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『誕生日*翌々日』side大和(1)

 ごめん、と一言送ればいいのか。  ありがとう、と一言連絡すればいいのか。  何度も同じ文字を打っては消してしまう。  何度も名前を表示させては発信ボタンには触れられない。  画面に並ぶ文字では伝わらない気がして。  機械越しの声では伝えられない気がして。  ――伊織に会いたい。  自分勝手に耳を塞いで、自分勝手に部屋を飛び出しておきながら、今の俺の中にあるのはそれだけだった。  それなのに。 「大丈夫?」  心配というよりは呆れ、気遣うというよりは好奇心をちらつかせて冨樫が振り返った。 「……大丈夫」  俺は机に突っ伏したまま答える。薄曇りの空が視界の端に映る。梅雨は入ったばかりだが、連日雨が降り続いているわけではなかった。それでも今日は午後には降り出すのだろう。今朝のテレビでそんなことを言っていた気がする。 「全然大丈夫そうじゃないけど」  マンガ雑誌へと再び視線を戻しながらかけられた言葉に、ムッと俺は声を低くする。 「お前は全然心配そうじゃないけど」 「あ、バレた?」  悪びれる様子もなく、冨樫が意地悪く笑った。 「俺、病み上がりなんだけど。もうちょっと労わってくれてもよくない?」 「朝練参加してきた奴はもう病人じゃないだろ」  もっともな冨樫の言葉に、俺は何も言い返せなくなる。  部活を休んだのなんて、一体いつぶりだろうか。  自分でも記憶にないくらいなので、俺よりもチームメイトの方が驚いただろう。今朝の部活では顔を合わせた順に労わりや心配の声をかけられた。それが嬉しくもあり、熱を出した原因を思い出して心苦しくもあり。「もう大丈夫」と繰り返しながらくすぐったさと罪悪感に胸が痛かった。 (だから、まあ、正直なところ冨樫のこの態度には救われている)  絶対に言ってやらないけど。 「メンタルが病人?」  心の中で感謝した途端に突き刺された。 「……」  朝練が終わって一瞬だけ覗きに行った教室に伊織はいた。伊織の存在を確かめられたことにホッとして、声をかけたい衝動をどうにか抑え込んだ。もうすぐ朝のホームルームが始まってしまう。今は十分に話せるような時間が取れない。ほんの少しでも視線が合わないかと期待したけれど、伊織はクラスメイトの女子たちに囲まれていて俺の方を向くことはなかった。寂しさがなかったわけではないけれど、学校に来ているのなら、次の休み時間に会いに行けばいい。クラスが違っても同じ場所にいるのなら会うチャンスはいくらでもある。  ――そう思っていたのだけど。  心待ちにしていた休み時間に、俺は先生からの用事を頼まれ伊織のところに行けなかった。じゃあ、次の休み時間こそと思ったら、今度は伊織のクラスが体育で早々に移動してしまっていた。  避けられているわけじゃない。起きていることはどれも不可抗力で、通常の学校生活にはよくあることばかりなのだから。それでも、ここまでタイミングが合わないとなんだか会わない方がいいと誰かに言われているような気がしてしまう。  普段の俺ならこんなふうには考えなかっただろうけど。  冨樫の言葉どおり今の俺は「メンタルが病人」なのだろう。  一番長く話せるはずの昼休みでさえ伊織を捕まえられなくて、俺はこうして自分の席にいるしかなかった。  画面を伏せられたままのスマートフォンは、机の表面と俺の手のひらに挟まれ息を潜めている。自分からはうまく連絡できない。だけど、もし伊織から連絡があったらと思うとカバンにしまっておくこともできない。  自分から話しに行こうと思っているくせに。俺はどこかで伊織から来てくれることを期待しているのだろうか。 「わかりやすいヤツ」  冨樫がため息とともにちらっとこちらに視線を向けてきた。  自分の中にあるズルさや弱さを自覚してしまっている俺もため息と一緒に返してやる。 「……いじわるなヤツ」  冨樫はページをめくりながら、何でもないことのように言った。 「お前が昨日休んだせいで俺はデートの予定をキャンセルされたからな」 「デ、デート⁉」  予想外の事実に俺は倒していた体を勢いよく起こしたが、それと同時に冨樫に頭を叩かれ、机へと撃沈させられた。 「()っ!」  視線だけをどうにか上に向ければ、冨樫の手にある凶器は結構厚みのある雑誌だった。 (それはさすがにひどくない? 結構本気で痛かったんだけど) 「声でけーよ、バカ」 「……ごめん。デートって佐渡と?」  明らかに俺の方が重傷を負った気がするけど、話の続きが気になる俺は素直に謝った。  二人に何があったのか詳しくは知らないが、バレンタインの後から二人でいるのをよく見かけるようになった。俺自身はあまり気にしていなかったけれど、終了式の日に三人でお好み焼きを食べにいったとき、伊織が「冨樫って、佐渡さんのこと好きなの?」とド直球に本人に聞いたのだ。その瞬間の冨樫の表情も、伊織の笑顔も俺は未だに忘れられない。 「……他に誰がいるんだよ」  冨樫の声がトゲトゲと俺に向けられる。 (あれだけ盛大に叩いてもまだダメ? 俺そんなに悪いことした?)  思いっきり叩かれた影響により数分前の冨樫の言葉が俺の頭からは吹っ飛んでいたのだろう。俺は自分のせいだという話の始まりをすっかり忘れ、なんの悪気もなく訊いてしまった。 「え、でも、なんでキャンセル?」  俺の言葉に冨樫はパタン、と雑誌を閉じ丁寧に机の上に置いた。  壁に背を預けて横を向いたまま話すのが基本なのに、冨樫はわざわざ椅子を動かし俺に体を向けた。いつもとは違う雰囲気を感じ、俺はわずかに緊張する。  冨樫はひとつ大きく息を吐き出してから俺を正面から見据えた。 「本来なら昨日の部活はミーティングだけで早く終わるはずだったよな?」  普段とは違う低い声に、俺は記憶を探りながら慎重に答える。 「あ、ああ。そうだな」  日曜日に俺は監督と一緒にインターハイ予選の決勝を観に行く予定だったので、週明けの昨日はその報告も兼ねてミーティングになっていた。 「部長以外は」  ――以外は。  語尾に不穏な重みを感じ「ん?」と声にするわけではなく、目だけで先を促す。 「昨日、予算会議だったろ?」 「あ」  思わず声がこぼれた。そのたった一文字だけで、俺が忘れていたことはバレてしまったのだろう。向かい合う冨樫の顔がゆっくりと笑みを作る。形は笑顔だが、その目はちっとも笑っていない。 「各部の部長が集まって話し合う一年に一度の大事な日、らしいじゃん?」 「……ソウデスネ」 「で、お前はその大事な日に休んだと」  にっこり、と背景に文字が見えそうなほど完璧な笑顔なのに、伝わってくる空気は季節が逆戻りしたように寒い。 「……佐渡が代わりに出てくれた、とか?」 「ほかに誰ができるんだよ」  この数分の間に冨樫がついたため息はいくつだろうか。  一度離された視線を幸いと、俺はそろりと窓の方に顔を向ける。 「デスヨネ」 「そもそも、お前らバスケ部は休みがなさすぎるんだよ」  今日一番の大きなため息を落として、小刻みに頷くだけの俺にハッキリと言った。 「よって今日の俺はお前に優しくできないから」 「はい。すみませんでした」  再び机の上に頭を落として俺は冨樫に謝った。  ミーティングのことも予算会議のことも冨樫に言われるまで、今の今まで、本当に忘れてしまっていた。それだけ俺の頭の中は伊織のことでいっぱいだった。 (朝練の時に佐渡は何も言ってこなかったよな)  もう風邪は大丈夫なのか、とは聞かれたけど。  これは放課後の部活までに謝りに行っておいた方がいいな。  佐渡のクラスには伊織もいるし。  俺は黒板の上にかけられた時計を見上げる。お昼休み終了までは十分を切っている。  でも、逆に言えばこの時間なら伊織が教室にいる可能性は高い。 「ちょっと行ってくる」 「はいはい。いってら~」  突然立ち上がった俺に冨樫は「どこに?」とは聞かず、いつもと同じ呆れた笑いをこぼした。    *  目を覚ますと部屋の中はすでに薄暗かった。  昼に飲んだ薬が効いたのか、深く眠れたおかげか、俺の体からだるさは消えていた。  上半身をゆっくりと起こせば布団に挟まれていた熱が抜け、汗の染み込んだTシャツが肌に冷たさを残す。枕元のスマートフォンをひっくり返すと、時刻は十九時過ぎだった。 「すっげー、寝たな……」  ローテーブルに置かれていたペットボトルに口をつけ、温くなってしまった水を喉に流し込む。きゅっと引き締められた胃がすぐにぐぅと鳴いた。  手早く着替えをすませた俺は、汗の染み込んだ衣類を洗濯かごに放り込み、リビングへと向かった。 「お腹空いた」  扉を開けると同時に言うと、ダイニングテーブルに夕飯を並べていた母さんが笑った。 「ナイスタイミングね。ちょうど呼びに行こうと思ってたところよ」  ふわりと流れてくるごはんのニオイ。母さんが笑いながらかけてくれた声。自分を包み込んでくれる温かさに俺のお腹が再び、ぐぅ、と返事をした。  食後のコーラを冷蔵庫に取りに行ったときだった。  冷蔵庫の扉を俺が開くと同時に、母さんが「あ、ケーキあるわよ」と俺の視線を見越したように言った。俺の視界のちょうど真ん中に、それはあった。  見覚えのある、白い箱。見覚え、どころか名前をはっきりと覚えてしまった店名とロゴマークの入ったシールが丁寧に貼られている。 「え?」  振り返った俺に食器を片付けていた母さんが「それ伊織くんから」と何でもないことのようにサラリと伊織の名前を口にした。 「伊織来てたの?」 「学校帰りにプリント届けに来てくれたわよ。起こそうかとも思ったけど、大和ぐっすり寝てたし、伊織くんも学校でまた会えるから大丈夫って」 「……そう、だけど」 「ねぇねぇ、それって駅前にできたお店のチーズケーキでしょ? どうする? すぐ食べる?」  声を弾ませた母さんの目は期待に輝いている。  俺は再び冷蔵庫の中へと顔を戻し、そっと箱を手に取った。  パタン、と冷気を軽く吐き出した扉を閉じ、自分の手元へと視線を落とせば昨日の出来事が一瞬にして蘇る。  これは伊織の誕生日に、伊織のために、買ったはずで。  これを買うために、俺は暑さに耐えて行列に並んだはずで。  渡した瞬間の伊織の表情に、買ってきてよかったと思ったはずで。  それなのに。  お皿に出したまま、口をつけることもできなかった。  伊織の声に振り向きもせず、部屋を飛び出した。  あのあと、伊織はひとりで食べたのだろうか。  誕生日なのに。  伊織が生まれてきたことをお祝いする日なのに。  俺はその大事な日に、伊織をひとりにしたのか……。  あの日。  ――伊織が生まれてきたこと、こうやって生きていてくれること、その全部が間違いなんかじゃないって、俺が証明する。  俺は。  ――一生かけてでも証明してみせるから、だから……。  伊織に。  ――だから、伊織も一生かけて俺のこと愛してよ。  そう言った、のに。  後悔も、情けなさも、どうしようもなく溢れてくる想いも。  その全部が苦しくて、その全部が愛おしい。  胸の奥から痛みが熱となってせり上がってくる。 「……っ」  でも、ここで零すわけにはいかない。  俺は冷蔵庫に体を向けたまま、静かに唇を噛みしめる。  ほんの少しでも動いてしまったら、堪えきれなくなる。  母さんの前で素直に泣けるほど俺は子供じゃなかった。  だけど、うまく隠せるほど大人にもなりきれない。  ただ、静かに、この熱が鎮まるのを待つことしかできない。 「あ、伊織くんから預かったプリント持ってくるわね」  背中から届いた母さんの声。パタパタと床を叩くスリッパの音。リビングの扉が閉じられた気配。遠ざかる足音に、俺は堪えていた息を吐き出した。その一度の呼吸ですら震えていて。嗚咽がこぼれる。目の奥に集まった熱の塊が手元の箱に落ちていく。 「……っ、い、おり……」  名前を呼びたかった。  すぐそばで。  振り返ってくれる距離で。  手を伸ばしたら、触れられる。  視線を向けたら、繋がれる。  伊織の声が当たり前に俺の耳には届いて。  伊織の笑った顔が当たり前に俺の視界を埋めてくれて。  伊織も俺の名前を当たり前に呼び返してくれる。  それだけで。  それだけで、よかった。  俺がほしかったのは、それだけで。  俺が望んでいたのは、それだけで。  それなのに。  それさえも。  もうすぐ、叶わなくなる。  ――このまま、俺は自分が言った言葉さえ嘘にしてしまうのか? 「伊織……会いたい……」  零れたのは、隠しようもない、消しようもない、どうしようもない俺の本音だった。    *  教室を飛び出した俺は伊織のクラスへと走る。  廊下は走らない、なんて小学校でされる注意も今だけは外に置いておく。  幸い、次の授業がもうすぐ始まるという時間帯のためか、廊下に人はまばらで、先生の姿もなかった。  伊織のクラスは廊下の一番奥。階段に近い俺の教室の三つ先。  窓から流れ込む風にはすでに降り出す前の雨のニオイが混ざっている。下がりきらない気温と湿気が肌にまとわりつく。上履きのゴムが床を擦るたびにキュッと鳴り、自分が走っていることを、気持ちが駆け出していることを、自覚させられる。  ――こんなところでぐずぐずしてないで前見て走りなよ!  伊織に言われた言葉が頭に浮かぶ。 (元々は佐渡の言葉だけど)  ――愛情を捧げよ  初詣で伊織と一緒に引いたおみくじに書いてあった言葉。  俺の背中を押す言葉はいくつもあって、いくつも用意されていて、いつでもそばにあった。俺が気づけなかっただけで。  胸を満たすのは、寂しさじゃない。  体の中に生まれた熱は、涙に変わるためじゃない。  存在を主張する心臓は、不安で揺れているわけじゃない。  ――伊織に会いたい。  ただ、それだけの想いに。  ただ、それだけの願いに。  それだけの、それしかない、愛おしさが、俺を動かしていた。

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