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第1話
あの子と初めて会ったのはもう10年以上前。
先の見えない雨の降る中、突然我が家に現れ、私に弟子入りをしたいと志願してきた。
ずぶ濡れの少年を慌てて迎え入れ、タオルとお茶を差し出すと強張った表情が和らぎ、15歳という年相応のあどけない笑顔を見せた。
あの時の笑顔は今も覚えている。
私の落語に対する想いを訥々と語り、中学の卒業式が終わった足でそのまま弟子入り希望で来たと言う。しかし、15歳という若さで落語家を目指すのはまだ早い。
「高校でいろんな可能性を知り、それでも落語をしたいと思うのであればまた来なさい。」
そう伝えたが、食い下がるあの子の目に気圧された。今考えると、あの目に魅入られたというべきか。
親御さんの理解もあり、それから落語家を目指して修行が始まったが、若さゆえか、スジも表現も物覚えが良かった。また、愛嬌もあり、多くの仕事仲間にも恵まれた。
二ツ目の頃には"噺家"としての華も現れ、寄席の高座だけには収まらず、ラジオやテレビにも出演するようになり、知名度に加えて高い人気を得るようになった。
そのような状況でも本業である落語の練習は怠らず、気がつけば10年も経たずに真打ちへスピード昇進。師匠として、これほど誇らしいことはない。
ただ、あの子が真打ちにした昇進した頃、"師匠と弟子"という間柄ではなくなってしまった。大きく関係が変化してしまった。
もっと早くにあの子の想いに気づくべきだったのか。
どこで対応を間違えたのか。
これからどうすれば良いのかも分からない。
いや、あの子ときちんと向き合って考えること自体をもうずっと避けているのかもしれない。
真面目に芸事と向き合い、そして日々を真摯に生きようと心がけていたはずなのに。気がつけば流れに身を任せるだけの私はずいぶんと浅ましく成り果てたものだと心が重くなる。
今日は、あの子と定期的に開催している落語二人会。
昔から世話になっている演芸場の興行不振が続いており、営業停止の危機を回避できるよう少しでも恩返しをしたかった。結果、テレビ出演などで多忙なあの子に頼み、ある交換条件と引き換えに二人会を開催していた。
知名度の高いあの子が出演するということで、いつも満員客止め。有り難いことだ。
約半年間、断続的に続いた落語二人会の定期公演も今日が最後。
本来、寄席終了後にスタッフ関係者の方々も含め、打ち上げで飲みに行くべきだろう。
しかし、あの子との落語二人会は違う。あの子のスケジュールが常に詰まっているという"名目"で打ち上げはしない。楽屋で三本締めを行った後は早々に解散する。
そして、私は毎回、寄席終わりにあの子の家に行く。最終日である、今日もそのルールは変わらない。
それがあの子、吉次との約束。
テレビ出演料などの実入りが良いのだろう。20代後半という若さながら、吉次は高級感漂うマンションに住んでいた。
玄関からすでに生活感を感じさせないほど清掃されており、典型的な日本家屋である我が家とは大違いで、感嘆してしまう。
「吉次の家はいつ来ても綺麗だな…」
リビングのテーブルに手荷物を置きながら呟く。独り言。しかし、聞き逃さなかった吉次は背中から抱きしめる。
「ダメですよ。2人きりの時は本名で呼び合う約束です、青葉さん。」
「…すまない。…優也。」
青葉は目を伏せながら、優也の手を振りほどき、リビングのソファーに座る。革張りのソファーは触り心地も座り心地も良いはずなのに"憂鬱"という言葉がまさに当てはまるような表情を青葉は浮かべ、一点を見つめたまま動かない。
そんな青葉に気づいていないのか、気づいていて様子を見ているのか。優也は終始陽気だ。冷蔵庫から缶ビール2本を取り出す。
「青葉さん、明日は仕事ないんですよね?
二人会ファイナルを祝って、軽く飲みましょうよ!」
リビングのソファーで視線を落としている青葉に1本を渡すと、当たり前のように、優也はすぐに触れられる近さで青葉の横に座った。
缶ビールを握りしめたまま動かない青葉を横目に優也は缶ビールのプルタブを勢いよく開ける。吹き出すビールの泡の音が心地良い。
「ほら、飲みましょうよ。」
優也は自分の持つ缶ビールを青葉の缶ビールに軽く合わせると飲み始めた。喉仏が上下させて気持ち良さそうに飲む様はとても美味しそうだ。
横目で見ていた青葉もプルタブを開け、一口飲む。生まれつき酒に弱くほとんど飲まないが、高座を務めた後の酒は喉に染みる。
…美味しい。
重苦しい表情は変わらないままだったが、心持ちが少し落ち着くと、伏し目がちのままでも自然と笑顔が出る。
その、口元の緩む青葉の横顔は優也にとって"引鉄"となるには十分だった。
青葉から缶ビールを取り上げるとソファーへ押し倒し、そして当たり前かのように唇を合わせようとする。
しかし、青葉は反射的に体を強張らせ、顔を背けてしまった。青葉の顔には苦悶の表情が浮かぶ。
そんな青葉に優也は一瞬驚き、そして苦笑しつつも青葉の顔を覗き込み優しく話しかける。
「…逃げないでよ、青葉さん。交換条件、でしょ?」
…優也の言葉は正しい。二人会開催の交換条件として約束したのは事実だ。この状況を変えることも逃げることも出来ないことは分かっている。いつものことだ。
しかし青葉の理性が頭の中で警戒音を鳴らし続けている。
「交友関係が広く、人気者の君なら引く手数多だろう?
どうして私みたいな、一回り以上も歳が違う中年男性をいつまでも相手にするんだ。
…もう十分だろう!」
思いつく限りの、安易な理由を並び立てて足掻いてしまう。
いつものことだ。
「…また、ですか。俺の気持ちを何度も伝えているのに分かってくれないのは流石に俺だって傷つきますよ?
どうすれば、俺の気持ちが伝わるのかな…。
一目惚れって上手く言葉に出来ないし…。」
軽くため息をついた後に話し出した優也の口調は至って優しいが、その場の空気を支配しているような迫力も含んでおり、青葉は言葉を続けて上手く出すことが出来ない。
そんな青葉の機嫌をとるかのように、優也は優しく青葉の頬を撫でる。
「青葉さん、何が不安なんですか?傷つくのが怖いんですか?
教えてくださいよ。俺、全部、乗り越える自信がありますから。」
…そう、怖い。自分が怖いんだ。
師匠として、弟子を正しく導かなければいけないはずなのに、この関係を変えることができず、目の前の快楽に流されそうな自分が怖い。
心のどこかで流されたいと思っている自分も怖い。
そして、そんな本音を言えなくて、逃げる口実を弟子に転化している自分が浅ましくて嫌いだ。
青葉は声を出せない。声に出せば全てを認めることになりそうで、でも全てを認めれば後戻りは出来ないと青葉の理性が激しく警告していた。
「青葉さん、リラックスして。今日が最後なんだ。
何も考えなければいい…」
狼狽える青葉を見透かしているのか。
優しく頬を撫でていた指で青葉の顎を掴むと優也はゆっくりと唇を合わせる。青葉が驚かないように優しく。啄ばむように。
青葉は目を閉じ、耐える。
そんな青葉に苦笑が止まらない優也だが、少しずつ青葉の唇を解きほぐしていく時間が愛おしいのも事実。青葉の頬や髪を優しく撫でながら、口付けを続ける。
やがて青葉の口が半開きになった隙を逃さず、舌をするりと滑り込ませる。
「…んっっっ!きち…っじ!…やっぱり、もう!」
初めてではないのに。いつものことなのに。
絡んでくる優也の舌、流れ込む唾液の感触は心地良い刺激しか生まず、青葉の理性が飛びそうになる。
そして、どうにか堪えた青葉の理性が"これ以上はダメだ"と警告を鳴らす。
その理性に従い、青葉は顔を少しでも背け、優也の体を押しのけようとするが。
青葉の抵抗もいつものこと。優也は動じることもなく、青葉の腕を振り払い、青葉が口を閉じられないよう、親指を青葉の口内に押し入れて顎を掴む。
「約束、守っていないですよ。
今の俺は"吉次"じゃない。"優也"です。
…約束を2回破ったんだから、"ペナルティ"ですね。」
「ゆうっや!こん…な!…関係、もうっ…や…めっ!」
優也の口調は優しいままだったが、苛立ちが色濃く出ているのは青葉にも伝わっていた。
自分を押さえつけ見下ろす優也に、涙目になりながら青葉は声を絞り出す。訴えても、優也が心変わりすることも、何かが変わることはないことも分かっているのに。それでも、この関係は歪だと理性が虚しく抗う。
「青葉さんってキスが大好きでしょ。
もっと自分に素直になってくださいよ。」
青葉が涙を流し、訴えることもいつものこと。
優也の色情を駆り立てるものでしかなかった。青葉の涙を撫で取ると口に含む。味はしない。それでも優也は欲情し、頬が緩んだ。
優也は涙を撫でとった手を青葉の顔に添えて動けないようにし、再び唇を重ねると青葉の舌をきつく吸い上げる。そして舌をねっとりと絡ませる。
ほぼ同時に、嫌がるような、くぐもった青葉の声が低く響いてくる。
…まだ大丈夫。いつもどおりだ。
今まで何度も体を重ね、本当に嫌がる時の青葉を知っている優也はその声を無視し、青葉の口内を執拗に愛撫する。青葉の舌が逃げようとすれば、追いかけて吸い上げて絡ませる。
青葉が素直に応えるまで。何度も何度も。
同時に、口内に押入れていた親指を人差し指と中指に入れ変え、青葉の唇や口内を優しく撫でる。
…青葉の全てが愛おしい。ずっと貪り続けたい。
その想いが優也の行為を深くさせていた。
一方の青葉は優也を押しのけることはもちろん、口を閉じることもできず、優也を受け入れるしか道は残されていなかった。
自分の舌を優也の舌で撫でられ絡み合う感触、
流れ込む優也の唾液と自分の唾液が混じり合い喉奥に流れ込む感触、
優也の指が口内を蹂躙する感触、
舌が絡み合う卑猥な音、
静かな部屋に響き渡る2人の荒い呼吸音。
優也との口づけ全てが青葉の快楽に繋がり、体に蓄積されていく。
そして何より、相手が優也であることが青葉をひどく興奮させた。優也と唇を重ねれば重ねるほど優也から今まで与えられ続けてきた様々な優しくて酷い快楽を思い出し、そしてこれから溺れる快楽に期待している自分がいる。
さっきまであんなに嫌がったのに。
優也と舌を深く絡ませるほどに身体中が快楽をより求めて痺れ、思考が鈍化する。自分の中の欲望が膨れ上がって止まらない。
…やっぱり優也から逃げることは出来ない。
こんな時まで弟子である優也を言い訳に利用している自分に嫌悪しつつ、青葉は結局、いつものように理性を手放した。
同時に、一筋の涙が青葉の頬を伝う。
優也は青葉が拒否しなくなったことに気づいた。
…余計なことを考えないように、もっと深く落とさないと。
素直になった青葉を愛おしいと思うと同時に、優也の加虐心に火がつく。
優也の深い口付けに必死に応えようとしている青葉の呼吸に合わせて、まるで喉奥さえも支配したいかのように、優也はわざと舌を深く差し込む。そして、鼻の根元を押さえ、青葉の呼吸の強制的に止めた。
息がまともに出来ないことに青葉は驚き、低く唸り、優也の体の下でもがく。が、優也はそんな青葉の動きを制止し、青葉の口の中で舌を蠢かさせ、ゆっくり堪能する。青葉の体は震え、唸り声は止まらない。
それから、10秒も経たないうちに青葉は解放された。
わずかな時間だったが、青葉は肩を上下させて新鮮な空気を求める。苦しかったのだろう。目には涙も見える。
そんな青葉の頬を優也は優しく撫で、耳に口づけするとそのまま青葉の耳を甘噛みして弄ぶ。そして青葉がいつも望むような優しい口付けをする。まるで頑張ったご褒美かのように。その優しくて甘美な快楽に青葉は飲まれ、もっと"ご褒美"が欲しいと言わんばかりに優也に縋り付いてしまう有様だった。
優也はその"アメ"と"ムチ"を何度も繰り返した。しかも、繰り返すごとに少しずつ時間を伸ばし、青葉を追い詰める。
息の止まる時間が長くなるほど、背を反らして震えてもがき、優也の許しを請うため抱きつく。
解放される時間が長くなるほど、優也から与えられる優しくて甘美な快楽がもっと欲しいと空気を求める荒い息のまま甘えるように優也に抱きつく。
優也のことしか考えられないように。
優也に支配される愉悦を思い出すように。
青葉の限界を見極めながら時間を伸ばし、優也はゆっくりと確実に追い詰める。青葉も当然のようにされるがまま受け入れていた。
体を強制的に管理され、本人の意思とは関係なく追い詰められる苦痛。その苦痛に青葉が興奮することも、その苦痛から解放されたあとの快楽に青葉が溺れることも、青葉と関係をもつようになってから優也は知った。
一目惚れであることは間違いないが、青葉の被虐性欲を知ってから、愛おしさはより深まり、加えて独占欲が止まらなくなっていた。
…いや、被虐性欲が青葉にあることは、本能的に優也は最初から分かっていたと言った方が正しいのかもしれない。不思議と最初から青葉に苦痛を与えることに抵抗はなかった。
優也による"アメ"と"ムチ"が長引くほどに、触れ合う"感触"と"音"は2人の中で大きく何層にも響き渡り、快楽と興奮が肥大していく。
理性を手放した、今の青葉にとって、興奮と快楽を繰り返し与え続ける優也の一挙一動のことしか考えられないのだろう。
青葉の両腕はまるで縋り付くかのように優也の背中に回され、きつく指を立てている。おそらく青葉は無意識なのだろうが、優也から離れられなくなる青葉の姿は優也にとっていつもの光景だった。
…もう、十分かな。
優也は長く深く続いた口付けをやめ、体を持ち上げると青葉を見下ろす。
息が上がり、恍惚した顔で優也を見上げることしか出来ない青葉にはもう抗うような素振りは少しもない。優也は目を細め薄く笑うと、青葉の頬を優しく撫でる。
そして、青葉の口端から漏れる、青葉自身のものとも優也のものとも分からない唾液を撫で取り、青葉の唇に塗る。そのまま青葉の半開きの唇を弄びながら、優也は考えていた。
「"ペナルティ"、どうしましょうか…」
問いかけとも独り言とも取れるような優也の言葉に青葉は応えることはない。ただ、優也の続く言葉を待っていた。
「今日は…、そうだな、とってもいやらしい青葉さんを見たいな」
言葉とは裏腹に、20代の若者らしい満面の笑みで告げる優也。
青葉はこれから何が始まるのか少しも分からなかったし考えたくもなかった。ただ、優也の全てを受け入れることしか考えていなかった。
そう。これもいつものことだ。
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