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『誕生日*翌々日』side伊織(1)

「伊織!」  教室に響いたその声に、振り向く前から誰が来たのかわかってしまった。  授業前のざわめきなんて気にせず放たれた声はまっすぐ俺の中へと突き刺さる。  たった一日。  大和に会っていなかった時間はたった一日だった。  それでも大和が呼ぶ俺の名前が、何度も聞いてきたはずのその音が、どうしようもなく俺を揺さぶる。まだ学校の中なのに。まだ授業もあると言うのに。たったそれだけのことで、どうしようもなく泣きたくなった。  ――大和から会いに来てくれるなんて思っていなかったから。  俺から会いに行こうと決めていたのに。  溢れそうになる想いを押し込めて唇の先を噛む。ゆっくりと動かした視界の中、大和がこちらへと近づいてくる。クラスメイトのほとんどが自分の席へと向かう中で大和だけが俺の方へと歩いてくる。繋がった視線の距離は1メートルほど。大和が口を開いたのと、大和が入ってきたドアとは反対のドアが開かれたのは同時だった。 「あ、あのさ」 「もう授業始まるぞ。教室戻りなさい」  大和の声は本鈴前に入ってきた先生の声に掻き消される。 「うわ」  教卓側へと振り返った大和が思わずこぼした声に周りのクラスメイトがクスクスと静かに笑い出す。緩まった空気の中で俺の心臓だけが固く締め付けられる。 「あー、岡ちゃんの授業だったか……」  黒板を背に立っている英語の岡先生は時間をきっちり守る先生だった。本鈴と同時に授業を始めるので、教室にはいつも早めに現れる。時間を無駄にするやつは嫌いだ、というのが口癖。厳しいところもあるけれど、授業の終わりが伸びることもない。必ずチャイムと同時に終わらせてくれるので、生徒からの人気は高かった。 「本鈴まであと二分だから、早く戻りなさい」  岡先生からの再度通告に大和はおとなしく「はい」と答えて、俺のほうへと視線を戻した。困ったように小さく笑ってから「またな」と口だけを動かし、早足で出口へと向かう。俺は遠ざかっていく背中を追いかけることも、手を伸ばすこともできない。この状況で動きようがないとも言えるけど、でも。  廊下へと曲がるその一瞬、大和の視線が俺に向けられる。  繋がったその瞬間を逃したくなくて。会いに来てくれた大和の気持ちを受け止めたくて。大和が何かを言いかけるその前に。俺は伸ばせなかった手を声に託した。 「今日、待ってるから」  言えたのはそれだけだった。  それだけだったけれど。  大和にはちゃんと届いたのだろう。ホッとしたように笑ってから駆け出していった。  小さくなっていく大和の足音に重なるように五時限目の始まりを告げるチャイムが鳴った。 「授業始めるぞ」  岡先生の声に午後の緩んだ空気がピリッと引き締められる。  教科書をめくる音が落ち着いた瞬間に俺の耳が捉えたのは、先生の声ではなく窓ガラスを叩く雨音だった。  視界の端を流れていく雫に、灰色がかった景色にそっと息を吐き出す。  ――大和は傘を持っているだろうか?  隙間から流れ込む雨の匂いが鼻に触れ、手にしていたシャープペンシルに自然と力が入る。  もう二度と。  大和をひとり雨の中になんて行かせないから。  体育館へと続く渡り廊下は外廊下なので雨を避けるものは屋根しかなかった。壁のないこの場所を風が通れば自然と雨も吹き込んでくる。白いコンクリートの地面には灰色のシミが広がっていた。風の唸る声。屋根を叩く雨音。地面で跳ね返った雫が作り出す水たまり。肌に触れる温度の高さ。むわりと漂う濃い緑の匂い。梅雨特有のじめっとした空気が俺の体を包み込む。  好きにはなれないこの季節を。  受け止められるのは、この雨を嫌いにならずにいられるのは、きっと……。  腕時計に視線を落とせば、大和がいつも部活を終える時刻まではあと十分ほどだった。  ゆっくり呼吸を確かめながら俺は足を進める。強まった風に引き連れられた雨粒が前髪を濡らし、頬を撫でていく。その冷たさが今は心地よく、敢えて避けることもしなかった。吸い込んだ空気に膨らむ肺の中が雨で満たされる。  本当は怖かった。会いたい、と思いながらもどこかで会ってはもらえないかもしれないと不安だった。振り払われた痛みを忘れられたわけではなかった。それでも伝えなくてはいけないから。聞かなくてはいけないから。  ――約束を、したいから。  痛みも不安も消えたわけではない。それはきっと大和も同じだったはずで。いや、俺よりもひどく傷ついたはずで。それでもたった数分、十分な言葉も交わしきれなかった、あの数分が俺の背中を押した。ひとりで踏み出すはずだった場所に、決してひとりではないのだと教えられる。教えられたから、抑えきれない。  三分の一ほど開けられた扉からボールが床を弾む音とバッシュが床を擦る音が聞こえた。中扉と互い違いに開けられているため、中の様子は見えない。掛け合う声は重なり合い、その姿を確かめることはできない。それでも、俺の耳には大和の声が響く。コートを駆けていく姿さえ思い浮かべられる。  ――今、この瞬間の大和を感じることができる。  今は同じ学校の中で、体育館の外と中で、距離も隔たりも「ない」に等しい。これがもっと遠くなってしまったら。学校どころか住む町も、国さえ変わって、時差さえ存在する場所であっても、それでも……。  ――信じたい、と思った。  信じられるのか、想い続けられるのかではなく。ただ純粋に信じてみたくなった。今ある幸せを、日常を手放しても消えることはないのだと。この手に掴むべきものはもっと先にあるのだと。固く握りしめるだけが、振り払うだけがすべてじゃない。まだ見えていないものを、まだ触れられていないものを見つけるために手を開いてもいいのだと。  ――ねぇ、知ってる? 大和がバスケを始めた理由。  結局、その答えを聞くことはできなかった。大和にいつか聞いてみて、と言われて閉じられてしまったから。だけど、なんとなく。向けられた表情に俺自身が関わっているであろうことは容易に想像できた。  ――直接聞いたなら、大和は教えてくれるだろうか?  ガラガラと派手な音を立てて開けられたドアから閉じ込められていた空気が吐き出された。雨の湿度よりも濃く、汗の匂いと体育館のニオイが混じったそれは熱となって俺の肌に触れる。バスケ部のメンバーが次々に「体育館暑すぎる」だの「うわ、雨まだ降ってる」だの言いながら出てくる。体育館の裏の部室へ行くには屋根のないところを通らねばならなかったが、みんな傘など持たずそのまま駆けていく。汗で濡れてしまっているTシャツに雨が追加されようが気にはならないのだろう。むしろ天然のシャワーを浴びるようにどこか楽しそうな表情をしている。部活後とは思えないほどはしゃいでいるいくつもの背中を俺は外廊下の端から見ていた。  大和が出てくるのは最後、だろうか。 「もうすぐ出てくると思うよ」  騒がしい声が雨よりも遠くに消えると同時に聞き覚えのある声が響いた。  振り返ると佐渡さんが体育館のドアと外廊下の間にある階段を下りてくるところだった。 「ちょっとまだ監督に捕まっちゃってるけど。すぐ終わると思うよ。今日の成瀬くん、病み上がりとは思えないほどの働きだったから」 「え?」 「なんかいつになくテキパキしてたよ」  テキパキ……あまり大和からは想像できない言葉に俺は思わず笑ってしまった。  佐渡さんは俺の隣で一瞬足を止めると「早く部活終わらせたくて仕方なかったんじゃない?」とため息に混ぜた声を小さく弾ませた。  なんと返せばいいのかわからず思わず声を詰まらせると、佐渡さんは「また明日ね」と満足そうに笑ってから校舎に向かっていった。小さな背中で元気よく跳ねるポニーテールの先を見つめながら俺はそっと息を吐き出した。  ――一体どれだけ、俺たちは互いに影響を与えているのだろう。  いつから、どれくらい、なんてもうわからない。数えきれないくらい。測りきれないくらい。切り離せないくらい。自分という存在を作るものの中にそれは決して欠けてはならないくらいにある。俺の中に、俺を形作るものの中に、大和がいるように。大和の中にも、俺がいるのだろう。息をするくらい当たり前に俺たちは互いに互いを取り込み続けてきた。  ――今さら、失くすことなんてできない。  忘れることも、手放すこともできない。  互いがいないと、互いがいるからこそ、俺たちは俺たちのままでいられるのだから。  ざわめきが去った空間には途切れることのない雨の音が響く。開け放たれたドアの向こう側からはまだ影すら現れない。  俺は体育館の隣に設置された自動販売機へと向かった。この前に立つのは去年のクリスマスイヴ以来だった。あの時は指先から冷えていく感覚にホットの表示を探したけれど。今はもう夏に入っている。並んだドリンクにホットの表示はどこにもない。  ――同じところで立ち止まっているように感じても、きっと違う。  スポーツドリンクへと向かいかけた指が端へと動く。 「こっちかな?」  俺はコーラのボタンを押した。  何度と繰り返して。何度と歩いてきた。でも、本当は一日だって「同じ」日はなかった。  この一瞬さえ、「特別」で愛おしいのだから。  外灯が等間隔に置かれた静かな通り。太陽は一度も姿を現すことなく沈んでしまっていた。夜の暗さが広がった校門から駅へと向かう道には俺たちしかいなかった。元々バスケ部の練習が終わるのはほかの部活よりも遅い。その上、今日は大和が監督に捕まっていたのでさらに遅くなっていた。部活帰りの生徒の姿さえもう見つけられない。  会いたくて。  話したくて。  隣を歩いているのに。  いざとなると、何から言葉にすればいいのかわからなかった。  いつもより大きめの傘も二人で入るとやっぱり少し窮屈だった。  大和に「俺が持つから」と言われて俺は素直にその手を離した。大和の大きな手の中に折り畳み傘の先は隠れている。確かな筋肉で覆われた太い腕は、まだ梅雨に入ったばかりだというのに薄く日焼けしていた。こうしてそばに立つと改めて実感する。肩幅も、身長も、何もかもが自分とは違うのだと。自分の白く細い手首に残された跡が思い出され、なんとなく視線を下へと落としてしまった。アスファルトから跳ね返る雨粒は同じ色の靴を濡らしている。大きさは違うけれど、並んだデザインは同じだった。  傘を叩く雨の音。雫を纏って濃さを増す草木の香り。気まぐれに吹く生温い風。自然に存在する空気の中でここだけがぽっかりと切り離されたような感覚。俺が感じるのは隣を歩く大和の小さな息遣いで。鼻に触れるのは薄い汗の匂いと慣れ親しんだ柔らかな香りで。触れなくても伝わるのは互いに流れ高まっていく熱だった。  ――これが俺の「特別」だから。  吸い込んだ温度が肺に広がるのと同時に俺は顔を上げ、何度も呼んできたその名前を口にした。 「大和」 「伊織」  重なった声に、触れ合った名前に、繋がった視線にふっと空気が揺れた。  いつの間にか閉じ込めてしまっていた。狭いこの空間で、ふたりで、ふたりだけで、もっと小さく固くなろうとしていた。  それが緩んだのだと、同時に感じ取る。  もう一度、と俺が声を発するよりも早く、大和が先に言った。 「俺から言ってもいい?」 「でも」 「ちゃんと聞くよ。伊織の話、ちゃんと聞く。でも、先に聞いてほしい。伊織が何を言っても俺は変わらないから。だから……伊織は俺の話を聞いた上で答えてほしいんだ」  紺色の傘が外灯の明かりを遮り、大和の顔には夜の色が被せられていてその表情まではよく見えない。  それでも、俺には大和が今にも泣きだすのではないかと思えた。 「大和……?」

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