とボールが弾き返される心地よい音が耳に届く。
「本気で目指してんのかな……甲子園」
静かにこぼれ落ちた言葉は、何事にも必死になれない今の自分へのもどかしさだったのかもしれない。
俺にも未来 のことを考えることなくあの小さなボールを追うことに夢中だった瞬間があった。練習すれば必ず上手くなる。努力すればきっとレギュラーになれる。
そう信じることのできた自分は確かにいた。
――ただ、他人 より早く目が覚めてしまっただけで。
適当に時間を潰して帰るつもりが気づけば教室に残っているのは俺だけだった。静かな校内には吹奏楽部の演奏が薄く響いている。
「そろそろ帰るか……」
そう呟いた俺の声は突如開けられたドアの音と響き渡る大きな声にかき消された。
「おー! よかった、よかった! まだいたか‼」
「……⁉」
驚きのあまり俺が何も言えずにいる間に声の主はどんどん俺の方へと近づいてくる。
「いやぁ、よかった、よかった。ちょっと手伝ってほしくて」
「え」
ようやく声を出せるようになった時にはすでに白衣で包まれたその巨体に視界を塞がれていた。
確か……化学の平井先生だったよな?
百九十センチを超える長身とぶつかった瞬間に弾き返されそうな上半身は学生時代ラグビー部だったと聞いてとても納得したのを覚えている。大きな口で笑う顔も捲り上げた袖から伸びる腕も日に焼けていて、白衣を着ていなければ体育教師だと思うだろう。
その姿が目立つので名前を知ってはいるが、化学は二年生からの科目なので一年生の俺が授業を受けたことはない。
「名前は?」
教え子でもない俺のことなんて当然知らない平井先生は、静かな教室内で距離感のバグった大きな声を響かせた。
「……冨樫、です」
聞かれるままに答えた時にはもう「冨樫な。じゃあ、悪いけどちょっと頼むわ」とまだ何をすればいいのかも、そもそもやるとも言っていない手伝いをすることが決定していた。
*
先生はこの前の地震の影響だって言っていたけど。
そもそもそれほどの震度ではなかったし、棚の中を見れば普段から片付けられていないのが一目瞭然だった。きっともとから不安定に積み上げられていた資料は地震なんかなくても崩れたはずだ。
俺は面倒だと思いつつも床に散らばっていた本やプリントを仕分けしていく。頼まれたのは資料探しだけだったが、この状態では見つかるものも見つからない。俺は机の上の箱や棚の中のファイルまで引っ張り出して部屋の中を片づけていった。
「あった‼」
ようやく目当ての資料を見つけて俺は一人大きな声で叫んでいた。
ふと腕時計を確認すると、ここに来てから一時間も経っていた。
「マジか……」
完璧ではないにしても最初よりは明らかにマシになっている部屋を見渡し立ち上がる。床には本もプリントももう落ちてはいない。
ふわりとゆるい風が部屋の中に流れ、俺は大きく息を吸い込む。
強い日差しで温められた空気に心地よい冷たさはどこにもない。
床に座り続けて硬くなった全身は汗と埃にまみれていて気持ち悪い。
――それでも不思議と俺の心はどこか軽かった。
扉を閉めて廊下に出ると、冷房など近くにないはずなのにそれだけで涼しさを感じた。
俺はそれほど過酷な場所にいたらしい。
「失礼します」
ノックをしてドアを引くと、今度は寒さすら感じる冷たい風が俺の体を包み込んだ。
「おう! 見つかったか」
職員室には平井先生の他には誰もいなかった。
大きな声も太い腕を振る必要もきっとない。それでも先生は俺の姿を見つけて大げさなほど手を動かし手招きしている。
「おー、ご苦労さん」
こんなに冷え切った室内でも、平井先生はうちわを持った片手をせわしなく動かしている。
全身の汗が一気に冷えた俺の肌にはうっすら鳥肌が立っていた。
熱中症にはならなかったが、このままだと風邪をひいてしまいそうだ。
「じゃあ、俺もう帰りますから」
探し出した資料と預かっていた鍵を手渡した俺は今度こそさっさと帰ろうと体の向きを変えた。
「あ、いやいやちょっと待て」
「……」
これ以上の厄介ごとはごめんだったが教師の言葉を無視するわけにもいかない。渋々振り返った俺の目の前、どこから取り出したのか見慣れた名前のアイスの袋が差し出されていた。
「ほれ、お礼だ」
「え」
「ちゃんと冷凍庫で冷やしておいたから美味しいぞ」
冷凍庫なんてどこに?
俺の疑問を感じ取ったのか、平井先生は視線だけで自分の足元を指し示した。
教科書とノートパソコンの広げられた机の下、陰になっているスペースにそれはあった。白くて小さい立方体。業務用で使われている冷凍庫のミニ版といったところだろうか。
「本当は準備室に置いて使ってたんだけど、さすがにこの暑さじゃあっちで作業できないだろ?だからこっちに持ってきたんだ」
冷凍庫の存在によって明らかに狭くなったスペースに足を押し込めながら、先生は笑った。
この暑さの中で探し物をさせていたのはどこの誰だ、と思わなかったわけではないが悪びれる様子の全くない表情《かお》を前にしたら文句を言う気力は失せてしまい、俺は素直にアイスの袋を受け取った。指先から伝わる冷気に本当にここで冷やされていたのだと思ったら自然とおかしさがこぼれた。
「ふ、ふは……ありがとうございます」
「他の生徒に見つかるとうるさいから内緒な」
「じゃあ、失礼します」
「おぅ、また頼むな」
「……」
笑顔を向けつつもかけられた言葉に答えることはせず、俺は職員室の扉を閉めた。
正直なところ、もう二度とやりたくはない。
強引な平井先生にもできれば関わりたくはない。
だけど、大人の使う『内緒』という言葉の響きにはなんとも言えない特別感とほんの少しの背徳感があって、俺は冷えた体を包み込む生温い夏の空気に少しだけ心地よさを感じていた。
校舎を出ると頭上から容赦のない日差しが降りてきて、足元にできた影が一瞬にしてその色を深くした。
「これ、溶けるよな」
顔の高さに持ち上げた桃のイラストには本物の小さな水滴が浮かんでいる。
このまま家まで持ち帰るのは不可能と判断して俺は両手で袋の端を掴むと勢いよく左右に引っ張った。
「あれ? 冨樫?」
「!」
手の中からふわりと薄く冷気が逃げ出したのを視界に入れながら俺は声のする方へと顔を上げる。
「何? もしかして講習出てんの?」
振り返ると室内競技をしているとは思えないほど肌を黒くした大和《やまと》が立っていた。他にも何人かお揃いのTシャツを着た部員たちがいたが、大和は軽く手を振って俺の方へと体を向ける。
「なんか意外と真面目だよな、冨樫って」
「意外と、は余計」
そう言いながらも、本当に『真面目』なのは俺ではなく大和の方だと俺は気づいている。俺が講習に出ているのは、なんとなくでしかない。部活もアルバイトもしていない夏休みをただ浪費していくだけなのが怖かった。俺は勉強をするといういかにも高校生らしい自分が欲しかっただけだ。
「ところでその手に持ってるのって……」
ジリジリと焼き付けるような太陽を遮り、大和の大きな体が俺に影を落とす。
「……あげないぞ」
フイっと視線を逸らし、俺は止めていた足を動かす。
開けてしまったからには今すぐにでも食べ始めたいところだが、隣には猛獣がいる。これでは安心して食べられない。
「えー、でもそれ半分にできるやつじゃん」
大和は大きな一歩で俺の隣に並ぶと、そのまま歩く速度を揃えてきた。
「コレは俺の労働の対価なの。俺だけが食べる権利があるんだよ」
「俺もう部活でヘトヘトなんだよ〜」
「知るか」
「それにこの気温じゃすぐ溶けちゃうだろ〜」
「それでもなんでお前にあげなきゃいけないんだよ」
「ここで会ったのも何かの縁だろ〜」
「……」
出会ってから数えて四ヶ月という時間は短いのか長いのか。
こうして話すようになったきっかけは単純に席が近かったから。それだけだ。
「なぁ冨樫〜」
「……」
「俺とお前の仲だろ〜」
「……」
特別仲が良いかと聞かれればそこまでではないと思う。単なる『クラスメイト』よりは『友達』の方がしっくりくるが『親友』というほどまだ深くはない。
同じ教室の中、俺が下の名前で呼ぶのはコイツともう一人だけではあったが、それは単純に二人が呼び合っているのに耳が慣れてしまったからだろう。
「いつも数学の宿題見せてるじゃん」
「!」
隣を歩いていた大和がちらりと俺の顔に視線を向けてから足を止めた。
それを持ち出されるとさすがの俺も無視はできなかった。
立ち止まった大和から二歩ほど先の距離で俺は振り返る。
「……半分な」
「やった! ありがと!」
「ったく……あれ? 伊織?」
袋から取り出したアイスを二つに分け大和に片方を差し出してやると、見慣れた姿が視界の奥に映り込んだ。
俺たちの立っている校門に向かって坂道を上ってくる制服姿の細い体。大和とは正反対の白い肌に陽に透けてふわりと風に舞う髪。片手で額の汗を拭いながら現れたのは俺と大和の間にいつも座っている伊織だった。
「あれ? 二人ともこんなところで何してるの?」
そう不思議そうな表情 で見上げられた俺と大和は二人同時に軽く首を傾ける。
――何、だろう?
何してるのか、と聞かれて返せる言葉はうまく浮かばなかった。
真上を過ぎた太陽によって温め続けられた気温は一日の中で今の時間帯が一番高いだろう。一刻も早く涼しい場所にいくべき時に日陰にも入らず二人してアイスをくれだのあげないだのと言い続けていたのかと思うとなんだかとても滑稽だった。
「何? 伊織、学校に用事あったの?」
「うん、文化祭の衣装の打ち合わせ」
向けられた質問には一切答えず質問で返した大和だったが、伊織はそれでよかったらしい。二人の間に流れる空気は緩やかなのに不思議と他人には入れない特別感がある。それはきっと二人の過ごしてきた時間が築いた『幼なじみ』だけの空気感だ。
「そうなんだ。あ、これ伊織も食べる?」
そう言って大和は手に持っていたアイスを伊織の顔の前で振って見せた。
「え」
「冨樫に分けてもらったんだ。なんと白桃味! 期間限定だって!」
期間限定だったっけ?
珍しいなとは思ったけど、そこまでは確認していなかった。
まだ手に持っていた袋を確かめると確かに「期間限定」の文字が並んでいる。
「え、でも」
「あ、俺も食べてないから半分な」
そう言って大和はプラスチックの容器についている丸い部分に指を引っ掛け口を開けた。引きちぎられた上部に残った白いアイスをそのまま口に持っていき、反対の手に残った本体を伊織に差し出す。
「いや、でも」
伊織の視線は困ったように大和の手と顔を行き来する。
「なんだよ、遠慮するなよ。俺もまだ口つけてない……し……」
なかなか受け取ろうとしない伊織に笑っていた大和だったが、急にその言葉を途切れさせた。
「……」
「……」
差し出した手を戻すことも、それを受け取ることもできない。
二人の真ん中で俺のものだったアイスがゆっくりと汗をかいている。
「……」
え、なにこれ。
今さら?
お前らいつも普通にペットボトルの回し飲みとかお弁当のおかずの分け合いとかしてたじゃん。
さっきまでの幼なじみ空気感は一体どこにいったんだよ。
ホントよくわかんないところで急にスイッチ入るんだよなぁ、コイツら。
「……伊織」
沈黙に耐えきれなくなった俺はついに口を開いた。
近くの木にとまったのだろう、蝉が大きな声で鳴き始める。
「!」
名前を呼ばれて顔を振り返らせた伊織の頬を汗がひとすじ流れていく。
「コレやるわ」
「え、でもコレ冨樫のでしょ?」
「まだ開けてないし、やるよ」
「でも」
「俺、本屋寄りたいから持っていけないし。じゃあ、またな」
戸惑う伊織の手に無理やりアイスを押し付け、俺は今度こそ一人で歩き出す。
「冨樫! ありがとう」
「おぅ、じゃあな」
俺は肩越しに振り返り片手を軽く振る。
「……なぁーに、してるんだか」
じれったすぎる友人たちから視線を戻した俺はそう一人で呟いた。
二人して顔が赤いのはこの気温のせいにしておいてやろう。
「あっつい……」
思わず漏れた声はいつの間にか増えた蝉の声に掻き消される。
坂道を上るように吹いてきた風が俺の手元で乾いた音を鳴らし、ふとお昼ご飯すら食べていないことに気づいた。
「やっぱあげるんじゃなかったか……」
意識した途端に空腹感は高まり、体の中のエネルギー残量を意識させられる。
俺は少しでも気を紛らわそうとポケットからスマートフォンを取り出した。
一瞬で明るくなった画面には今日の予定として登録された漫画の新刊発売の文字と日付が並んでいる。
「あー、そういえば」
手放してしまったアイスの名前が頭の中に浮かび、その楽しげな名前につられるように俺は軽くなった足を少しだけ速めた。
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