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『誕生日*翌々日』side伊織(2)

 ふっと柔らかな息が触れた。温かなそれは小さな頃からずっとそばにあった。  ――俺の答えは変わらないけどな。  聞き慣れた大和の声が鼓膜を震わせ、体の奥へと入ってくる。  そこにあるのは、自分を守るためだけに張り巡らせた予防線と隠し続けた本音だった。  この幸せな時間もいつかは消えてしまうのだという諦め。  少しでも長く大和のそばにいたいという願い。  その時が来たなら大和のために手を離すべきだと言い聞かせる自分と、そんな時が来ないことを祈る自分。すべてを委ねる勇気はないくせに、離れる準備だけはしていて。それが大和を裏切っているのだという自覚もあるのに、矛盾した自分を正す方法を見つけられない。  それでも――そんな俺でも大和はその全部を『俺』として認めてくれるのだろう。 「うん、大和に聞いてほしい」  覗き合う互いの瞳に自分の顔を、相手と同じ顔を見つける。赤く擦れた目元も、寂しさを隠し切れないのも同じ。胸の奥にしまい込んだ想いを受け止めようと手を広げるのも、抱えきれないほどの熱が体を巡るのも同じ。ふたつの体はどんなに触れ合っても決してひとつにはなれない。なれないけれど――。 「うん」  背中へと回された腕にきゅっと力が加えられ、繋がっていた視線の先で大和が優しく笑った。  それは見慣れてしまった、当たり前に感じてしまうほどに馴染んでしまった景色。電源を落としているテレビの画面に映り込むふたつの影も、ローテーブルの上に並ぶふたつのマグカップも。左隣から感じる息遣いにトクトクと心臓が音を立てるのも、薄く汗の混じる柔らかな匂いも、そのすべてが俺の日常だった。  ――それを、まさか自分から手放すことになるなんて、思ってもいなかった。 「大和は自分のせいで俺たち家族が離れたんじゃないか、って言ったけど。一番の原因はどう考えても俺なんだよ」  俺が生まれたこと、俺という存在が父さんと母さんの生き方を変えたのは確かなのだ。 「それは」  大和の表情が変わったのを、声が揺れたのをそっと笑い返して押し返す。伝えたらきっと怒られるから言わないけれど、大和の反応に少しだけ嬉しさを感じる自分がいた。 「大丈夫だから。俺は大和みたいに意味のない後悔なんてしてないから。だから、そんな顔しないで」  意味のない後悔、と言われて大和がムッと口を閉じる。それでもこちらへと向けられる視線には不安が混じったままだ。俺は大和の中にある不安を少しずつ解いていく。 「生まれてこなければよかったなんて、思ってないから。思ってない……というよりはもう思えない。それくらい今の俺は欲張りだから」 「欲張り?」 「うん。やりたいことがいっぱいあって、手に入れたいものも、諦めたくないものもいっぱいある」  そのことに気づけたのは、全部目の前にいる大和のおかげだ。  ――ずっと自分が大切にされてきたのだとわかったから。    *  あの日――大和に自分が生まれた頃のアルバムの存在を指摘された日――仕事から帰ってきた母さんに俺は聞いた。  ――俺から母さんに聞くことなんて、きっとコレだけでいい。 「ねぇ、母さんは……」  そこで言葉を止めた俺を、母さんがハンガーにかけたコートを手にしたまま不思議そうに振り返った。 「ん?」  先を促すように小さく顔が傾けられ、向けられた視線はどこまでも柔らかかった。 「母さんは……母さんも、今でも愛してるの?」 「え?」  驚くように揺れた睫毛の奥で黒い瞳が丸くなる。 「父さんのこと、愛してる?」  当たり前に呼んでいた。別れてから十年も経つのに、父さんは母さんのことを「律」と一瞬のためらいもなく呼んでいた。それを懐かしく思うと同時に、そこに存在している愛情を感じ取ってしまったからこそ、俺は感情を抑えきれなくなった。 「え、伊織? 急にどうして、そんなこと」 「父さんは言ってたよ、今でも俺たちのことを愛してるって」  ――……僕は、今でも二人を……愛してるんだよ。  父さんの言葉が蘇る。悲しさを含んだ声。寂しさを滲ませた表情。そんな顔をさせたのは自分だということを忘れてはいけない。  俺が質問することに母さんはいつも正しい答えをくれる。すぐに返事をくれるときもあれば、ゆっくり時間をかけて俺にとっての正解を導き出してくれることもある。母さんが考えるのはいつも俺にとってどう答えるのがいいのか、それだけだった。  でも、今の俺が求めているのはそれじゃない。俺にとっての答えでも正解でもない。 「ねぇ、母さんは? 違うの?」  今、本当に聞きたいのは母さん自身の答えなんだ。    *  単純に子供を引き取るというだけなら、ここまで拗れはしなかっただろう。すべては俺に、俺を産んだ母親に、その実家にある。父さんはもう別れていたのだから、実際には「不倫」ではなかった。それなのに敢えてそういうことにしたのは、その方が、都合がよかったからだ。――母親の実家が俺を引き取ることを阻止するために。  すべては俺のためだった。俺の将来のため父さんも母さんも母親もこのかたちを選択した。望まれ、守られた俺自身の未来。だからこそ俺はこの先を自分で選択して生きなくてはならない。  ――伊織にそんなことを聞かれるなんてね。  小さく笑ったあと、母さんは言った。ハッキリと。視線を逸らすことなく。  ――ええ、今でも愛してるわ。  その瞬間に俺は自分の未来を、自分で決めた。  二人が離れなくてはならなかった原因が俺にあるなら、今度はこの先一緒にいられるキッカケになりたかった。もう今さら実の母親の実家が絡んでくるとも、昔の記者がやってくるとも思えない。両親が十年の歳月を俺のために使ってくれたなら、俺も同じだけ返したい。ほんの少しでもいいから、二人のために何かしたかった。  それが俺のワガママにすぎないのだとしても。 「きっと父さんも母さんも『これは私たちのことで、伊織が気にすることじゃない』って言うと思う。だけど、やっぱり俺も何かしたい。時間は戻せないし、失ったものはきっともう返ってはこない。だけど、もう一度始められることも、新しく手に入れられるものもきっとあるから」 「だから、行くのか?」 「うん。どれくらいの時間を一緒に過ごせるのかはわからないけど、少しでも三人で過ごせるなら。それを望んでいるのは俺自身だから」 「……そっか」  大和は小さく頷いたけれど、寂しさを隠そうとはしなかった。ゆっくりと静かに俺の言葉を、俺の気持ちを受け止めているのだろう。その優しさに俺の方が泣きたくなってしまう。自分で決めても、この寂しさをなくすことはできない。だからこそ、それだけではないのだと伝えたくて。笑ってほしかった。 「こうなったのは、大和のせいでもあるんだからね」 「え」 「――何もやらないで諦めるっていうのが出来ない、って大和が言うからさ」 「は?」 「俺まで何かしたくなったんだよ」  諦める方がラクなのだと思ってきた。期待しすぎないでいることが自分を守る方法なのだと思ってきた。そんな俺の隣で大和は、自分が傷つくことよりも、諦めることのほうが耐えられないのだと言い続けていた。  ――こんなの全部、大和のせいだ。 「だから、やりたいこと全部やろうって決めた」 「伊織……」  ――手放すことと、諦めることは違うのだと知ってしまったから。 「大和は?」 「え?」 「バスケ続けるの?」  言葉になる前の微かな息遣いが鼓膜に触れる。大和は驚きと戸惑いを混ぜ、複雑な表情のまま言葉を探していた。 「もしかして、なんか聞いた?」  その不安そうな声の響きに、自分からちゃんと話したかったのだという気持ちが伝わってきて、俺は小さく笑った。 「あんなところに置いてあったら誰でも気づくよ」  ――まだ寝ているから、と。起こさないように顔だけ見て帰るつもりだった。  そっと開けたはずのドアから響くキイという音ですら大きく感じるくらい静かな部屋の中。家に入った瞬間から感じていた匂いが一気に濃さを増す。視界に広がる景色は驚くほど違和感がない。並んでいる本や服などの中身は変わっていても、基本的な家具の配置は記憶にあるままだった。  右奥に置かれたベッドの上。眠っている大和の顔を見て、これなら大丈夫そうだな、と小さく息をついたときだった。ベッドのヘッドボードにそれは無造作に置かれていた。小さな長方形。大きく書かれた名前。その上に並ぶ文字。 「大学でバスケやるの?」  あの名刺にはここから電車で三十分ほどのところにある大学名が書かれていた。 「それは」  言葉を飲み込んだ大和の瞳が揺れる。 「もしかして迷ってるの?」 「いや、迷ってるっていうか……」  きょろきょろと視線を彷徨わせる大和に俺はため息をつきながら言ってやる。 「大和からバスケをとったら何が残るの?」 「え?」 「やりたいならやりなよ。続ける理由なんて『辞めたい理由がないから』で十分でしょ」  大きく見開かれた大和の瞳を覗き込みながら笑ってやる。 「ちょっと安心したんだよね」 「安心?」 「大和には大和の、俺には俺の未来がちゃんとあるんだなって」 「伊織……」 「俺さ、父さんの舞台観て、自分もやってみたいって思った」  一瞬驚くよりも先、傷ついたような苦しそうな表情が大和の顔をよぎる。それでもここで伝えないわけにはいかない。全部話すのだと決めたのだ。大和も聞くと言ってくれたのだから。  手の中にある、目の前にある「今」を手放しても、それでも掴みたい、進みたい「未来(さき)」があるから。そして、それは――。 「父さんのそばでもっといろいろ学びたいって思ってる」  逸らすことなく、離すことなく口にした言葉のすべては、いつかの未来に繋がっている。 「いつまで、なんて具体的には言えないけど。でも、それでも、いつか……」  ――戻ってくるから、じゃない。  ――帰ってくるから、じゃない。 「いつか……『ここ』にいたい」  ――『ここ』にいたい。  戻りたい、でも。帰りたい、でもない。俺たちは進むのだから。進んだ先を見ているのだから。かすかでも見えるのなら、望むことができるのなら……信じたい。  ――『ここ』に、大和の隣にいる未来を。 「伊織……俺は」  言葉を探す大和を俺は静かに見つめる。  見えているわけじゃない。でも、感じるのだ。  大和が俺の言葉を受け入れようとしているのがわかる。胸の奥、自分の中にある想いと混ぜ合わせていくのが伝わってくる。完全には溶け合えなくても、同じ色にはならなくても、ひとつにはできなくても、それでも必死に受け入れようとしているのが痛いほどにわかる、から。 「俺がバスケを始めたのは――伊織がいたからで、だから……」 「うん」  零れ落ちたカケラを受け止める。一滴も逃さないように。 「伊織が俺を応援してくれたように、俺も伊織のことを応援したいって思ってる」 「うん」  ――ポツポツと降り始める雨のように。 「伊織を好きな気持ちは変わらないし、いつまででも待ってる」 「うん」  ――ゆっくりと沁みていく。 「でも……」 「うん」  零れたカケラから、そっと大和が顔を上げる。 「それでもやっぱり、伊織がいなくなるっていうのが、よくわかんなくて」 「うん」  震えていく大和の声を聞きながら、俺は頷くのを繰り返す。 「どうしても離れたくないって思う自分もいて」 「うん」  繋がった視線の先で、ふっと細められた目の端から溢れ出す。 「……っ」  歪められたのはほんの一瞬。 「――寂しいなぁ……」  次の瞬間には、大和は笑っていた。 「……うん」  胸が痛くて。鼻の奥が痛くて。体の内側が熱くて。目の奥が熱くて。どうしようもないほど寂しい。大和の零した言葉が今の俺たちの全てだった。  どんなに言葉をつくしても、どんなに未来を見ても、今を生きている俺たちはどうしたってこの寂しさから抜け出せないし、この先も消えることはきっとないのだろう。  視界に当たり前に映せなくなるのは、自分の名前を呼ぶ声が遠くなるのは、当たり前に触れていた匂いも、体温も、息遣いも感じられなくなるのは、やっぱり――寂しい。 「……寂しいね。大和」 「うん、寂しいな。伊織」  再び赤くなった目元にふたりで笑って、止まらなくなった涙をお互いの指で拭って、それでもちっとも追いつかなくて、どうしようもなくて、泣きながら笑う自分たちの声で雨の音は聞こえなくなっていた。   

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