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『誕生日*翌日』side大和

 信じていなかったのは、俺の方だった。  ――あの時、伊織は俺に何を言おうとしていたのだろう?  勝手に推し量って、勝手に決めつけて、勝手に耳を塞いだ。  ――ちゃんと最後まで聞いていたなら、伊織はなんて言ったのだろう?  頭が重い。  ゆっくりと体から眠気が引いていくのと引き換えに鈍い痛みが残される。 「……」  見慣れた部屋の中、カーテンの隙間からこぼれる光に俺は「雨、()んだんだ」と頭の中で呟いていた。 「あら、起きてたの?」  遠慮がちに開けられたドアから母さんが顔を出し、静かな室内に優しい声が響いた。 「うん」  ただ頷くだけの返答ですら喉に引っかかりを覚える。 「どれどれ。うーん。まだちょっと熱あるわね。ご飯は? 食べられそう?」  額に載せられた母さんの手が冷たくて心地いい。  熱から来る体のだるさはあったが、心は自然と緩んでいった。 「うん」 「こっち持って来ようか?」 「ううん、下行く」 「そう。じゃあ用意するからその間に着替えちゃいなさい」  テキパキとタンスから新しい着替えを用意されて枕元に置かれる。  母さんの背中を見つめたまま俺の中には懐かしさがこみ上げてくる。  部屋を出ようとドアの取っ手に手をかけた母さんが振り返って不思議そうな顔をした。 「? どうかした?」 「ううん、なんか久しぶりだなって」  少しくらい声がかすれていても今なら全部この風邪のせいにできる。 「本当にね。大和が風邪引くなんて小学生以来かしらね」  小さくため息を含ませてから笑った母さんの表情に俺はうまく笑えなかった。  俺は用意された着替えへと手を伸ばして顔を背けた。 「着替えたら来なさいね」 「うん」  扉が閉められるとすぐに廊下を歩く母さんの足音が耳に届く。  母さんのなんでもない優しさですら痛くてたまらない。  自分に向けられる温かさに泣きたくなる。  俺はそんなものをもらえるような、もらっていいような、いい子じゃない。 「……っ」  ほんの少し気が抜けただけで俺の心はすぐに昨夜の雨の中へと戻ろうとする。  頭が重くて痛いのも、目のまわりがヒリヒリと痛むのも、胸の奥がガサガサするのも、その全部がこの風邪のせいだったならどんなによかっただろうか。    *  ――伊織は何度、俺の名前を呼んだのだろう?  俺はそれに応えることも振り返ることもできなかった。  それでもその声は未だに俺の中から消えてはくれない。  どんなに激しく雨音が耳を塞いできても……聞き慣れた、誰よりも愛しい、その声はずっと俺の耳の奥で響き続けている。  いっそのこと消してしまえたなら、忘れてしまえたなら、よかったのかもしれない。  自分の顔を濡らすのが激しさを増す雨なのか、それとも自分の内側から溢《あふ》れてくる涙なのか、俺にはもうわからなかった。 「……い、お……り……」  そう名前を口にしても、もう俺のそばに伊織はいない。  何を何から考えればいいのか、俺にはもうよくわからなかった。 「なんで」と「ごめん」だけが頭の中で回り続ける。  それでも歩き慣れた道を俺の体はちゃんと覚えていた。  ほとんど無意識のうちに俺は自分の家の前に立っていた。  水分を吸い込んで重くなったリュックに手を入れる気にもなれず、俺は家のチャイムを鳴らす。自分の家のチャイムを押すことなどあまりないので、こんな感じなのかと、傾いていく意識の隙間で思った。  伊織はいつもこうやって俺の家を訪ねていたのだと、そんなことまで考えて冷たくなっていく指先を握りしめた。 「大和?」  その声はインターホン越しではなく、こちらへと近づいてくる足音の中で響いた。  内側の鍵が回され、ドアが開けられる。  広がっていく隙間から視界に光が差していく。 「今日は伊織くんのところに泊まるって……え、ちょっと、大和?」  ようやくたどり着いた明るさに、驚いた表情の母さんに、俺の体から力が抜けていく。 「ご、めん……な」  その言葉は誰に向けてだったのか、俺にももうわからなかった。  ――俺の意識はそこで途切れた。    *  階段を下りていくと、出汁のいい香りが家の中を流れていた。  グゥとお腹が鳴り出し、空腹感が膨らむ。  リビングの扉を開けると、カーテンを閉めきっていた自分の部屋とは違い、一気に視界が明るくなる。テレビに映し出されている見慣れない番組に学校を休んだことを改めて実感する。  俺がいつもと同じ席に着くと母さんが青色の器を目の前に置いてくれた。 「いただきます」  両手を揃えた俺に、引き出しから風邪薬を取り出す母さんの声が重なる。 「まだ熱いから気をつけてね」  そうは言われても俺の体は空腹を訴えている。  母さんの言葉を耳に入れながらも俺は早速透き通った汁にお箸を入れた。  ふわふわの卵と刻まれたネギが白く太い麺に絡まる。  我が家では風邪の時はおかゆではなくうどんだった。  湯気が鼻にかかり、吐き出した息を箸の先にかけた俺は一気に口の中へと運んだ。  鰹出汁のいい香りと体の奥まで沁みていく温かさに食欲は増していく。  つるりと滑るように流れていく麺と美味しいスープになかなか箸は止まらない。 「伊織くんとケンカしたの?」  母さんが俺の向かいの椅子に腰掛けながら言った。  俺の視線は一瞬にして目の前のうどんからテーブルの上に置かれたグラスと薬、母さんの顔を通って再びどんぶりの中へと戻る。 「べつに……熱っ!」  動揺した俺の顔へ啜った麺の先がくるりと汁を飛ばしてきた。 「あー、もう気をつけなさいって言ったじゃない」 「……」  渡されたタオルで顔を拭きながらも、母さんが変なことを聞いてきたからじゃないかと俺は心の中でつぶやく。 「あなたたちもまだケンカするのねぇ」 「まだってなんだよ」  揺れ動いてしまった心の中を気づかれたくなくて、俺はさっきよりも大きな音でうどんを啜る。火傷で舌の先がピリついていたが俺は構わず食べ続けた。 「だって大和と伊織くんは小さい頃からずっと一緒でしょ? そういうのとっくに通り過ぎちゃったのかと思ってた。ケンカなんて随分久しぶりなんじゃない?」 「……」  ――ケンカ、なのだろうか?  甘く感じていた卵が急に味を失って喉に絡みついてくる。  息苦しさと同時に感じる胸の奥からせり上がってきた不安を押し込めようと俺はグラスの水を飲み込んだ。口の中に流れる冷たい温度が俺の呼吸を安定させてくれる。 「もうお互いに知らないことなんかないのかなって思ってたけど」 「そんなわけないだろ。知らないこと……だらけだよ」  思わず前のめりに重ねてしまった言葉に、自分でも驚いてしまう。  でも、そうなのだ。  知らないこと、だらけだ。  伊織が遠くに行くことをずっと知らなかった。  伊織がそれを俺に言わなかった理由も聞けなかった。  ただの『幼なじみ』で『親友』だった時の方がよっぽど伊織との距離は近かったのかもしれない。もし今もただの『幼なじみ』で『親友』のままだったなら、伊織はすぐに今回のことを俺に言ってくれたのではないだろうか?  ――もっと近づきたいと、誰よりもそばにいたいと、そう願って手を伸ばしたはずなのに。どうして今の方が、『恋人』になったはずの今の方が、こんなにも不安で遠くに感じるのだろう。  今の俺には、伊織が何を考えているのか、何を願っているのか、何も……本当に何も、わからなかった。 「ま、それもそっか」 「え」 「母さんだって未だに父さんのことわからないときあるし」 「は?」  俺が空にしたグラスを手にした母さんが立ち上がりながら困ったような笑顔を見せる。 「大和もそう。たとえ家族であっても一緒に暮らしていてもわからないことだらけなのよね」 「……」  ふわりと胸の奥が温かくなったのは飲み込んだスープのせいか、それとも……。 「でもきっとそんなふうにわからないって思うのも大事なのよね」 「?」  声に引っ張られてキッチンへと振り返った俺に母さんの手元から水の注がれる音が流れてくる。  母さんはガラスの中で上昇していく水面を見つめたまま声を小さく弾ませた。 「わからないってことは、わかりたいってことだから。知らないって悩むってことは、相手のことを知りたいってことでしょう?」 「!」  コトン、とテーブルに置かれた水がその表面を揺らす。  映し出されるのはどこに視線を向ければいいのか迷っている自分の顔。 「自分の中で相手のことをわかろうとしても、知ろうとしても、それはあくまで想像でしかないから。だから、ちゃんと聞かないとね」 「わかってるよ……」 「そんなふうに思える相手はもうそれだけで『特別』ってことだから、ちゃんと仲直りしなさいね」  ――伊織が『特別』だなんて、もうずっと前からわかっている。  わかっているからこそ、こんなにも苦しくてたまらない。 「……あのさ、もし聞いた答えが自分の思っているものじゃなかったら、どうすればいいのかな」  透き通ったスープの中で白い麺はもうほとんど残っていない。漂う薄黄色の卵と緑色のネギを箸で掬うようにつまみながら、向かいの席に再び座った母さんに俺は言葉を投げかけた。  母さんは視線をリビングの奥に向けたまま、テレビのリモコンでチャンネルをくるくると変えている。番組が切り替わるたびに聞こえる誰かの声はみんな天気の話をしている。そういう時間帯なのだろう。 「うーん、それがイイ意味なのか悪い意味なのかはわからないけど。でも、だからって変えてくださいって言って変えてもらえるものでもないでしょう?」  どこも同じような番組ばかりで飽きてしまったのか母さんはテレビの電源を落とした。  気にしてはいなかったけれど消されると途端に部屋の中が静かになる。  俺は両手でどんぶりを傾けながら視界の端で母さんの顔を盗み見る。 「どうしようもないってこと?」 「相手の気持ちを決めるのは相手自身だから。でも、それを聞いて自分がどう思ったかを伝えるのはしてもいいんじゃない?」 「……そう、かな」  俺の本音は伊織を苦しめるだけで、言ってはいけないものなのではないのだろうか。  それを伝えたところで何かが変わることなんてなくて、ただ辛くなるだけではないのだろうか。  そもそも俺にはその言葉を伝える資格が……。 「大和が知りたいって思うなら、伊織くんだって知りたいってきっと思っているはずよ」 「!」  戻した器の真ん中、小さな文字が見える。  飲み干したスープがその言葉と一緒に俺の体の中を温めていく。 「だって二人ともお互いが『特別』なのでしょう?」 「……うん」  思わず笑ってしまったのは目に飛び込んできた言葉のせいで、鼻をすすったのはうどんの熱のせいだ。  思い出されたのは今年の初めに伊織と一緒に引いたおみくじのこと。  あの時も俺は……。 「あら、縁起いいじゃない。これできっと風邪も早く治るわよ」 「だと、いいけど」  俺が飲み干したのを確かめた母さんが底に『大吉』と書かれていた器を引き取った。

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