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『誕生日*翌々日』side大和(2)
リュックから取り出したペットボトルの表面を水滴が流れていく。目の前のテーブルに置かれたふたつのグラスには氷が入っていた。一昨日の夜に飛び出した時と変わらない部屋の中、そこだけがいつもとは違った。
「開けるのちょっとこわいな」
どう話を切り出そうか迷ううちに俺の置いたペットボトルを伊織が持ち上げた。赤いラベルと伊織の白い指が視界を横切る。バクバクと不安定に打ち続ける鼓動に自然と視線は下がっていく。テーブルの上に残された小さな水たまりを見つめる俺の耳には降り続いている雨の音が遠く響いていた。
――伊織に話をするのだと、そう決めたのは自分なのに。
キュッと蓋が回る音に続いてシュワシュワと炭酸の泡が出口へと向かう音。溢れ出す前にと傾けられた先、氷の間を黒い液体が気泡を含みながら落ちていく。透明なグラスへと注がれた液体はふたつの色に分かれる。パチパチと弾けながら白くはない泡がゆっくりと消えていき、氷を揺らすコーラだけが残された。
「なんか久しぶりに飲むかも」
同じように注がれたもうひとつのグラスを前に伊織が小さく笑う。軽く眉根を寄せた見慣れたその表情に、俺の中から少しだけ力が抜ける。
「……なんでコーラ?」
コクン、と伊織の喉が動き、グラスから離された唇が動く。
「好きなんでしょ? コーラ」
「え」
「昨日お見舞いに行ったときに聞いたよ」
「あ、あー……」
『お見舞い』という言葉に冷蔵庫に入っていた白い箱を思い出し、胸の奥が痛くなる。
「なに? 俺になにか言われるとでも思ってたの?」
少し意地の悪い笑いを零した伊織の手の中で炭酸の泡はまだ微かに弾け続けている。
「言うだろ? 伊織なら、さ」
――伊織なら。
消えていく炭酸の泡のようには収まらない鼓動を抱えたまま、俺は何度も呼んできた名前を口にする。頭で考える必要なんてないほどに呼び慣れてしまった名前は一瞬にして溶けていく。空気の揺れも、鼓膜の振動ももう知覚できないほどに馴染み過ぎていた。当たり前に触れてきたから。伊織がそばにいることが、伊織の声を聞くことが、伊織の名前を呼ぶことがあまりにも俺には身近すぎて、それがなくなるかもしれないというのは、自分の一部を削り取られるくらいの痛みだった。
「まあ『そんなにいっぱい飲んでもいいの?』くらいは言ったかも」
「だろ?」
こんな他愛ないやり取りすらできなくなるのだろうか。会えなくなるのなら……いや、会えなくなるからこそ言っておかないといけない。どんなにひどい奴に映っても伊織にはそのままの俺を見てほしかった。ズルさも弱さも俺のことを全部知ってもらったうえで、聞きたかった。
――それでも、好きでいていいか? って。待っていていいか? って。
その答えをもらうためには、今の俺が知ってしまった事実を伊織にちゃんと話すべきだろう。俺は飲み慣れた、伊織の前では飲まないようにしてきたコーラを一口飲み込んでから口を開いた。
記憶はとても曖昧だった。
幼稚園に通っていたのなんて十年も前のことだ。それでも思い出せるものからひとつひとつ言葉に変えていくしかない。「椿晴臣」という名前を尋ねられたこと。その人が大きなカメラを持っていたこと。幼かった俺が聞かれるままに答えてしまったこと。その内容まではよく覚えてはいないこと。それでも――。
「おじさんが言ってただろ? 厄介な記者に目をつけられたって。それってさ、俺が会ったひとなんじゃないかって」
「――それで?」
炭酸の抜け切った液体、その表面に映る自分の顔だけを見ていた俺に、伊織の声が落ちてきた。表情を確かめることはできない。聞こえた声はただ続きを促すだけで、なんの感情も感じとれなかった。
「それで、だから……俺のせいなんじゃないかなって。伊織たち家族がバラバラになった原因を作ったのは、キッカケを作ったのは俺だったんじゃないかって、だから……」
胸の中にしまい続けた不安を、くすぶり続ける苦しさを吐き出したなら少しは息が吸える気がしていた。
――俺は伊織に話すことで自分がラクになりたかっただけなのかもしれない。
伊織に打ち明けて、伊織にすべてを委ねて、本当にそれが伊織のためなのだろうか。俺がただ重荷を下ろしたい、赦されたいだけなのではないだろうか。
どれだけ話しても、どれだけ言葉に変えても吐き出したそばから自分の弱さを自覚させられる。伊織の顔を見ることができなくなっていく。
「大和」
丁寧に静かに呼ばれた自分の名前に反射的に視線が上がった。
伊織はまっすぐ俺を見つめていた。
「大和って……」
どんな言葉が続くのかわからず、目を逸らしたくなる。けれど伊織の視線が、その先の瞳がそれを許してはくれない。
「バカなの?」
ちっとも予想していなかった言葉に、一瞬何を言われたのかわからなくなる。
「何それ。そんなことで悩んでたの?」
――そんなこと。
悩み続けたことを、ようやく打ち明けられたことを「そんなこと」とあっさり返されて思わず声が跳ね上がる。
「そんなことって」
「そんなこと、だよ」
伊織の静かな声とまっすぐな視線の強さに言葉は続かなかった。
「じゃあ言ってあげるけど。今さら大和がそれを後悔してなんになるの?」
「それは」
それは、そうかもしれないけど。でも――。
「ねえ、大和。そんな昔のことじゃなくてさ、ちゃんと今を見てよ」
「い、ま」
「うん、今。俺たち家族はもう一度やり直せることになった。それがすべてだと思わない?」
自分の鼓動とお互いの声しか聞こえていなかった空間に窓の向こうの雨の音が戻ってくる。息を詰めるように張りつめていた静かな空気がふわりと消えていく。呆れた表情の中でどこか安心したように伊織が小さく笑った。
「確かに一度離れたよ。もしかしたらそのままだったかもしれない。でも、こうしてもう一度繋がれた。それも事実だから」
水滴を流すグラスの表面よりも冷たくなっていた指先に、そっと熱が触れる。
室内だと俺より高くなる伊織の体温が、固くなっていた俺の中に沁み込んでくる。
重ねられた手の白さが視界の端で霞んでいく。
「……」
「それは全部、間違いなく大和のおかげなんだよ」
苦しくて、こわくて。たまらなかった。
言わないでおけばいい、とズルい自分が叫び続けていた。それでもと踏み出したくせに今度はそれさえも自分の都合だったのではないかと思って、どうすればよかったのか、何が正解だったのかわからなくなった。
伊織に赦されなくても……なんて、本当はちっとも思ってなんかなかった。赦されたかった。好きでいてほしかった。こんな俺でも受け止めてほしかった。伊織の幸せを奪ったかもしれない自分がそれを口にするのは違うだろうと、そう思っていたけど、本当は――。
「もしも俺たち家族がバラバラになった原因の一端が大和にあるとしても、まあそんなのないに等しいんだけど。あるとしても、こうして繋ぎ直してくれたのも大和なんだから、それでいいんだよ」
「……っ」
唇の先を噛みしめても込み上げるものはおさまらなかった。胸だけでなく鼻の奥も伊織を映しているはずの両目も痛くて熱くて仕方なかった。
「大和がどうしても自分を許せないなら、俺が何度だって言ってあげる」
カタン、と椅子が床を擦り、伊織が立ち上がる。
手に触れている熱はそのままに、もう一方の手がゆっくりと伸びてくる。
柔らかな肌の感触が頬に触れ、伊織の指先が濡れていく。
「ありがとう、大和。俺たち家族をもう一度繋いでくれて、やり直す機会を与えてくれて」
ぼやけていく視界の中で笑ってくれた伊織が、俺と同じように泣いているのだと分かったらもう言葉は何も出てこなかった。
「大和がどう思おうと、俺も母さんも、父さんだって、大和に感謝してる。それだけは変わらないから」
「……伊織、ごめん。ごめん、伊織」
「だから、なんで謝るんだよ」
掠れた声にふわりと緩まった笑いが混ぜられたのが顔を見なくても伝わってくる。
「大和」
呼ばれた名前に答えたくても胸の奥から湧き上がり続ける震えが止まらない。頬を伝う熱を止めることもできない。ふっと触れていた体温が離れるのと同時に、空気が動くのを肌で感じる。ぼやけてしまった視界でも伊織がこちらに近づいてくるのがわかる。
ズッと洟をすする音が間近で聞こえ、柔らかな匂いが濃さを増す。再び伸ばされた伊織の両手が顔に触れると同時にピリッと痛みが走った。
「痛 っ」
つねられた痛みに反射的に顔を上に向ければ「タオルあとでいいよね?」と同じように目元を赤くした伊織が言った。
「え、な」
聞き返そうと開きかけた口から飛び出すはずだった言葉は、重ねられた唇の奥へと飲み込まれた。
「ん、……っ」
見開いた目には閉じられた白い瞼しか映らない。流れ込んでくる温度の高さに、重なり合う無防備な柔らかさに息が止まった。
体の中へと落とされた熱が――ずっと俺の深いところ、心の奥底へとたどり着く。
その場所にあるのは、伊織と思いが通じたあの時に俺がしまい込んだ醜い本音。
――俺と一緒に傷ついて、伊織。
言葉にする必要なんてきっと初めからなかった。
溶け合う熱が、体の内側から教えてくれている。
――もうとっくに叶っていたのだ、と。
一緒に傷ついて、一緒に触れ合って、一緒にここまで来たからわかってしまった。
俺は目の前の細い体へと腕を回す。
ビクッと小さく震えた伊織が唇を離した、その瞬間。
「伊織」
小さく揺れる呼吸を重ね合わせたまま、俺は言った。
「伊織の話、聞かせてほしい」
「大和……」
「今度はちゃんと聞くから」
「……」
「まあ聞いても、俺の答えは変わらないけどな」
ふっと吐き出した息に零れた震えは不安ではなく、安堵だった。
この先も俺は伊織を好きでいる。伊織を待ち続ける。それしか答えはないのだとわかったから。
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