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『誕生日*翌日』side伊織

 朝のホームルームが始まるまではあと十分ほど。  遅刻を決めるチャイムが鳴るまでの間、教室内の人口は急激に増える。  もともとこの時間に登校する生徒が多いのと、朝練を終えた部活組もやってくるからだ。  教室の中はざわめきでいっぱいになる。  ――大和も朝練を終えてそろそろ教室に着く頃だろう。  こんな日でも黒板の上の時計を見上げて俺はそんなことを思ってしまう。  あまりにも日常と化した思考にそっと息を吐き出す。  顔を横に向ければ、窓の外の風景は目の前だった。  昨夜の大雨が嘘のように綺麗に晴れ渡った空が見える。  雲の色もここ数日見えていた重い灰色ではなく、柔らかな白色をしている。  梅雨の晴れ間だと、今朝の天気予報では言っていたけれど梅雨自体始まってまだそんなに経っていないのでなんだか変な感じだ。  耳に届く声は加速度的に膨れ上がっていたけれど、俺はずっと窓の外を眺めていた。  昨日の出来事が俺の頭の中、体の中央、指の先まで痺れを残している。胸の中に残る重苦しさは時間が経ったからと言って減っていくものではない。むしろ、このまま大和と話せなければ確実に増していく。  それがわかっているから。  ――今度は俺から大和に会いに行かないと。  抜けきらない罪悪感も、癒えることのない痛みも抱えたままでいい。  これまでの時間を、関係を、なかったことにしたいわけじゃないから。  ――会いたい。  散々悩んで、遠回りして、たどり着いたのはそんなシンプルな想いだった。  今まで散々そばにいて、昨日だって一緒にいて、今だって教室は違っても同じ学校にいるのに。そう素直に思えてしまったことに自分でも驚いている。  大和に会わないと、話をしないといけない。傷つけたことを謝らないといけないし、大和の言葉をちゃんと聞かないといけない。それから俺自身の言葉も伝えなくてはいけない。  うまく言葉にすることはできないかもしれないけれど。  まだ少しこわいけれど。  ――俺にもできることがようやくわかったから。    *  ――誕生日おめでとう。  父さんにその言葉をもらうのはいつぶりだろうか。 「伊織? どうした? 何かあったのか?」  心配そうに揺れるその声が耳に響く。  湯気を失った飲みかけのコーヒー。悲しげに残っているチーズケーキのかけら。滲んでいた視界を俺は片手で拭う。 「なんでもないよ。電話、ありがとう」 「ちゃんと毎年言ってあげられなくて、ごめんな」  優しく息を吐き出すように放たれた言葉が胸の奥に触れる。  別にいいよ、と言おうと思った。  気にしてないから大丈夫、と。  だけど、俺の口からこぼれたのはまったく別の言葉だった。 「……後悔してる?」  父さんにそんなことを聞いてしまったのは、決して父さんを責めたいからじゃない。  単純に父さんの答えを知りたかったからだ。  俺のために家族と離れることを選んだ父さんに、俺はずっと聞きたかった。  ――だから、この質問は自分のためだ。  大和と離れることを選んだ自分の気持ちが揺れてしまいそうだったから。  この選択が正しいのだと、間違ってはいないのだと、俺は誰かに背中を押してほしかった。 「俺と母さんから離れたこと、父さんは後悔してる?」  ――俺は後悔するだろうか?  ――自分で選んだ未来を後悔するだろうか?  ――大和と離れたことを……後悔するのだろうか? 「あの時はそうするのが一番だと思ったから、離れたことに後悔はないよ。でも、そうだな。ひとつだけ後悔があるとすれば、約束をしてやれなかったことかな」 「約束?」 「必ず迎えに来るからって言ってあげられなかったから」  そんな言葉が返ってくるとは思わず、俺は静かに息を止めた。 「自信がなかったんだ。破ってしまうかもしれない約束を信じさせるなんて残酷だって、傷つけるだけだって。……そう思ったら、何も言えなかった」  耳から入ってきた言葉はまっすぐに俺の胸の真ん中へと落ちる。  俺はなんと言えばいいのかわからず、ただ静かに次の言葉を待つことしかできない。  寂しさを漂わせていた父さんの声は、一瞬の間の後、はっきりと色を変えた。 「でも、違うよな。約束は守るためにあるんだから。守るための努力を僕はすればよかったんだって、今は思うよ」  ――守るための努力を。  俺は無意識のうちにスマートフォンを持つ手に力を入れていた。 「いつまでに、なんて言えなくても、それでも必ず守るからって信じさせてあげればよかった。会えなくても大丈夫だって思わせてあげればよかった」 「でも、それじゃあ」  ――守れなかったらどうなるの?  続けようとした言葉は出てこなかった。  父さんの声が、耳に触れる温かさが、俺の口をそっと押さえた。 「ちょっとずるいけど。諦めなければ破ったことにはならないだろう? いつまでに、なんて言わなければ」  ――俺が信じられなくても、大和が信じてくれればそれでいいのだろうか?  ――そんなことで、そんなずるいやり方でいいのだろうか? 「まあ、あの時の僕は伊織に嫌われるのが怖かったから何も言えなかったけどね」  ふわりと揺れた声に父さんが小さく笑ったのが伝わってくる。耳に触れる柔らかな空気には消えることのない後悔が滲んでいたけれど、決してそれだけではなかった。  ――それはきっと、『今』があるから。  変わり続けた環境も、変わらなかった想いも、その全部が『今』を作っている。  ――それは俺と大和も同じはずで。  今の関係にたどり着くまでに変わったものも変わらなかったものもある。  俺の中でストンと何かが胸に落ち、ツンと鼻の奥が痛みだした。  両目の奥には熱が集まり、視界をぼやけさせる。  俺は唇の先を噛むことしかできない。  返事をすることも、相槌を打つことさえもできない。  ほんの少しでも緩んでしまったら、嗚咽が漏れてしまう。  泣いていることがバレてしまう。  それだけは、嫌だったから。 「未来は誰にもわからない。確実なものなんて何もない。それは約束を破らない未来もあるかもしれない。その可能性をあの時の僕は信じきれていなかった」  ――未来そのものではなく、その可能性を信じる。  ――それだけで、よかったのか。  どうしてだろう。  どうして父さんにはわかるのだろう。  何も言っていないのに。  何も話していないのに。  どうして俺が欲しかった言葉をくれるのだろう。 「結局は自分が信じるかどうかだったんだ。信じ続けるために努力する。そのための支えとして、約束すればいいんだよ」  大和は俺に言った。  ――何も変わらないなんて、無理に決まってるじゃん。  ――これだけ見た目だって、性格だって変わってるのに、気持ちだけが変わらないなんて、そんなの無理に決まってるんだよ。  だけど、それは全部じゃない。  そうじゃないものも、変わらないものもある。  変わる方向だって、ひとつとは限らない。  明るい方へ変わることもある。  ――そう、信じてみてもいいだろうか。  今は一緒にいられなくても、この先いつか一緒にいる未来があるかもしれないって。  俺たち家族がそうであったように。  俺と大和もそうなれるって、その可能性を信じてもいいだろうか。  俺にとっての特別は『大和』じゃなくて、『大和のいる日常』そのものだから。 「……そっか」  俺が言えたのはたったそれだけだった。  震えそうになる声を誤魔化して俺は吐き出した息の先で小さく笑った。  床に転がったままのスニーカーへと手を伸ばしながら。    *  昨夜の父さんとのやり取りを思い出していた俺は、目の前のガラスに映り込んできた影に気づかなかった。 「伊織くん」  すぐ近くで名前を呼ばれ、軽く肩を跳ねさせてから俺は振り返った。 「……佐渡さん」 「これ、成瀬くんに届けてもらってもいい?」  おはよう、という挨拶もしないうちに佐渡さんは一枚のプリントを俺に差し出した。  反射的に受け取ってしまったA4サイズの紙には「七月の予定」と書かれている。  毎月配られているバスケ部のスケジュール表だ。 「え」  なんで自分に渡されたのかわからず、俺は顔を上げた。  そんな俺に佐渡さんは大きなため息をついてから言った。 「ついでに『こんな日に休むなんて』って私が怒ってたよ、って言っておいてくれる?」 「え、休み?」  反射的に返してしまった俺の言葉に、今度は佐渡さんが驚きの表情を見せた。 「え、成瀬くん風邪引いたんでしょ?」 「風邪?」 「あれ? 聞いてない? 朝練来てないから確認したら、今日は風邪で一日休むって」 「そ、うなんだ」  昨夜の激しい雨音が耳の奥で蘇る。  大和はあの大雨の中を傘もささずに帰ったのだ。  俺は無意識に唇の先を噛んでいた。  会いたい。会って謝りたい。話をしたい。聞かなくてはいけない想いも、伝えなくてはならない言葉もたくさんあるのに。少なくとも学校が終わるまでは会えない。 「……大和に渡しておくね」  受け取ったプリントをしまうために机の横にかけていたカバンを開けた時だった。 「あ、それ」 「え?」  聞こえた声に顔を上げると、佐渡さんは一瞬バツが悪そうな表情をしてから困ったように笑った。 「あ、ごめん。見えちゃったから、つい」 「? ……あ、あぁ、これのこと?」  佐渡さんの視線の先、俺が開いたカバンの内ポケットには水色の小さなお守りがついている。 「それ、成瀬くんとお揃いでしょ?」  何かを思い出したのか、佐渡さんの声は楽しそうに小さく揺れている。 「いつだっけな。成瀬くんに忘れ物を取りに行かされたことがあって」  少しだけ開いていた窓から雨上がりの静かな風が流れ込む。 「あ、別に成瀬くんのせいじゃなくて元はと言えば監督のせいなんだけど。成瀬くんに聞いたら俺のカバンの中にあるから勝手に取って! って」  視界の端で白いカーテンの裾が膨らむ。雨によって洗われた空気はどこまでも透き通っていた。強い日差しと夏の始まりを感じさせる蒸し暑さが匂いとなって俺の肌に触れる。 「そしたら内ポケットのファスナーのところに成瀬くんの持ち物とは思えないようなカワイイ物がついてて」  佐渡さんはカーテンの隙間から差し込む光を浴びながら、笑った。  まっすぐ向けられたその視線に俺も笑うしかなかった。 「あー、なるほど」  ――大和も同じところに付けていたのか。  初詣で大和が買った縁結びのお守りはもともと二色あった。水色と桃色。男女で持つことを想定したかのような色合い。だからと言って別に単体で持とうが、同じ色を持ち合おうが、それは買う人の好みだろう。  ――俺、水色な。  そう言ったのは、少しだけ意地悪な心が働いたから。  俺がそう言ったなら、大和は別の色を選ばなくてはいけないと思い込むかなって。  大和が何色を買おうと大和の自由なのに。あの時の俺は敢えてそういう言い方をした。絶対に普段の大和なら選ばないような桃色のお守りをもしかしたら買ってくるのではないかと期待して。  大和はまんまと俺の言葉に乗せられ、もう一つの色の方を自分用に買っていた。  そのことを家に着いた後で知った俺は思いきり笑ってやった。 「なんか、いいね」 「え」 「その場に成瀬くんがいたら容赦なくからかってあげたと思うけど。でも、素直にいいなって思ったよ」 「佐渡さん……」 「じゃあ、プリントお願いね」 「うん。ありがとう」  この答えが適切なのかはわからなかったけれど。  佐渡さんはもう一度笑ってくれた。  ――あぁ、そうだ。  あの時はお守りを買ってすぐにおみくじを引いたのだ。  結んでしまったから手元にはもうないけれど。  でも、そこに書いてあった言葉を俺はちゃんと覚えている。  ――愛情を信じなさい。  自分の心の中を見透かされた気がして少し怖かった。  細く折りたたんだおみくじを結んでいる俺の隣で『大吉』と書かれたおみくじを眺めながら大和は笑っていた。  そういえば、あの時大和のおみくじにはなんて書いてあったんだっけ?  何度目か、なんてもう数えられるはずもなく。  吸い込んだ空気には太陽の熱が溶けていて、胸の中が一気に温かくなった。  指先にグッと力を入れれば聞き慣れた音が建物の中で弾むように響く。 「はーい」  インターフォン越しではなく、こちらへと近づく足音とともに答える声がする。  うちの母さん画面で確認する前にすぐドアの方に行っちゃうんだよ、といつだったか大和が言っていた。ちょっと心配なんだよな、と呆れながら笑っていた顔も簡単に思い出せる。 「ありがとう」  聞こえた言葉に、挨拶しようと下げかけた頭が止まる。 「え?」 「そろそろ来てくれるんじゃないかなって、実は思ってたんだ」  向けられたのは昔から変わらない優しい笑顔。 「小学校のときのバレンタインも、高校受験の前も、いつも大和を助けに来てくれるのは伊織くんだから」  まるでヒーローのような言い回しに、なんと返せばいいのかわからず、俺は促されるままに開けられていたドアの内側へと体を入れる。 「お邪魔します」  真新しいスニーカーをそろえてから振り返ると「まだ寝てると思うからとりあえずリビングでもいい?」と一瞬だけ上を指し示した視線が俺の顔へと戻ってきた。 「はい。えっと、大和の具合どうなんですか?」 「心配しなくても大丈夫よ。朝には熱も下がってたし、食欲もちゃんとあるから。明日は学校行けると思うわ」  小さく笑いながら教えられた事実に、強張っていた体から力が抜ける。 「よかった」  緩まった口から吐き出された息が消えるのを待って、ゆっくりと向きを変えたスリッパが軽い音を廊下に響かせた。俺も同じように音を重ねながら歩き出す。吸い込んだ家の匂いは変わらないけれど、目の前の背中は自分が思っていたよりもだいぶ小さかった。  壁に飾られた写真には大和が幼稚園に入る前のものから高校の入学式のものまであって、足を進めるたびに思い出が俺の中で膨らんでいく。当たり前だけど、時間は自分たちだけに流れているわけではない。その中で積み重ねられた思い出も自分たちだけのものではなくて。俺と大和が過ごしてきた日常は、ほかの誰かにとっても当たり前の日常としてそこに存在していた。  ――変わらないものも、変わってしまったものも、きっと誰にでもある。  だからこそ、俺は……。  プシュッと炭酸の抜ける音が聞こえて、俺は思わず振り返ってしまった。 「あ、ごめん。コーラでよかった?」 「え、はい」  答えながらも俺の頭の中に「コーラ」という選択肢はまったくなかったので驚きを隠しきれない。  コースターの上に置かれたグラスの中、パチパチと気泡が音を鳴らす。表面を覆っていた泡が消えコーラの甘い香りが浮かんだ。 「ごめんね。大和がいつも飲んでるから、伊織くんも同じでいいかと勝手に思っちゃった」 「え、そうなんですか?」  思わず聞き返してしまった俺に一瞬目を丸くしたあと、ふっと柔らかな笑いがこぼれた。 「ふたりの時は違うの? 大和、うちではコーラばっかり飲んでるけど」 「うちではいつも麦茶かコーヒーで。あ、でも、そもそもうちにはジュース類置いてないので……」  言葉にしながら思い出してみるが、やっぱりうちで大和がコーラを飲みたいと言ったことはなかった気がする。コンビニに寄ってお菓子を選んでいるときもカゴに入れるのはアイスやスナック菓子ばかりで炭酸飲料は選んでいなかった。  コーラを飲んでいる姿を見たことがないわけではないけど。  でも、そんなにいつも飲んでいるとは知らなかった。 「あ、これ内緒だったかな」 「え」 「ほら、運動部ってあんまり飲んじゃいけないって言われるから。そんなにいつもってわけじゃないのよ。時々、時々ね」  付け足された言葉が明らかにウソだとわかりつつも俺は「時々、ですよね」と笑って返した。同時に大和が俺の前であまり飲まないようにしていた理由もなんとなく気づいてしまって胸の奥がくすぐったくなった。 「伊織くんでも知らないことあるのね」  目の前で優しく放たれた言葉にグラスへと伸びていた手が止まる。  カラン、と氷がバランスを崩す涼やかな音のあと、その声は先ほどよりも優しさを増して響いた。 「……ケンカ、しちゃった?」 「え」 「あの子、熱に浮かされながら、昨日ずっと『ごめん』って言ってたから」  俺は思わず自分の手首へと視線を落とす。もう昨日の痕は残っていない。残ってはいないけれど、その感触を忘れたわけじゃない。同時に自分の名前を呼んだ優しい声も、今にも泣きだしそうな表情(かお)をした大和も全部簡単に思い出せてしまう。 「悪気はないと思うんだけど、頭で考えるより前に体が動いちゃう子だから。またなんか突発的にやらかしちゃったんでしょ?」 「いえ、そんな」  震える声を隠そうと俺は両手に持ったグラスを傾ける。流れてきた液体は口の中にべたりとした甘さを残し、喉を通過する炭酸が小さな刺激を残しながら落ちていく。  コーラのせいではない、胸の痛みを自覚して俺はそっと口を離した。 「ふふ、そんなこと私よりも伊織くんの方がずっと知ってるか」  お菓子の入った器を俺の方へと差し出しながら、俺よりも先に細い指がひょいっとその中のひとつを摘み上げる。くるくると包み紙が剥がされ、中からココアの香りと丸い形状のチョコレート菓子が現れる。 「あ、コレいただきものなんだけど。大和にはあげられないから、ふたりで食べちゃおう」  大和には内緒ね、と小さく笑った表情が、数か月前に交わされた会話を思い出させた。  ――コレだけは食べられるんだよ。  俺の手元から大和の大きな口へと消えたのは、いま俺の目の前にあるものと同じ『ご褒美チョコ』だった。  俺が知らないこともあるけれど、俺だけが知っていることもある。 「知りたいって言ってたよ」 「え」 「本当は知らないことだらけだって言ったんだけど。でも、それって知りたいってことでしょ? 伊織くんと仲直りしたいって顔に書いてあったもの。ほら、あの子すぐ顔に出るから」  いつでもまっすぐにぶつかってくれるのは、大和の方だった。  臆病で卑怯で最低な俺でも、大和だけはずっと変わらないでいてくれた。  どんなに俺が拒んでも、傷つけても、変わらずに手を伸ばしてくれた。  ――昨日の、あの瞬間までは。 「熱出して寝込んじゃうくらい、大和にとって伊織くんは大事なひとだから。元気になったら仲直りしてあげてね」  謝らなきゃいけないのは、赦してもらわないといけないのは、俺の方で。  大和が風邪をひいたのだって、俺のせいなのに。  小さなころから見守ってくれていた優しいまなざしに俺は顔を俯ける。  今の俺はこんな温かさをもらっていい人間じゃないのに。 「伊織くん、大和と出会ってくれてありがとう」  まっすぐ伝えられたその言葉に、俺は顔を上げずにはいられなかった。  下唇を歯の先で噛みしめ、湧き上がってくる感情を必死で抑える。  ――それは、その言葉は、俺が言うべきもので……。 「今の大和がいるのは、伊織くんと出会ったからだから」  耳の奥まで柔らかく触れる声のあと、薄い唇の間にころりとトリュフが押し込まれた。  頬を膨らませて味わうその表情に大和の顔が重なる。  ――大和が初めてだった。  俺と母さんが似てるって言ってくれたのは。  今この場に大和はいないのに、次から次へと当たり前に溢れてくる。  とっさに掴んだ手首からも、噛みしめた唇からも、自分が震えていることが伝わってくる。  顔の真ん中には痛いほどの熱が集まっていた。 「ねぇ、知ってる?」  ふわりと漂う甘いチョコレートの香りと同じ、柔らかな言葉。  俺はぼやけていく視界を膝の上の両手に固定したまま耳を澄ます。 「大和がバスケを始めた理由」

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