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『誕生日*前日』side大和

   ◇ 「好き」も、 「愛してる」も、  伊織にとっては意味のない言葉なのかもしれない。  どんな言葉なら信じてもらえる?  どんな言葉なら安心できる?  ――どんな言葉を渡せば、伊織は俺を忘れないでいてくれるのだろうか。    ◇  雨が強くなった。  そう意識して初めて、今まで聞こえていたはずの雨音があまりにも耳に馴染んでいたのだと気づく。床に座ったまま窓の方へと振り返ってみるが、夜の暗さに自分の姿が反射しているだけで、外の景色は見えなかった。 「明日も、雨かなぁ」  そうぼやきながら手元へと視線を戻した俺は、一瞬だけ見えてしまった姿見の中の自分の顔に苦笑する。 「顔、緩みすぎだな……」  どんなにため息に混ぜてみても、自分でももう隠しきれないことを自覚している。  さすがに部活中はこんな表情(かお)してないよな、と少しだけ不安になったが、そんなことがあったら監督と佐渡が見逃すはずはないだろうと思い直して小さく息を吐き出す。 「気に入ってくれるといいけど」  小さな穴を通り抜ける瞬間の、紐が擦れる乾いた音が指先から伝わってくる。膝に置いていてもその重みは感じられないほど軽かった。お店からの空気をまとったままの真新しい靴の匂いに、少しずつ引き締められていく布の動きに、勢いを増して重く響く雨とは反対に、俺の心は弾むように軽くなっていった。 「勝手にお揃いにしたこと怒られたりして……」  そんなことはないだろうと思いながら自然に緩んでしまう口の先をわざと噛みしめる。  床に置かれた箱の上、もう後は足を入れて紐を結ぶだけの状態になったスニーカーが載っている。今、自分の膝の上にあるものとサイズは違えど、見た目は全く同じだ。  ――お揃いというものに特別なこだわりがあったわけではない。  ただ、ひとつ、ふたつ、と増えていくに従って、伊織を思い出す瞬間が増えていくのが、単純に嬉しかった。ただの写真が、ただの物が、目に入るたびに、手に触れるたびに、愛しさを増していく。伊織も同じように感じてくれているだろうかと思うだけで胸が温かくなった。  ――伊織はどんな反応をしてくれるだろうか。  その表情を、その声を、ただ想像するだけで、心地よかったはずの室温が上昇したように感じる。 「……」  耐えきれずに立ち上がった俺は壁にかけられているリモコンへと手を伸ばし、スイッチを入れた。静かな部屋の中にエアコンの稼働音が響き、冷たい風が吐き出される。  吸い込んだ空気によって体の中の熱を抑えながら、俺は誰にも聞こえないとわかっている言葉をそっと吐き出す。 「早く、会いたいな……」  こぼれ落ちた俺の声は、強まっていく雨の音と勢いを増した風の音に重なり、ゆっくりと溶けていった。    *  ハンバーガーと炭酸飲料で膨れたはずのお腹はもうすでに消化を開始していて、俺は甘い香りのするカラフルな棚の間をゆっくりと進んでいた。山積みにされた箱や袋に描かれたキャラクターたちは常に視界に入り、店内を流れる陽気な音楽は耳に響く。人はそれほど多くなかったがなんだか騒がしく感じられた。 「家で食べるだけなら量はいらないよなぁ」  隣を歩く伊織が静かに足を止め、お菓子の入った缶をひとつ手に取った。くるりと裏返しラベルを確認すると、すぐに別の箱へも手を伸ばす。 「それ、家用?」  伊織に倣って俺も目の前に置かれていた見本品のケースへと視線を向ける。 「うん、母さんに。大和は? 家に買っていかないの?」 「あー、俺は明日帰るときに駅で買おうかと」  ほんの数時間前に降り立った、土産物屋がびっしりと並んでいた駅構内の様子を俺は思い浮かべる。「下手に可愛い缶とかやめてね。捨てられなくなるから」というなんとも現実的な母さんの言葉も。 「そっか。それもいいね。じゃあ、こっちは冨樫にあげようかな」 「冨樫?」 「うん、だって俺たちが遊びにいくの知ってるじゃん」 「まぁ、そっか」  いつも前の席に座っている友人の顔を思い浮かべ、お土産ひとつ選ぶのに真剣な表情を見せる伊織を振り返り、思わず小さく笑ってしまった。  そんな俺の様子に気づいた伊織が眉根を寄せて、少しだけ怒った表情で俺を見上げた。 「大和も一緒に選んでよ」 「いや、冨樫ならなんでも食べそうだし、適当でよくない?」 「ほんと、大和って……」  そうため息に混ぜた伊織が、ふと俺の後ろ側へと視線を向けた。 「?」  何かあるのかと、俺が体をひねると、すぐに伊織は「なんでもないから、大和はこっち選んで」と手に持っていた二つの箱を俺に押し付けた。 「え」 「俺、ちょっとトイレ行ってくるから、その二つのうちのどっちがいいか決めておいてね」 「は? え、待っ」  俺が引き止める間もなく、伊織はあっさりと店を出て行ってしまい、残された俺は抱えていたお菓子を見つめてため息をついた。 「……冨樫のお土産なんて適当でいいのに」  冨樫のお土産のせいで両手がふさがってしまい、伊織に手を伸ばすことができず、さらには商品を持っていたのでとっさに店を出て追いかけることもできなかった。 「……」  手に残されたのは、甘いチョコレートのクッキーと激辛のおせんべいだったので、俺は迷わずクッキーを棚に戻した。  ――その数分後に伊織からお揃いのスマホリングを渡された俺は、心の中で冨樫にこっそり謝った。    *  靴紐の通し終わったスニーカーを横に置き、俺はそのまま上半身を倒す。木目の広がる床へと寝そべると、背中から伝わってくる低い温度が心地よかった。白い天井と丸い大きなライトで埋まる視界をそっと閉じて、まぶた越しに感じる明るさから顔を背けるように体の向きを変える。すると勢いで伸ばされた指先に固いものが当たった。 「?」  見慣れたフローリングの上、閉じかけの自分の手に触れて、四角い画面がパッと光った。  通り過ぎてしまった季節の真ん中で大きく表示された時刻の下、小さな数字が並んでいる。  ――日付が変わるまで……伊織の誕生日まで、あと三十分。  一時間前に終わらせた通話の中で、俺は伊織に「たとえ奇跡的に大和が起きていたとしても零時に電話とかいらないからな。そんな時間に電話されても迷惑だからやめろよ」と釘を刺されていた。  ――フリ……ではないな。あれは本気で嫌がっている声だった。 「メッセージくらい、いいよな」  そう思って、どうにか寝ないようにと、そのまま渡すつもりだったプレゼントの箱を開けて、靴紐を通すことにした。これなら途中で眠くなっても変に失敗することもないので、作業としてはちょうどいい気がしたのだ。自分のと合わせて計四回同じことを繰り返したが、それでも時間はまだ余っている。 「あと三十分かぁ」  そう呟いて閉じかけた目を急いで戻す。固い床であっても、この温度は心地よすぎてすぐに意識を持っていかれそうだ。  俺はスマートフォンを掴むと同時に体を起こした。  ここまできたら、何としても起きていたい。  よくわからない意地のようなものが生まれてしまった俺は、裏側のリングに指を通しながら、もう一方の手の先で桜の景色をスライドさせる。俺は半ば無意識のうちに、開いた写真フォルダの中に伊織の姿を探していた。 「……あれ?」  画面をスクロールしながら、時間を遡っていた俺は、ようやく見つけ出した写真の日付に、思わず声を漏らした。今さらながらに気づいてしまった事実に胸の奥がチクリと痛む。  当たり前だと思っていた景色はいつの間にか変わっていた。  こんなにも一緒にいる時間は減っていたのか。  ――まだ零時にはなっていなかったけれど。  ――かけてくるなと言われていたけれど。  ――どうしようもなく、今、この瞬間に、伊織の声が聞きたくてたまらない。  手の中に伊織の名前を表示させた俺は、発信ボタンへと指を伸ばした。 「……っ」  触れるその瞬間に思いとどまった俺の爪の先がカツンと小さな音を立てた。  ふっと息を吐き出し、先ほど見つけた写真へと画面を切り替える。 「誕生日に怒らせたくないしな」  あと数時間後には、会うことができる。直接顔を見て、話すことができる。  その声にも匂いにも触れることができる。  その高い体温さえ感じ取ることができる。  たった数時間。  今までのことを思えば、とても短いはずだ。  ――(うち)泊まりに来る?  昨日の伊織の言葉が、俺の頭の中で唐突に蘇る。  自分の予定のせいでなくなってしまった時間を思えば願ってもないことだったので、(なか)ば反射的に答えてしまったけれど……。 「あー、もう」  泊まるなんて昔からのことだし、それ以上でも以下でもない。  その言葉になんの意味も含まれてなどいない。  そうは思うのに、勝手に期待だけが膨らみそうになる自分がいる。  エアコンの風によって部屋の中の温度は下がっていくのに、俺の体はジワリと熱を持ち始める。 「……はぁ」  中指から伝わってくる固い感触に、俺はそっと息を吐き出した。  ――このスマホリングを渡された時、伊織は言っていた。 「これなら目立たなくていいかなって」  まさか伊織からお揃いのものをもらえるなんて思っていなかった俺は、嬉しすぎて言葉が出てこなかった。 「でも一応、俺はあとから付けるようにするから」  その時の俺はあまりにも胸がいっぱいで、伊織の言葉の意味がよくわかっていなかった。  週明けの月曜日、俺のスマートフォンの裏側にはスマホリングがついていたけれど、伊織のにはついていなかった。そのことに少なからずショックを受けた俺だったけど、先に伊織に言われたことを思い出して何も言えなかった。 「べつにこのくらい、友達でもするのに……」  結局、伊織が本当に俺と『お揃い』にしてくれたのは、学年が変わったあとだった。 「伊織は気にしすぎなんだよなぁ」  そうつぶやいた自分の言葉が耳の奥から再び自分の体の中へと戻るにしたがって、ゆっくりと溶けていき……。 「……!」  今まで気づかなかったところにたどり着いてしまった。  思わず叫びそうになって、慌てて両手で口を押さえると、唇の先に触れている自分の手はわずかに震えていた。 「……そっか、そういう……」  ――そんな些細なことを気にするくらいに、伊織も意識してくれているのだと、そう思い至って、顔が熱くなった。  高まっていく体温も大きくなっていく心臓の音も自分ではもう抱えきれなくて、立ち上がった俺は引き寄せられるように窓の方へと体を向ける。雨はまだその勢いを衰えさせることなく降り続いている。背中から流れてくるエアコンの冷気と、窓の外からゆっくりと入ってくる湿気が、吸い込んだ胸の中で混ざり合う。  途切れることのない雨音を聞きながら、俺はもうすっかり手に馴染んでしまった固い画面をひっくり返す。 「!」  視界の中でちょうど『(ゼロ)』が三つ並んだ。  すぐに見慣れたアプリの画面へと切り替え、俺はスタンプを一つだけ送った。  ――これくらいなら、いいだろう。  すぐに並んだ『既読』の文字に思わず笑ってしまった俺はその雨音にかき消されるほど小さな声で口にしていた。 「……伊織はいつから俺のこと好きだったんだろう?」  ――俺は……。  ガラスに映る自分と目を合わせたまま、俺は少しだけ苦しくなった胸をそっと押さえた。    *  ――きっと、本当はもうずっと前から、好きだった。  隣を振り返れば視界に入る。  手を伸ばせばすぐに触れられる。  こちらが笑いかければ笑い返してくれる。  意識する必要もないくらいに『当たり前』に伊織は俺のそばにいた。  伊織がいることがあまりにも自然で、それこそが俺の『日常』だった。  ――だから、俺がそれを自覚したのも、普通に通り過ぎてしまうような、なんてことのない瞬間だった。  何かの記念日でもなければ、何か特別な出来事があった日でもなかった。  なんの日、でもない。  いつもと変わらない日常の中の、ほんの一瞬の時間。  授業が終わると同時に降り出した雨に「これ部活終わる頃には止むかなぁ」と俺がこぼすと、委員会へと向かう準備をしていた伊織が俺の方を振り返った。 「大和もしかして傘持ってないの?」 「え、伊織は傘持ってるの?」 「当たり前だろ。天気予報でも午後から雨だって言ってたよ」  そう言って窓の外へと顔を向けた伊織につられるように体を寄せると、校舎を出て行く人の影はカラフルな傘で見えなくなっていた。みんな当然のように傘を持っているらしい。 「いや、だってさぁ、朝は降ってなかったじゃん」 「朝降ってなくても帰る時まで降らないわけじゃないだろう。梅雨入りだってしてるのに」  伊織にもっともな言葉で返され、俺は大げさに首を落として、机に置いていたリュックを手に取った。いつもとは違う重さに、わずかに肩を持っていかれる。 「濡れて帰るかぁ」  ちらりと視線を残しながら、俺が教室のドアへと体を向けると、ため息交じりの伊織の声が追いかけてきた。 「何時?」 「え」  振り返った俺に、窓を背にした伊織が眉根を寄せて不機嫌そうに「部活終わるの何時なの?」と聞いてきた。 「六時には終わる!」 「……じゃあ、六時に昇降口な」  そう言って伊織は委員会で使うプリントをカバンにしまうと、俺の目の前を横切るようにして歩き出した。テスト前最後の部活動の日だったために、いつもは置きっ放しにしている教科書たちが俺のリュックには詰め込まれていて、肩紐からその重さがダイレクトに伝わってくる。それでも、不思議と先ほどよりは軽く感じられ、俺は伊織を追いかけるように足を速めた。 「また後でな‼」  教室の出口まで肩を並べた俺は、そこで伊織と分かれた。  広げた傘に雨の弾ける音が響く。  中学入学と同時に広がり始めた俺と伊織の身長差は、一年も経つ頃には遠目にも明らかなほどになっていた。  当然のように俺が傘を持とうとしたのに、伊織は頑なに譲ってくれなかった。 「なぁ、俺が持った方が良くない?」 「別に大丈夫」 「でも、ほら、俺の方が入れてもらってるわけだし」 「別にそんなのいつもじゃん」 「……そうだけど」  背の高さも、体つきも、お互い少しずつ変わってきていて、中学生のそれはとても自然な変化だったから、どうということはなかったのだけど、なんとなくそれを口にすることはできなかった。 「テスト大丈夫なの?」 「え」 「え、って。もう一週間前だってわかってるよね?」 「……それはわかってるけど」  俺はテスト日程を忘れるほど呑気な性格ではなかったが、部活が休み期間に入る頃になってようやく教科書を持って帰るくらいの余裕のなさではあった。  一年ちょっと前までは二人ともランドセルを背負っていて、同じような背格好だったし、成績だって今ほど差はついていなかったのに。 「明日から部活ないんでしょ? また、(うち)でやる?」 「‼ やるやる! よし、これで母さんに怒られないですむ」 「勉強するんだからな」 「わかってるよ」  ――いつもと同じ帰り道。  少し日は延びていて、雨の中でも夜の暗さはまだ薄かった。  足元の水溜りをよけながら、歩幅を合わせて進んでいく。  ――隣には伊織がいる。  半袖のシャツから伸びる腕は俺よりも細くて、柔らかな髪とともに視界の端に入り込む。  小さく響き続ける雨の音が会話の合間を埋めていて。  伊織の傘は大きくも小さくもなくて、二人で一緒に入るには少しだけ狭い。  触れそうで触れない距離に、雨に濡れたアスファルトの匂いと伊織のニオイが混ざり合う。  気づけば、反対側の伊織の肩は濡れていて、白いシャツは透けていた。 「!」  とっさに俺は無理やり伊織の手から傘を奪い取った。 「え、ちょっと大和?」 「いいから。いい加減疲れただろ」  そう言いながら俺は傘の先を傾ける。  なんて事のない、日常のワンシーン。  映画にも漫画にもなりはしない、当たり前に過ぎていくような時間。  だけど……俺の胸は苦しくなっていた。  例えようのない痛みと、不思議なほどの幸福感と、泣きたくなるくらいの切なさと、体の奥で生まれてしまった熱の塊。  ――その時、唐突に自覚した。  これは俺にとっての『普通』ではないと。  これは俺にとっての『特別』なのだと。  ――俺は伊織が『好き』なのだと。    *  どんなに時間が経っても、その場面を忘れることはできなかった。  何度再生されても、擦り切れることも、色褪せることもない。  その瞬間の痛みまではっきりと蘇る。 「……」  触れたいのだと。  感じたいのだと。  できることなら、もっと深く繋がりたいのだと。  そう気づいてしまって、俺の胸は余計に苦しくなった。 「……誕生日おめでとう、伊織」  先ほど送ったスタンプに乗せた言葉をそっと口にする。  ――こんな俺の気持ちを知ったなら、伊織はなんて言うのだろう?  好きでも、愛してるでも、そんな言葉なんかじゃもううまく説明できないほどに想いは大きく膨らんでいて、一人では抱えきれないほどに重くなっているのだと、そう伝えたとしても……それでも伊織は俺のそばにいてくれるのだろうか?  ――伊織はどう思っているのだろう? 「……伊織は」  伊織はこんな俺を知っても変わらないでいてくれるのだろうか。  ただ触れるのでさえ、俺はもう簡単にはできないかもしれない。  会いたい。  早く会いたいのに。  少しだけ会うのが怖い。  そんなふうに思うのは、初めてだった。 「なんか、緊張してきた……」  そわそわと落ち着かない。  たった数時間がとてつもなく遠くに感じる。  だけど、触れてしまったらあっという間に過ぎてしまう気もする。  来て欲しいような来て欲しくないような複雑な心地。 「あー、もう寝よう」  部屋のライトを消すと同時にベッドに体を倒れ込ませた俺は、自分の中で膨らんでいく熱を抑えようとぎゅっと瞼を閉じた。  気づかないうちに、雨の音は少しだけ遠ざかっていた。

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