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『誕生日*一週間前』side大和
◇
もっと触れたくて
もっと感じたくて
もっと深く繋がりたくて
――そういう気持ちは自分だけではないと、そう思っていた。
伊織のことが好きなのだと気づいた、あの日から。
これはただの『幼なじみ』なんかじゃない。
これは仲のいい『親友』なんかじゃない。
伊織に向けてしまうこの感情は、そういうものではない……。
それに気づけた時、俺は不安よりも戸惑いよりも、ただ単純に嬉しかった。
自分の『特別』が伊織であること、そのことが嬉しかった。
――でも、伊織は……そうじゃないのかもしれない。
◇
窓の外へと視線を向け、耳にかけたイヤフォンから流れ込む音楽に意識を集中させる。ドアに寄せた肩から伝わってくる途切れることのない振動は決して心地よいとは言えなかったけれど、それでも俺はそこから離れようとは思わなかった。
「……」
少しでも何かが緩んでしまったら、立っていられなくなりそうだった。少しでも思い出してしまったなら、この苦しさを意識せずにはいられなくなる。そうなったらもう止められなくなる気がして怖かった。
俺は目の前を素通りしていく景色が静止したのに合わせてそっと体を離すと同時に、手にしていたスマートフォンの画面に触れ、ボリュームを上げる。聞き慣れた音で溢れている、いつもと変わらない見慣れた場所に、心を緩ませないための、それは小さな抵抗だったのかもしれない。
――今だけはわずかでも自分を守る何かが欲しかった。
ホームに足を下ろし、すでに作られていた人の流れの中へと体を持っていく。ただ目の前を歩く人についていくように機械的に階段を上り、そのまま改札の外へと掃 き出される。何度も繰り返してきた動作に意識することなく自然と体は出口へと向いていた。
そのまま……何にも気をとられることなく踏み出す、はずだった。
「大和!」
――その声がどうして聞こえたのか、俺にもわからなかった。
耳は塞がれたままだった。近くを歩く人のざわめきも、発車を告げるベルの音も、頭の中に注ぎ込まれ続ける音楽によって俺には何も届かない……それなのに。
視線を上げた先、大きな柱から体を離して伊織が俺の方へと駆け寄ってくる。
「伊織……なんで」
絞り出すようにつぶやいた自分の声さえ聞こえないのに。覗き込むように見上げられたその顔が、少し躊躇うように腕に触れられたその手が、俺が必死に目を逸らしていたその場所を、一瞬にしてこじ開ける。
「お疲れさま」
そのたった一言が、あまりにも優しく響く。
俺は耳にかけていたイヤフォンへと手を伸ばす。
「……」
「なんか、久しぶりだな」
そう言って伊織は小さく笑った。
*
何度見ても、目の前の景色は変わらない。
電光掲示板の表示はもうすでに次の試合開始をカウントダウンしている。
――これで終わり、なのか……?
さっきまであんなに激しく動けていた体は急に重くなり、揃えた両足に自分の影が落ちる。ボールの弾む音も、バッシュが床を擦る音も、ベンチからの声援も、もう何も聞こえなかった。わかるのは激しく鳴る自分の心臓の音と、乱れたままの呼吸に増していく息苦しさだった。
「……そんな顔しちゃダメだよ」
「!」
突然後ろから聞こえた声に振り返ると、唇の先を噛み締めた佐渡が無理やり小さな笑顔を作っていた。
「私たちにはまだ次があるんだから」
体育館の天井から降り注ぐ光は強い。どんなに惨めな姿であろうと隠すことなく照らし出す。歓喜する者たちの裏には、悔し涙を流す者がいる。俺たちは試合をしているのだから、勝敗は必ずついてしまう。それが当たり前でわかりきっていたことなのに、どうしたってこの苦しさに慣れることはない。
追いかけ続けた大きな背中はもう先を歩いていた。
そっと視線を向ければ、その目元はまだ赤く腫れている。
「……っ」
先輩たちが泣いているところを見たのは今日が初めてだった。
――今日で三年生は引退する。
俺たち二年生と三年生は、決して仲がいいとは言えなかった。一学年差は一緒に過ごす時間も長い上、レギュラー争いだって熾烈になる。ぶつかったのだって一度や二度じゃない。先輩たちなんか、と言ってしまったことだってある。でも、そうやって衝突してきたからこそ、今まで当たり前にいてくれたからこそ、明日からはもういないのだという事実が受け止めきれない。
これが先輩たちとの最後の試合だなんて信じられなかった。
もっと一緒にいたかった。
もっと一緒に走りたかった。
もっと一緒に……。
*
少ない外灯も、途絶えることのない噴水の音もあの時と変わらない。時折通る車の音は相変わらず大きく聞こえる。それでも、肌に触れる温度が、薄くなった夜の色が、季節が進んでいることを教えてくれる。
「すごい試合だったな」
「……うん」
聞き慣れた伊織の声が頭の中を素通りしていく。言葉は何も浮かばず、伊織の声にただ頷くことしかできない。俺はほとんど見えなくなった視界に恐怖を覚えることもなく、伊織に手を引かれるまま歩いていた。
「本当に最後までどっちが勝つかわからなかったよ」
「……うん」
ぼやけていく視界の中、半袖のシャツから伸びる白い腕は俺よりも細かったけれど、握られている力は意外なほど強かった。
「ごめんな」
「……え」
「やっぱり、後半しか観れなかったんだ」
――その言葉を聞く瞬間まで、俺は伊織が会場にいたとは思っていなかった。
もともと試合には間に合わない可能性が高いと言われていた。だから、試合の経過や結果を調べてくれた上で話してくれているのだと、そう勝手に思っていた。
――でも、伊織は、ちゃんとあの場所で観てくれていたのか。
いつもの俺なら「行けない」と言われたわけではないのだからと、わずかな期待を持って観客席を見渡すことくらいはしただろう。
「……」
伊織が来ている可能性を考えることすらできていなかったのだと、そんな余裕さえなかったのだと、改めて思い知らされる。
――伊織の存在を忘れてしまうほど、俺は何も考えられなくなっていたのか。
頭上から降り注ぐような木々のざわめきに、湿気の混じった風が通り過ぎていく。噴水の音はまだ少し遠く、小さな外灯は二つ先のベンチを照らしている。暗さに慣れた視界に映るのはゆっくりと足を止めて振り返る伊織の顔と、繋がれたままの俺よりも小さな手だけだった。
「……大和、もう我慢しなくていいんじゃない?」
決して明るい場所ではなかった。お互いの表情さえ完全には見えていない。そこがどこなのかと聞かれれば「公園の中」としか答えようがないほどに周りには何もない。あまりにも中途半端な道の途中、あるのは木々の影に隠れるように置かれたベンチだけだった。
こんなところ、きっと誰も通らないだろう。
「お疲れさま」
数分前に聞いたばかりのその言葉が、伊織の口から発せられる優しい声が、どうしたって俺を揺さぶる。
「っ、……伊織」
張り詰めていた糸は切れ、抑え続けていた俺の感情は外へと溢れ出した。
俺は自分よりも小さな腕の中で、声をあげて泣いていた。
*
入ると、思った。
外すことはないと、そう思ったから……俺はその手を離した。
主審の腕が上がり、指が三本立てられる。
ネットを通り抜ける音は響かなかった。
リングに弾かれる鈍い音だけがやけにはっきりと耳に届く。
――まだ、まだ、もう一度……。
減り続ける残り時間を、確認する余裕なんてあるはずもなく。
残り十秒を切っていることだけは確かで。
――あとほんの五秒でもいい。
刻々と変わり続ける数字が、まだ僅かにでもあると信じて必死に体を動かす。
ゴール下でぶつかりながらも伸ばされた指先がボールの表面を弾く。
――もう少し……。
再び浮き上がったオレンジの光へと足を踏み切ったところで、体の芯を貫くようにブザーの音が鳴り響いた。爪の先に当たった固いゴムの表面は手の中に収まることなく、そのまま床を転がっていった。
「……」
並んだゼロを挟むように表示されたスコアは83対85。たった二点、たったワンゴール差。俺がシュートを外さなければ、きっと勝っていた。
整列を終えてベンチに戻った俺に、最初に声をかけてきたのは主将《キャプテン》だった。
「成瀬……」
その静かな声の意味を測りかねて、俺は顔を上げることができない。
「すみ、ません」
そう喉の奥から絞り出した俺に、主将 はその大きな手を俺の肩へと置いた。
「お前が謝ることなんて一つもないよ」
「でも、俺が……」
――シュートを外さなければ、勝っていたはずで。
――試合に出ていなければ、コートに立っていたのは主将だったはずで。
主将にとっての高校生活最後の試合、その終了の瞬間をベンチで迎えさせるなんてことにはならなかった。
「次、頑張れよ」
「っ、……!」
俺にとってポジション争いもレギュラー争いもその苦しさを競う相手はずっと主将だった。
負けたくなかった。
食らいついていくので精一杯だったけど。
敵わないところだらけだったけど。
そうやって必死に追いかけ続けることは苦しかったけれど、同時にたまらなく面白くもあった。
この時間がこれからもずっと続いて欲しかった。
――だから、主将に代わってこの試合の最後を任された時、俺は……。
*
――言えなかった。
試合の最後に自分が何を考えていたのか。
「伊織、俺……最低、なんだ」
――誰にも言えなかった。
こんな自分に気づきたくなんてなかった。
「大和?」
伊織に知られるのが一番怖いはずなのに、伊織にだけは知ってほしいと思ってしまう。
伊織なら、こんな弱くてずるい俺でも受け止めてくれるのだと、知っているから。
――俺はその優しさに甘えることで、無意識のうちに伊織からの愛情を確かめようとしていたのかもしれない。
どこまでなら赦 してくれるのだろう。
どこまでなら受け止めてくれるのだろう。
どこまでなら愛してくれるのだろう。
――もっと、俺が……でも……。
「無理にシュートを打つ必要はないって、本当はわかってたのに……俺、負けたくなくて……認められたくて、それで……」
スリーポイントシュートで逆転を狙うような無茶をしなくても本当はよかった。まずは同点にして、延長に持っていけばよかったのだ。そしたら主将《キャプテン》がコートに戻る機会もあったはずだ。残っていた時間はわずかだったけれど、落ち着いてパスを回す時間はあったのだから。
――それなのに……あの時の俺は、チームの勝利よりももっと個人的な思いに突き動かされた。
「あそこで、あんなところで終わるなんて、思わなかったから……」
伊織は何も言わなかった。
ただ、その腕にそっと力が加わったことだけはわかる。
「だから、俺……」
伊織は、吐き出され続ける俺の弱音を言葉でなく――俺を包み込むその細い体で、薄いシャツ越しに伝わるその体温で、変わることのないその柔らかな匂いで――目の前の伊織の全部を使って受け止めてくれていた。
「……っ」
頭に触れている手が温かくて、どうしようもなく心地よくて、もう冬ではないのだと、唐突にそんなことを思って……同時に気づかされた。
――本当に俺が伊織に聞いて欲しかったことは、もっと別のことだったのかもしれない、と。
水の揺れる音が真上から響く。
閉じているまぶたの上に載せているペットボトルが両目に集まった熱を溶かしていく。
「落ち着いた?」
「……ん」
今は見えていないけれど、このベンチはそんなに狭くはない。
それなのに隣に座る伊織の肩が俺に軽くぶつかり、むき出しの素肌が腕に触れた。
「それで、どうするの?」
大きくはないその声が耳の奥まで響いてきて、とても近くにいることを意識させられる。
「……どうするって?」
声を揺らさないように、両手で支えている水の冷たさに意識を向ける。
プラスチックの表面についていた水滴が指先に染み込んでいき、こぼれたカケラが顔を濡らす。
「主将、頼まれたんでしょ?」
俺はゆらゆらと不安定に歪む視界の中、僅かな隙間を伊織に向ける。
「……まだ、決めてない」
「なんで?」
伊織が傾けていたペットボトルを戻すと、飲みかけのお茶が小さな音を立てた。白い手から覗く深い緑色は周囲の暗さに馴染んでしまってハッキリとは見えない。
「なんでって」
「大和ならすぐにオッケーすると思ってたのに」
「そんな簡単な気持ちでできるもんじゃないんだよ」
――先月、インターハイ予選が始まる直前に監督と主将に呼ばれた俺は、三年生が引退した後の新チームの主将を任せたいと言われた。
言われた時は単純に嬉しかった。
チームに必要とされていること。主将を任せてもらえるくらいに信頼されていること。それは、どうしようもなく嬉しかった……けど。
どうするかは予選が終わってから聞かせてくれればいいと言われていた。
今日の試合が終わった後、その答えを伝えるタイミングはいくらでもあったが、俺はそれに気づかないふりをして逃げてしまった。
試合中の、それも一番大事なところで、チームのことを考えられなかった俺に、そんな資格はないのではないか。
断るべきなのかもしれない。
俺なんかが主将をやっていいはずがない。
そうは思うのに、どこかで諦めきれない自分もいる。
喜びと罪悪感、プライドと不安、胸の中で複雑に混ざり合う感情に、俺は次第にうまく息が吸えなくなっていた。
「……じゃあ、大丈夫じゃない?」
「え?」
「簡単な気持ちでできるものじゃないって、わかってるなら大丈夫だよ」
「でも」
振り返らせた俺の体をすり抜けるように、伊織が立ち上がった。
俺の視線は、目の前をかすめたシャツを追いかける。
「えーっと、なんだっけ。こんなところでぐずぐずしてないで前見て走りなよ! だっけ?」
両手を突き上げるように体を伸ばしながら、伊織が顔を振り返らせ、笑った。
少しだけ眉根を寄せて、ちょっと意地悪そうに。
「え」
それだけで、たったそれだけのことで、俺の胸の中で膨らみ続けた感情にふわりと風が吹いた……気がした。
「伊織、それ」
「大和さ、そんなんじゃまた佐渡さんに怒られちゃうよ」
「! ……ホント、いつの間にそんなに仲良くなったんだか」
そうため息をつきながらも、俺は自分の中の色が変わっていくのを自覚していた。
あんなに重く苦しかった胸の中を風が通っていく。それは俺が吸い込んだ空気とゆっくり重なっていった。
――学年が変わった四月、俺と伊織が向かう教室は離れてしまった。伊織は佐渡と、俺は冨樫と同じクラスになった。
「それ、この前、冨樫にも言われたなぁ」
伊織が可笑しそうに小さく声を弾ませる。
「あんまり冨樫のこといじめるなよ」
「いじめてるつもりはないんだけどな。なんか最近の冨樫って前より話しやすくなった気がするんだよね」
「そうかぁ? 話しやすさは変わらないと思うけど……でも、適当にサボるのが下手になった気はするな」
「不器用な冨樫なんて冨樫じゃないよね」
そう言って笑いあった声は重なっていて、夜の色に溶けている木々のざわめきと一緒に、耳の奥でいつまでも響いていた。
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