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『誕生日*当日』side伊織(2)

 指先の痺れなんて大したことないはずなのに、たった一度振り払われたその手がまるでナイフの先で傷つけられたかのように痛かった。 「大和っ!」  追いかけることすらできなくて。  ただ名前を呼ぶことしかできなくて。  手を伸ばすことさえ……できなかった。  逃げるように飛び出していくその背中を視界に入れたまま、俺はその場から動くことができなかった。  バタンッ‼  乱暴に閉められたドアの音が廊下に響き渡り、その余韻が俺の体の中で反響する。 「……大和……」  届くことのない俺の声が静かな部屋の中に落ちていく。 「……っ」  泣いていいのは俺じゃない。  傷ついていいのは俺じゃない。  わかっている。  わかっているのに……。  震えたままの俺の体がソファに沈み込んでいき、さっきまでは見えていなかった天井のライトが視界の真ん中に入り込む。  両手を顔の前に持っていくと手首にはまだ太い指の跡が残っていた。  一瞬だけ、俺は大和のことをこわいと思った。そう思った自分に自分で驚いて、そして大和にそんな行動を取らせてしまった自分が情けなくて嫌になった。 「ご、めん……ごめん、大和」  何度謝っても、時間は巻き戻らない。  大和はもうこの部屋にはいない。  ――あの時、泣き出しそうな大和の表情に、自分が傷つけてしまった大和の痛みに、耐えられなくなったのは俺の方だった。  抵抗しなかったのは、大和の名前を呼んだのは、それでもいいと思ったから。  でも、それさえも大和を傷つけたんだ。  ――あんな形で触れたかったわけじゃない。  ――あんな形で伝えたかったわけじゃない。  ――あんな表情(かお)を見たかったわけじゃない。  何を選んでも、何を言っても、俺が大和を傷つけることに変わりはなくて。  どうすればいいのか、どうすればよかったのか、自分でもわからなくて。  それなのに大和が求める言葉を口にすることさえできなかった。  ――「待っていて」も「信じていて」も言えないくせに、今すぐに手を離すこともできない。  俺はどこまでもずるくて、卑怯で、臆病者だった。  大和の俺に対する想いが大きくなればなるほど、俺の中には嬉しさよりも不安で、幸せよりも罪悪感で、愛しさよりも苦しさでいっぱいになっていった。  ――同じように返すことができない。  ――同じように思うことができない。  ――同じように未来を描くことがどうしても、できない。  俺には、ずっとわからなかった。  その未来(さき)は、どうやったら見えるのだろう。  終わりなどないと、どうやったら信じられるのだろう。 「……雨?」  突然聞こえたその音にベランダ側へと視線を向けると、真っ暗な夜の中でもはっきりと分かるほど大粒の雨が窓の外を埋めている。その激しい雨音は俺の耳を塞ぎ、静かな部屋の中を満たし、すべてを飲み込んで閉じ込めていく。  昼間はあんなに晴れていたのに。 「!」  思わず振り返ったところで、大和はもういない。  開け放たれたままのドアからまっすぐ伸びる廊下は暗く、その先の玄関も確かめることができない。 「大和、傘……」  大和が傘を持っていないことなどわかりきっていて、家に着く頃にはずぶ濡れになっているだろうこともわかるのに……それでも俺は追いかけることさえできない。  俺から大和に言える言葉なんて、言ってもいい言葉なんて、ひとつもなかった。  ――なかったけど、それでも俺は……。    *  委員会が終わって時間を確かめると、約束の六時まではまだ一時間ほどあった。  廊下の窓から外へと視線を向けると、降り出した時よりも雨の勢いは増しているようだった。なるべく早く帰宅するようにと先生も言っていたけれど、体育館の電気はまだ点いている。 「……図書室でも行くか」  朝に入れ替えたばかりの折り畳み傘が入ったカバンを俺は肩に掛け直す。  俺がいつも使っているのは軽くて小ぶりのものだったけど、雨が降っていないのを確かめて少しだけ大きめの傘に変えたのだ。  ふっと小さく息を吐き出してから、俺は図書室のある廊下の先へと歩き出した。  ――それはキッカケと呼べるほど瞬間的なものではなかった。  いつもと同じように過ぎていく時間が、変わらず隣にいられる日々のすべてが、俺にとってはもうすでに『特別』だった。  ――俺にとっては大切な人がそばにいてくれる、それだけでもう十分だった。  隣に並んでいると、余計に実感する。  少し顔を上げないと視線は合わない。  傘の柄を握る手の位置もいつもより高くしないとうまく入れてあげられない。 「なぁ、俺が持った方が良くない?」 「別に大丈夫」  本当は少しだけ傘を持っている左腕が痛かったけれど、それを気づかれたくなくて傘の先をわずかに大和の方へと傾ける。 「でも、ほら、俺の方が入れてもらってるわけだし」  大和が手を伸ばしてきたけど、俺は軽く肩をぶつけて振り払った。 「別にそんなのいつもじゃん」 「……そうだけど」  ため息をついて向けられた視線を俺は無視して顔を前に向ける。  ――譲りたくなかった。  こんなことで時間が止まるわけではないけれど。  それでも少しだけ抵抗したかった。  身長、体つき、見た目にも明らかに俺と大和は変わってきている。  その変化は当然のもので、悔しく思ったり、ましてや寂しく思ったりするものでもない。  それくらい俺だってわかっている。  こうして一緒に歩いている日々もいつかは終わりが来るように、大和が俺と一緒にいることを優先しなくなる日も来るのだろう。俺が大和を大事だと思う気持ちもいつかは消えてしまうのかもしれない。  ――どうやったら、このままでいられるのだろう。  ――どうしたら、この場所を守れるのだろう。  ――『ずっと』なんてないってわかっているけど。 「テスト大丈夫なの?」 「え」 「え、って。もう一週間前だってわかってるよね?」 「……それはわかってるけど」  大和はいくつものことを同時に進められるほど器用ではない。  部活でクタクタになっているのにテスト勉強までするなんてできるはずはなく、部活が休みになってようやく試験勉強を始めるのがいつものパターンだった。もっと早くから取りかかっていればこんなふうに直前に焦ることもないと思うのだが、毎回これでなんとか乗り切ってしまっているので変わることはもうないのだろう。  いつもは平たい大和の背中のリュックが今日は重そうに膨らんでいる。 「明日から部活ないんでしょ? また、(うち)でやる?」 「‼ やるやる! よし、これで母さんに怒られないですむ」 「勉強するんだからな」 「わかってるよ」  大和の声が先ほどよりも少しだけ大きく響く。気づけば傘を叩く雨の音が少しだけ弱まっていた。  ――いつもと同じ帰り道。  薄い夜の色と雨雲に塞がれた空間では自分の影も見えないけれど、所々に現れる水溜りをよけながら同じ速度で並ぶ大和のスニーカーと俺のローファーが視界に入る。  肌に触れる湿った空気に薄く大和の汗の匂いが混じっていて、俺はそっと息を吸い込んだ。  たったそれだけのことに、俺の胸はぎゅっと痛む。  リュックの肩ベルトを掴む手から伸びる大和の太い腕は触れそうで触れない距離を保っている。 「……」  ほんの少し触れたところで、ぶつかったところで、きっと何も変わらない。  大和は何も変わらないのに、どうして俺はこんなにも苦しくなるのだろう。  このままでいてほしいと思う一方で、大和に抱いてしまう自分の気持ちの変化に自分でもよくわからなくなっていく。壊したくないのに、変わりたくないのに、目に見える変化さえ受け入れたくないのに、どうしてこんなにも心は思い通りにならないのだろうか。  そんなことを一人で考えていたからだろう、突然加えられた力に俺は思わず手を離していた。 「!」  気づけば、俺がずっと握っていたはずの傘の柄は大和の大きな手の中だった。 「え、ちょっと大和?」 「いいから。いい加減疲れただろ」  先ほどよりも高くなった傘の位置に少しだけ視界が広がり、こちらへと大袈裟なほど傾けられた傘の先からは雫が落ちた。  大和がこうやって俺を大事だと教えてくれる。  それがとても嬉しいのに、素直には喜べない。  いつまでこんなふうに思ってくれるのだろう。  いつまで大和は俺の隣にいてくれるのだろう。  大和だけは変わらないでいてくれないだろうか。  ――こんな自分勝手で身勝手な願いを持ってしまうほど、俺にとって大和はもう『特別』だった。 「……ありがと」  呟くように言った俺から大和は顔を背け、少しだけ歩く速度を上げた。 「まぁ、いつも傘入れてもらってるのは俺の方だし」  視線を上げると大和の耳がほんの少し赤くなっていて、俺は小さく笑ってしまった。 「もう傘入れっぱなしにしたら?」 「荷物増えるじゃん」 「教科書まとめて持って帰ってるくせに」 「……」  ――『大和が』というよりは、『大和と過ごす日常のすべてが』俺にとってはすでに特別だった。  きっかけ、なんてない。  俺の日常には当たり前に大和がいたから。  それを壊したくなくて、手放したくなくて、この距離のままでいたいと願って、自分から伸ばした手を一人で握りしめることしかできない。  ――大切で特別なものほど壊れやすいから。    *  薄いレモンの香りが鼻に届く。  丸い小さなケーキがお皿に載せられて二つ並んでいる。  手に取ったフォークの冷たさが指先から染み込んでくる。  銀色の先を真っ白な生地へと沈ませる。  わずかな弾力と柔らかな感触。  掬ったカケラを口の中へと運び、俺はそっと声を漏らす。 「……美味し、い」  レモンの爽やかな香り、深いレアチーズの味、口に入れた瞬間からそのすべてがジワリと舌の熱で溶けていく。  ――うっま!  大和ならきっとそう言う。  ――これフォークじゃなくてスプーンでよかったかも。  大和ならそう言って笑う。  美味しいのに、好きな味なのに、喉を通り抜けるたびに苦しくなる。  体の中に落ちていけばいくほど胸が痛くなる。  ――伊織が食べてみたいって言ってたから、頑張って並んだんだぜ。  そう得意げに自分で言ってしまうのが大和だ。 「っ……」  口の中で広がる味が俺にはもうわからない。  目の前のケーキはどんどん小さくなっていくのに、食べれば食べるほどその味は遠ざかり視界はぼやけていく。  プレゼントもケーキも嬉しかった。  一緒にいてくれて幸せだった。  ありがとうって。  好きだって。  そう言いたかった。  そう言ったなら大和はどんな表情(かお)をしてくれた?  どんな言葉を返してくれた?  今も一緒に笑い合えていた? 「や、まと……」  ――ただ信じる。  たったそれだけのことが俺にはできなくて。  信じていたら、それは『期待』に変わってしまうから。  『期待』は、お互いを縛り付ける重りになる。裏切られた時に大きな痛みになる。  今ならわかる。  どうして父さんが何も言わなかったのか。  言わなかったんじゃない。  言えなかったんだ。  ――「忘れて」なんて言えない。  でも、「忘れないで」とも言えない。  この先のことなんてまるでわからない。  わかるのは今だけ。  今、離れるしかないということ。  今、大和が好きだということ。  それだけだ。  ――未来(さき)のことなんて何もわからない。  ――このまま変わらずにいられる保証なんてどこにもない。  それなのに、大和の未来を自分に縛り付けることなんて、俺にはできない。  大和が大切だから。  大和が誰よりも大事だから。  だから……。 「!」  白いマグカップが震え、冷めきったコーヒーの表面が揺れる。  視線を向けるとテーブルに置いていたスマートフォンの画面が明るくなっていた。 「……父さん?」  表示された名前を確かめて、未だに小さく緊張する指を伸ばす。 「伊織、誕生日おめでとう」  耳に届いたその言葉に、まだ聞き慣れないのに不思議と懐かしく響くその声に、すぐには言葉が出てこなかった。

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