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『エピローグ』side伊織
一度、その味を知ってしまったら。
一度、その快感を知ってしまったら。
一度でも触れてしまったなら、求めずにはいられない。
――もう二度と、知らなかった頃には戻れない。
知らなければ。知らないままでいられたなら。
失う怖さなど知らずにいられたのに。
触れられない苦しさなど気づかずにいられたのに。
俺たちには……そんなの無理だった。
失う怖さよりも、知らずに離れるほうが嫌だった。
何も知らずにいる幸せよりも、すべてを知って傷つくほうがいい。
痛みも苦しみも、お互いから受け取れる全部を抱えていたかった。
忘れたくないから。
もう一度、触れられると信じていたいから。
*
――うん。約束する。
そう口にした自分の言葉が自分の奥を揺らした。
優しく触れられる熱に、溶けていく想いに、消えることのない寂しさが余計に広がっていく。
あの日の大和の熱にもう一度触れたいと、いつの間にか求める自分がいた。
掴まれた手首の痛み。背中で軋むソファの感触。泣きそうな顔で触れてくる大和。一瞬だけ感じた恐怖。今はそれさえも欲している自分がいる。
いつでも自分を大切にしてくれる、優しく接してくれる大和ではなく。
もっと自分だけしか知らない大和を見たかった。
どんな感情でも、大和が俺に向けてくれるものなら何でもよかった。
言葉よりももっと確かなものが欲しいと言ったなら、大和はどうするだろうか――?
一度、触れてしまった熱が。
一度、揺れてしまった奥が。
膨れ上がった寂しさに押し出された。
「……お願い?」
戸惑いを隠せずに揺れる声。ほんの少し首を伸ばせば簡単に重ねられる距離。
声よりも。音よりも。空気を震わせる温度が先に触れてくる。
無意識に掴んでいた大和のシャツから指を離し、自分の顔に添えられていた手へと持っていく。自分よりも大きくて太い指に重ねれば、少しだけ低い体温が手のひらから伝わってくる。
「大和、お願い。お願いだから、俺のこと傷つけてもいいから、だから……」
悲しかったわけじゃない。寂しかったけれど。それだけじゃない。胸の奥から溢れてくる感情は言葉ではもううまく表せない。熱くて苦しくてたまらなくて。
どうしてこんなにも震えているのか。
どうしてこんなにも涙が流れるのか。
自分でもわからなかった。
わかるのは――触れたいという想い。触れてほしいという欲。
どうしたらもっと大和に触れられるのだろう。
どうしたらもっと大和と深く繋がれるのだろう。
もっと……と、求めてしまう自分に自分でも戸惑うけれど。
それ以上に、どうしようもないくらいに、熱は全身へと回っていた。
「……」
大和が次に見せた表情に一瞬、息が止まる。
瞳の奥に同じ熱が映ったのを感じて指先よりも胸の奥が震えた。
手を伸ばしてよかったのだろうか。間違えてはいないだろうか。
残っていた不安に大和も手を伸ばしてくれる。教えてくれる。
同じように不安なのだと、怖いのだと、それでも自分も欲しいのだと。
伸ばし合った手が触れる。触れた先から求め合う。握り合う力が引き寄せ合う。
距離が消えたその瞬間――静かな室内に少し乱暴な音が響いた。
ガチャガチャ。
「「!」」
ふたり同時にリビングの扉へと振り返り、飛び跳ねるようにソファの端と端に座り直した。
「ただいまー」
廊下の奥が明るくなり、母さんの声が玄関から飛んでくる。
「お、おかえり」
「お邪魔してますっ!」
リビングに入ってきた母さんに俺と大和はほぼ同時に口を開いた。
わずかに揺れてしまった俺の声は、大和の大きすぎる声と深すぎるお辞儀に掻き消された。
いや、ちょっと、不自然すぎるでしょ。
振り返れば頭を下げたままの大和の耳が赤くなっている。
母さんの気を大和から逸らすべく、いつもより声を響かせる。
「あ、あー、あのさ。今日まだ夕飯できてないから買ってきてもいい?」
俺の言葉に母さんはパチパチと少し驚いたように瞬きを繰り返し、小さく笑った。
「じゃあ、今日は外食にする?」
「いや、今ならまだ角のお弁当屋さん間に合うから、そっち行ってくる」
「そう?」
「うん。今のうちに食べておかないと、食べられなくなるし」
隣でビクッと大和の肩が揺れ、ゆっくりと顔が上げられる。
また寂しさを滲ませていたら……と心配したけれど、大和は「あ、じゃあ俺そろそろ帰ります」と母さんに小さく笑った。さっきまでの赤色はもうどこにも残ってはいない。今までのやりとりすべてが幻だった気がしてしまうほどに大和はいつも通りに見えた。
「気をつけてね」
母さんに見送られ、俺と大和は部屋を出た。
エレベーターを待つ間、大和は何も言わず、俺の方を見ようともしない。不自然なほど顎を上げている。
「大和?」
目の前の扉が開き、足を踏み出したタイミングで声をかければようやく視線が繋がった。
「……」
ガタ、と小さな音と振動が空間を密閉する。ゆっくりと降りていく箱の中、大和が「……焦ったぁ」と息を吐き出すと同時にしゃがみ込んだ。
「いや、ほんと、もうちょっと遅かったらやばかったんだけど……」
両手で顔を覆う大和を見下ろせば、太い首がじわりと赤みを増していく。
定員六名の狭いエレベーター内にふたりだけ。
もうすぐ一階に着く、そのタイミングで敢えて口を開いた。
聞こえても聞こえなくてもどちらでもいい、と思いながら。
「大和」
「ん?」
「――、な」
「え」
俺の言葉は見事に到着を知らせる音に被った。
振り返った大和の顔がぶわりと赤くなったのを見て、聞こえたのだとわかったけど。
*
――また今度、な。
そう言ってから、約一か月半。
時間はあっという間に流れていった。
期末試験に引っ越しの準備。アルバイト先の引継ぎなどを俺がしている間、大和の生活は部活一色になっていた。
「もう無理」
電話越しに弱音を吐いたかと思えば、次の瞬間には睡魔に耐えきれず寝息を立てるのが聞こえる。大和が毎日どれだけ頑張っているのかそれだけで十分に伝わってくる。夢の中にいる大和が「ん」とこぼした息の中で「伊織」と呼んだのが聞こえたのは、たぶん気のせいではないだろう。どんなに疲れていても、途中で力尽きてしまっても、それでも大和は毎日欠かすことなく連絡をくれた。
離れても何も変わらないのだと確かめるように。
「……おやすみ」
そっと笑ってやれば「う、ん……おやすみ……」とふにゃふにゃした声が返ってくる。
普段の大和からは想像できない声に、思わず胸の奥がくすぐったくなった。
それから大和が寝落ちる度、俺はわざと声をかけ続けている。
――夏休みも二週間ほど過ぎた、引っ越し前日。
一日早く母さんを父さんのもとに送り出した俺は、廊下に並んだ段ボール箱を静かに振り返る。
明日にはここを離れるのだと今さらながらに実感して、ぎゅっと痛み出した胸を押さえる。寂しさは消えないけれど。不安がないと言ったらウソになるけれど。
玄関に置かれた黒いスニーカーが視界に入り、自然と息は漏れた。
「……大丈夫」
落ちた言葉が胸の奥に触れて温かく響く。自分に言い聞かせるためでも、無理やり納得するためでもない。今は自然と信じることができる。大丈夫だと思える自分がいる。
あと一時間後には、隣に同じデザインのスニーカーが並ぶのだろう。
――大和はどんな顔で現れるだろうか。
久しぶりに会えて嬉しさを隠せない大和も、明日には離れ離れになることを意識して寂しそうに笑う大和も、「今度」の約束を果たそうと緊張して変な顔になっている大和も簡単に想像できる。想像できて、思い浮かんだ先から全部愛しく感じる。
早く、会いたい。
早く、触れたい。
心臓が駆け出す準備を始めるのを感じながら、息を吸い込んだ俺は廊下の奥へと足を向けた。
不安も緊張も。寂しさも悲しさも。怖さも痛みも。
「……伊織」
大和が俺を呼ぶ度に、重なり合う感情は溶けていった。
大和の声が自分の名前を形作る度に、溶けた感情は喜びに変わっていった。
「……伊織」
繰り返される呼びかけに愛おしさが増していき、苦しささえ忘れたくはないと思えてしまう。そんな自分に驚き、そんなことさえ嬉しく思いながら、駆け出す心臓に震える呼吸の中で問い返す。
「ん?」
「好きだよ」
その言葉だけで。たった一言だけで。胸が痛いくらいに苦しくて。泣きたくなった。
「……俺も大和が好きだよ」
気持ちが溢れていく。もう戻れない。戻れなくていい。
絡めた指の温度さえ、もうどちらのものなのかわからない。
ずっと触れていたい。ずっと触れていてほしい。
どれだけ肌を重ね合わせても越えられない境界線がもどかしかった。
互いの体を形作る輪郭さえ熱で溶けてしまえばいいのにと、ひとつになってしまえればいいのにと――強く思った。
こんなにも苦しいのなら。
こんなにも熱くなれるのなら。
もう二度と離れられないようにしてほしい。
「伊織」
耳元で吐き出された息が鼓膜に触れたのは音ではなく、熱だった。
重ねた唇の熱さに思考が奪われていく。
張り詰めていた糸が切れるように。絡まっていた糸が解かれるように。
体が快感へと傾き出す。
繋ぎ止めるものが緩まっていく。踏み留めていたものが消えていく。
理性も恥じらいも、大和の熱に塗り替えられていく。
「……っ」
――言葉にはならなかった。
駆け抜けた熱を追うように悦びだけが体を満たしていた。
「……伊織?」
そっと呼びかける大和の声に視線を上げる。
ドクドクと心臓が主張する音は消えていない。意識はどこかふわふわとしていて全身を心地いい疲労感が覆っている。一瞬空っぽになった体の中に広がった熱はまだ残っていた。
「大丈夫?」
つくられた隙間を埋めるように俺は腕を伸ばす。大和の背中に触れている手のひらから汗が滲み込んでも、エアコンの風に冷やされても、離れたくなくて。ぎゅっと抱きしめてしまう。触れ合う肌が温かくて、どうしようもなく愛しくて、どうしようもなく寂しかった。
もっと触れられたなら。
もっと深く繋がれたなら。
大丈夫なのだと思っていた。これで大丈夫なのだと、そう思っていたのに。
今この瞬間に起きていた出来事のすべてがいつでも俺たちを「ここ」に戻してくれるのだと、そう思っていたのに。
「――知らない方がよかった」
「え」
「やっぱ、やめておけばよかった」
「え、ちょ、そんなに俺ダメだった!?」
腕の力を跳ね返し、顔の横に立てらえた腕の長さの分だけ、視線が落ちてくる。
泣きそうな顔で見つめられ、離してしまった手を自分の顔へと持っていく。どれだけ隠しても耳の先まで赤くなっているのは見つけられてしまうだろうけど。
「……そうじゃなくて」
「伊織?」
「こんなの、もう、我慢できなくなる」
「え、それって……」
戸惑いよりも笑いを含ませた声が触れて、堪えきれずにもう一度手を伸ばした。
「会いに来いよな」
「伊織も。帰って来いよな」
両手で包み込んだ大和の顔は笑っていた。
それだけで、また――溢れてしまう。
「大和」
「ん?」
映し合う瞳に互いの姿を見つけて胸が苦しくなる。
「あのさ……やっぱ、もういっ……ん」
唇の先を触れ合わせたまま大和が言葉を落とす。
「一回でいいの?」
「え」
「俺は何度だって、伊織に触れていたいよ」
「大和……いや、俺、明日飛行機……ん」
「大丈夫。俺も明日部活だから」
肌に触れた息の熱さに、ドクン、と心臓が跳ねる。
「大丈夫じゃな、ちょ、待っ……」
「待てない。煽ったのは伊織だろ」
トクトクと駆けだしてしまった鼓動はもう、どちらのものなのかわからなかった。
「……俺まだアイス食べてないんだけど?」
「明日でもいいじゃん」
首に触れた熱に体が反応する。
あー、もう……。
「……優しくしろよな」
声だけどうにか低めてみせたものの、大和は困ったように笑うだけだった。
「……善処します」
落とされた言葉に思わず笑ってしまった俺の視界の端、枕元に置いていたふたつのスマートフォンが映り込む。並んだスマホリングの丸い影はシーツの上に重なっていた。
どうしてこれを選んだのか、その理由をまだ大和に話していないことに気づいたけれど。
口を開く前に柔らかな感触が降りてきて、声はもう出なかった。
本当はもう、あの時から俺は――。
*
お菓子の並んだカラフルな棚。流れる陽気な音楽。アトラクションを制覇するべく歩き回った足は少し重くて。お昼に食べたハンバーガーはまだ完全には消化されていなかった。
隣には大和がいて。手を伸ばせば触れられて、繋ぐこともできる。
まだ終わらない一日にふわふわと心が浮き上がり――幸せを実感する。
この旅行のもうひとつの目的を大和にはまだ伝えられてはいないけれど。
チクッと痛んだ胸に気づかないフリをして、目の前の箱を手に取る。
明日駅で買うという大和の言葉に、確かに母さんはこういうお菓子よりも地域の特産品のほうが喜びそうだなと思い直す。
もうひとりお土産を買うべき相手を思い浮かべ「何がいいだろうか」と考える。
冨樫って何が好きなんだろ? 真剣に考えたことなかったな。甘いものがダメっていうイメージはない。ココアとミルクティーで迷うくらいだし。クッキーなら無難かな。チョコレートのクッキーが描かれたパッケージを手に取る。でもこれじゃあ普通すぎ? もうひとつの箱を手に取り悩みだすと、すぐそばで空気が揺れたのを感じた。
「大和も一緒に選んでよ」
眉根を寄せて見上げるが、大和の口元は緩んだままだ。
「いや、冨樫ならなんでも食べそうだし、適当でよくない?」
適当って……。
「ほんと、大和って……」
ため息とともに動かした視線の先、大和の後ろに立っていた女の子が目に入った。制服姿の女の子は友達と声をかけ合いながら、スマートフォンを片手だけで器用に操作している。白い指に通されたちょっと太めの銀色。一瞬本物の指輪かと思ったけれどケースにつけられていたスマホリングだった。
先ほど見たお店にも似たようなものがあったことを思い出し、想像してしまった景色に胸の奥がキュッと縮む。
「……」
――大和みたいにはまだなれないけれど。
「?」
視線を追って体をひねった大和に、手に持っていた二つの箱を俺は押し付けた。
「なんでもないから、大和はこっち選んで」
「え」
「俺、ちょっとトイレ行ってくるから、その二つのうちのどっちがいいか決めておいてね」
「は? え、待っ」
戸惑う大和を置いて店のドアを押し開ける。柔らかな冷たさを肌に感じながら頭に浮かべた場所へと足を向ける。ほんの数分前の大和の言葉を思い出しながら。
――俺はどっか遠くに行く予定もないし、この先、伊織と離れるつもりもないけど。
「……」
言葉にできるほど強くはまだなれないけれど。
約束と言えるほど未来を信じられてはいないけれど。
それでも少しだけ想像してしまったから――。
「あった」
カランカランとドアに付けられたベルが音を鳴らし、温かな空気が体を包み込む。
思い浮かべた場所へと向かえば、記憶どおりに銀色の輪は並んでいた。
同じデザインのものをふたつ手に取りレジへと向かう。
――いつかこれがスマートフォンを手にしなくても輝き続ける本物に変わっていたら……。
想像してしまった景色を握り締め、まだ少し弾む息を吐き出した。
*
(『続*今日はなんの日』 おわり)
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