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『誕生日*翌々日』side大和(3)
――このまま離れたら、どうなるのだろう?
ずっと考えていた。
伊織が俺から離れることを選ぶとわかったときから、ずっと。
それなのに、何度考えても、何度想像しようとしてもうまく描けなくて。
頭では理解していても、感情が邪魔をしてしまう。
この寂しさは、一緒にいることに慣れてしまったから。
この悲しさは、そばにいられることを疑ってこなかったから。
――もしも、俺と伊織が幼なじみではなかったなら。
俺と伊織が出会うのがもっと先の未来だったなら。
もう一度、何も知らずに出会うことから始められたなら。
きっとこんな思いはしなかった。
すれ違う苦しさも痛さも気づかなくて。
離れる寂しさも悲しさも知らなくて。
ただ、惹かれ合うことから始められたなら――よかっただろうか?
気づかなければよかった?
知らなければよかった?
――そんなこと、本当は一ミリだって思ってなんかいない。
伊織を想う苦しさも。
伊織に触れる痛さも。
伊織と離れる寂しさも。
伊織といることで感じる悲しさも。
失くせるわけがなかった。手放せるわけがなかった。
こんなにも伊織の全部が愛おしいのに。
こんなにも伊織の存在を自分の中に感じてしまうのに。
結論は出ていた。
初めからずっとそこにあった。
「寂しい」と繰り返した言葉が重なるたびに不思議と胸の中は温められていった。
伝えたところで何かが変わるわけじゃない。
伊織が選んだ未来は伊織のもので、俺が進む未来も俺のためにある。
目の前にあるものが形を変えるわけじゃない。
それでもふたりで重ねた想いがなかったことにはならない。
ふたりはふたりでしかなくて。決してひとつになることはできないけれど。
どんなに同じ思いを重ねても。どんなに体温を溶け合わせても。混ざり合うことはできないけれど。だけど。だからこそ、こんなにも愛おしい。
――いつか……『ここ』にいたい。
伊織がいつかの未来に『ここ』を、俺の隣を選んでくれるなら。
今この手を離すことが、この先の未来に手を伸ばすことになるのなら。
伊織が諦めないでいてくれるなら。
それなら、俺ができることは――。
温め直したマグカップからは薄く湯気が上っていた。さっきまで冷えたコーラを飲んでいたのに、ここに座ると温かいコーヒーが欲しくなるのだから不思議だった。隣に座った伊織がズッと小さく立てた音にそっと視線を向ける。目の周りはまだ赤かったけれど、下げられた目尻は柔らかかった。
きっと今、自分も同じ顔をしているのだろうな、と思いながらマグカップへと手を伸ばす。少し苦さのある香りが鼻先に触れた時だった。
「大和がバスケを始めた理由ってなんなの?」
「えっ」
不意に落とされた言葉に、油断していた俺の声は不格好に跳ね、手元の黒い水面も揺れた。そんな俺の様子を見逃さなかった伊織が声を弾ませ、先ほどとは違う角度で目尻を下げた。
「さっき自分で言っただろ? バスケを始めたのは俺がいたからだって」
向けられた笑顔に、これは言わないとダメなやつ……と一瞬にして悟る。ここで「言わない」とはぐらかしても、きっとしつこく聞いてくるだろうし、誕生日のことを持ち出されたら何も言えないのは目に見えている。
ぐっと苦さを喉に流し込んでから、ローテーブルへとカップを戻した俺は、隣に座る伊織へと向き直る。まっすぐ視線を向ければ、伊織もからかおうと構えていた表情をわずかに強張らせる。
「……大和?」
「――笑わないって約束してくれる?」
真剣な表情を作って問えば、伊織も「うん」と小さく素直に頷いた。
「小学校三年のときに、俺が風邪で学校休んだの覚えてる?」
普通ならそんなの覚えていないだろう。風邪だって、学校を休むのだって、そんなに特別なことじゃない。だけど、俺が風邪をひいて休んだのは昨日を除けばその時だけだ。一瞬の間もなく伊織から「うん、覚えてるよ」と返ってくる。
それだけのことに嬉しくなり思わず頬が緩む……が、この後の展開を考えると、この小さな喜びも掻き消されるだろうな、とこっそり息を吐き出す。
「いや、俺もハッキリとは覚えてないんだけど、その寝込んでたときに夢を見たんだよ」
「夢?」
「夢ってほら、結構脈絡がないっていうか、前後がおかしかったりするし、起きたらすぐに忘れるから」
「どんな夢だったの?」
前置きを並べてどうにかダメージを最小限にしようと試みるも、あっさりと先を促される。絶対笑われるから言いたくない。言いたくないがここまできて引き返すこともできそうにない。それでもどうにか「俺はよく覚えてないけど、母さんが言うには」と言葉を強調してから話す。
「伊織が振り向いてくれなかったんだよ」
「――ん?」
「いや、だから夢に伊織が出てきたんだけど、いくら話しかけても振り返ってくれなくて、手を伸ばそうとすると遠くに逃げられて」
話しているそばから顔が熱くなる。なんでこんな夢の話を今になってしなくてはいけないのだ。小学三年生のときのことなんてもう時効だろ。
「それで――母さんが言うには――目を覚ました瞬間に『俺だってバスケくらいできる』って言ったって……」
「んん? なんでそこでバスケが出てくるわけ?」
「それは――」
あくまでこれはその頃の、伊織を好きだと自覚する前の、子供の頃の話だと自分に言い聞かせてから口を開く。
「伊織が桜川ばっかり見てたから」
「桜川? 待って。誰それ?」
この名前がすぐに通じない、という事実に少なからずショックを受けつつも、どうにか次の言葉を繋ぐ。
「あー、覚えてない? 当時流行ってたバスケットのアニメ」
「アニメ? バスケ、バスケ……あー、あれか」
すぐには通じなかったが、思い出してもらえてホッとする。こんなに一緒にいても全く同じにはなれないのだと改めて思い、それでも一緒にいた時間の存在を感じてくすぐったくなる。
「そう。そのアニメの主人公が夢に出てきたわけ。で、伊織は桜川とずっと喋ってて、俺のことには気づいてもくれないの。ひどいだろ?」
「……桜川ってさ、大和が好きだったキャラクターだよな」
「うん」
「でも俺じゃなくて桜川の方に嫉妬したってこと? 桜川と話したかった、じゃなくて俺と話したかったの?」
伊織に言われる今この瞬間までそんなふうに考えたことがなかった俺は「え」と文字を落として固まる。――え、あれ? そういうことになるのか? 伊織が一緒に遊んでくれなくて寂しかったって話じゃなくて? あれ? 嫉妬ってことになるの?
「……ふ、ふは」
固まり続ける俺に耐えきれず笑い出した伊織の声が静かな室内に響いた。
「まさか、今気づいたの?」
震えながら問われた言葉に、再び目尻に寄せられた涙に、俺は恥ずかしさよりも切なさで胸がいっぱいになる。笑われたくない、と思っていたはずなのに。隣で肩を震わせて笑う伊織を見ていたら、どうしてだか泣きたくなった。胸の奥が温かくて、痛くて――どうしようもないほどの愛おしさで溢れてしまう。もうすぐこんなふうに笑う伊織をそばで感じられなくなるのだと実感してしまう。
「そうだよ、そうだけど。でも、本当にそれがきっかけなんだよ」
「……」
「自分でもそんな夢で、って思うけど。でも、夢の中でさえ俺にとって伊織は大切で、大事な存在で、離れたくなくて」
いつから、なんてわからないくらい。伊織のことがずっと大事だった。
「たとえ夢でもバスケを始めたのは伊織が理由で、続けているのは伊織がずっと応援してくれたからで、それがあったからこうして今の俺がいるわけで、だから、だから……」
いつのまにか自分の一部になっていたバスケットが、そのまま伊織の存在を感じることに繋がっていて。どうしたって切り離せない部分がこうしてあるから、俺は先に進めるわけで。――ああ、そうか。バスケットを続けることも、この先を見て歩いていくことも、その全部が伊織に繋がっているのか。俺が俺であること、それ自体がもう伊織と生きていることになるのかもしれない。そんな大げさなことを思う自分に自分で笑ってしまった。
「……大和?」
傾けられた顔にそっと手を伸ばす。
「待ってるからさ。だから、約束してくれる?」
触れた頬が柔らかく指の形に沈み、伊織の高い体温がゆっくりと流れてくる。
「いつか、で構わないから。必ず『ここ』に、俺の隣にいてくれるって」
一度大きく見開かれた瞳がゆっくりと形を変えていく。水面に映された自分の顔に吸い込まれるように距離が近づく。
「約束」「必ず」付け足した言葉も、言葉でしかないけれど。それでも、もう一度聞きたかった。伊織の言葉を確かな形として残しておきたかった。
「――うん。約束する」
聞こえた声は耳に届くよりも前に、空気の震えを押し潰すように触れた唇から伝わってきた。混ざり合うのは息ではなく熱。溶け合うのは体温ではなく想い。触れ合わせることでしか繋がれないこの体がもどかしく、だからこそ愛おしい。体の中に生まれた熱は、高まりはしても勝手に駆け出そうとはしない。優しくしたい。大事にしたい。もう二度とあんなふうに伊織を傷つけたくない。今はただ――この想いが伝わればそれでよかった。
「……大和」
わずかなすき間に落とされる自分の名前。視界に映るのは白い肌を赤く染めた伊織の顔。胸の奥から溢れた愛しさは、もう全身に広がっていた。
繋げた視線の先、少しだけ不安を覗かせて伊織が小さく笑う。隠し切れない寂しさは触れたそばから包み込まれても、離れてしまえばすぐに戻ってくる。もう一度――と、顔を近づけるよりも一瞬早く、伊織が言った。
「俺のお願いきいてくれる?」
「……お願い?」
まっすぐに向けられる水面が揺れる。きゅっと握られたシャツ越しに感じていた体温が離され、伊織の顔に触れたままの俺の手に重なっていく。
柔らかな空気が変わり始める。
「大和、お願い。お願いだから、俺のこと傷つけてもいいから、だから……」
聞こえた言葉の意味を理解するよりも早く、俺の手を握った伊織の指先から震えが伝わってくる。赤くなった頬を静かに透明な雫が流れていく。
声は途切れ、最後は音になっていなかった。吐息に混ぜられて消えた音。直接聞こえたわけではない。ないけれど……。揺れ続ける瞳がまっすぐに俺を映しこめば痛いほどに伝わってくる。
「……」
寂しさに耐えきれなかったのは、俺よりも伊織の方だったのかもしれない。
――何が正解か、なんてわからなかったけれど。
――言葉では足りないのだと、伊織が言うのなら。
――それでこの寂しさが少しでも和らぐのなら。
俺は自分の中にある熱を確かめながら、静かに頷く。頷くことしか、できない。踏み越えられない線の向こうで伊織が手を伸ばしてくれるのなら、握らずにはいられない。
ただ伝わればいいのだと、願った想いのその先へ。
届くことが許されるのなら。
手を伸ばしてもいいのなら。
俺だって本当は――もっと触れたいと、もっと深く繋がりたいと、ずっと願っていたのだから。
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