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第3話

夕暮れの陽はもう残りわずか。月が健気に自己主張を始める頃。 薄暗く音もない部屋の中、吉次はソファに大きく体を預けて、視線は宙を舞っていた。何度も大きなため息をつく。 リビングのテーブルをはじめ、床にも空いた缶ビールが数えきれないほど転がっている。テーブルの隅には吸い殻がうず高くなった灰皿も見える。 「あー!もう!」 行き場のない気持ちを口に出すと起き上がり、キッチンに向かった。暗い部屋の中では、冷蔵庫庫内の光は眩しい。吉次は目を細めながら、冷え切った缶ビールを2本取り出すと、再びリビングのソファーに陣取る。 いつもの癖でテレビのリモコンを手に持つが、眉間にしわを寄せ、電源スイッチを入れることなく、テーブルに戻した。 その際、テーブルに置いていた携帯電話が視界に入る。液晶画面が光り着信を知らせているが、確認もしないまま裏返しにして伏せた。 缶ビールを手に取りプルタブを開けると、小気味好い音が部屋に響く。何本目か分からない缶ビールを飲み始めると、ほぼ同時にインターホンが鳴り響いた。しかし、吉次は動かない。対応するつもりもなかった。何度もインターホンが鳴り響く中、缶ビールを飲み干すとソファーに横になり、時間が過ぎることを待った。 しかし、どんなに待ってもインターホンの音は鳴り止まない。業を煮やした吉次はモニターの覗き込むと、そこには、師匠・吉平太が映っていた。 吉次は驚き、そして会うことに思い悩む。しかし、ここで居留守を押し通しても、いつかは会わなければならない。腹を括り、エントランスの自動ドアを解除した。 数分後、玄関のドアホンが鳴り響く。2本目の缶ビールを何口か飲んで意を決すると、玄関に向かった。 ドアスコープから覗くと、吉平太は白シャツにチノパンツという、ラフながらもきっちりした身なり。 …師匠らしい、な。 性格を表しているような吉平太の身なりに、吉次は口元を緩ませる。しかし、対称的に吉平太の顔は険しい顔をしていた。吉次は口を一文字に結び、ドアを開ける。 「突然どうしたんですか?わざわざこんなところまで…。」 気まずさで吉平太を直視出来ない吉次は視線を外したまま話しかけた。 そんな吉次に、吉平太は軽くため息をつく。そして、真っ直ぐに見据えて話しかける。 「どうして、一門の集まりに顔を出さないんだ。 何も連絡してこないし、電話しても繋がらない。」 瞬間、弾けるように吉次の視線が吉平太を捉える。 「こんな状況で外に出れるわけないじゃないですか!!!」 が、自分の声の大きさに驚き、また視線を逸らしてしまう。 「…でも、電話はすみませんでした。 今、知らない人からの着信ばっかりで電話出てないんです」 吉平太は再びため息をつき、できる限り、優しく話しかけた。 「次の集まりには必ず来なさい。いいね?」 その言葉に吉次は驚き、戸惑う。 「…この前、師匠に落語家は廃業するとお伝えしたよね? もうその頃は門下ではありません。 …あ、廃業には協会で手続きが必要ですか? そうであれば、早めに手続きします。それでいいですか?」 誰に見られているか分かっているものじゃない。手短かに会話を切り上げたかった吉次だったが、今度は吉平太が声を荒げてしまう。 「私はお前の廃業を認めていない!!!」 吉次を真っ直ぐに捉えた吉平太の瞳は怒りに満ちている。そして、耳を立てていなくても隣人に聞こえてしまうほどの声量。 吉次は今までこれほど吉平太に怒鳴られたことはなかった。驚いて返答ができない。いや、なんと答えればこの場が収まるか分からなかった。 ただ、もう立ち話で済まないことは分かった。 「…中、汚くて申し訳ないのですが、入られますか?」 吉平太は黙って頷き玄関に入ると靴を脱ぎ始めた。 中学生の時、落語を見る機会があり、その時に吉次は吉平太に一目惚れをした。ずっと吉平太の側にいたくて、中学校を卒業したら、すぐに弟子入り。吉平太に褒められたくて好きになって欲しくて落語の練習を熱心にした。そして、一人前になったら告白しようとも心に決めていた。 それから10年弱。先月、真打ち昇進の話があった。自分は他の弟子と比べて特段可愛がってもらっている自覚もあったし、真打昇進の話があった時には自分のことのように吉平太は喜んでくれたので一人前と認めてくれたのだろうと思っていた。受け入れてもらえる可能性はあると信じて告白した。 しかし、振られた。 「同性」「妻子持ち」という断られる理由は予想していたが、「子供にしか見えない」は想定外だった。"子供がどんなに大人になっても親からすればいつまでも子供"ということなのだろう。吉次にとって、"真打ち"は何も意味を持たなくなったし、"落語家"を続けることも意味がなくなった。 そして、それから数日もしないうちに、有名アイドルとの密会が週刊誌に載ってしまった。最悪のタイミングだ。テレビ業界の人に目をかけられ、吉平太の寛容さもあり、落語以外の仕事もしていたのだが、テレビ収録の際に知り合った子と遊び感覚で会っていた。今、携帯電話が鳴り止まないのも、自称・マスコミ達からだ。 吉平太に振られたうえにアイドルとのスキャンダル。吉次にとってはもう全てがどうにでもよくなり、廃業する旨を先日伝えていた。 …今思えば、前座修業が一番楽しかったな。 何にも考えずに師匠のそばにいられた。 吉次はそんなことを考えながら、吉平太をリビングに案内した。リビングの照明スイッチを入れると、床に散らばった空き缶が目に入ってくる。酔っているため足元がおぼつかないが、邪魔にならない程度に空き缶を部屋の隅へ寄せ始める。 「汚くてすみません。適当に座ってください。」 空いた缶ビールが散乱し、吸い殻が山盛りの灰皿。部屋は煙草と酒の匂いで満ちている。吉次のやさぐれた生活に驚いた顔をしつつも、吉平太はソファーに腰掛けた。 「さっきは大声をあげてすまなかった。 …しかし、とりあえず元気にしているようで良かった。 連絡が取れないから倒れているかもしれないと心配していたんだ」 「…すみません。」 片付けも程々に、吉平太と斜めに対峙する位置に吉次は正座した。 「俺、師匠に迷惑かけていますし、落語家を廃業しようと思っています。」 改めて廃業の意思を吉次は伝える。直視出来ず、俯いたままだ。そんな吉次に吉平太は強い視線を向ける。 「私のことは気にしているなら、なおさら廃業なんてしなくていい。 スキャンダルもしばらくすれば落ち着く。落語への情熱はあるんだろう? お前ほどの才能があるのに勿体ない。もうすぐ真打昇進なんだ。 これからも大勢のお客様を楽しませて欲しい。」 吉平太の言葉の意味は分かる。 しかし、自分の告白には全く触れられず、まるで無かったことにされているようで吉次は悔しかった。俯いたまま、自然と拳に力が入る。 「申し訳ありませんが、落語への情熱はありません。 …先日、お伝えしましたように、師匠に一目惚れして弟子入りしたんです。 俺の気持ちが断られた今、落語を続ける意味はありません。」 途端に吉平太の視線が揺らぐ。強い視線は無くなり、困ったような表情を見せる。 「それは…その…、吉次の気持ちに応えられなくてすまないが、 キッカケはどうであれ、落語を10年近くやってきたんだ。 全く落語に興味ないことはないだろう? …真打ちの吉次をみんな待っているんだ。」 "落語家として成功することが吉次の幸せ"だと、吉平太は信じて疑っていないような口ぶり。吉平太は言葉を続ける。 「…それに、雑誌を見たが、 あのアイドルの子とは付き合っているんだろう? 可愛い子じゃないか。今は難しいかもしれないが、いずれ結婚…」 「やめてくださいっ!!!」 突然、吉次は立ち上がると、吉平太に詰め寄った。 「あんな女と俺が結婚!?あり得ない!!!ただの遊び相手ですよ! …大体、師匠が俺を受け入れてくれたら、女なんて最初から要らない!」 女なんて性欲処理程度のもの。その女との結婚を進めてくるなんて、吉次にとって心外だった。それに、告白した自分の気持ちを蔑ろにされているとさえ感じていた。酔っていることもあり、師匠とはいえ、叫ばずにはいられなかった。 そのまま、物事全てを悪い方向にしか考えられず、吉平太にぶつけてしまう。 「真打ち昇進が決まっているのに、 本人が廃業するなんて師匠として体裁が悪いんでしょ!? はっきりそう言ってくださいよ!」 「違う!どうしてそんなことを言うんだ!」 「…あぁそうだ、良いこと思いついた。」 そう言うと、吉次は吉平太を強引に立ち上がらせると無理やりベッドに連れて行き、押し倒した。 「師匠に振られた失恋の思い出にセックスさせてくださいよ。 そうしたら、お望み通り、真打ちになりますよ。それでいいでしょ!?」 「吉次、悪ふざけもいい加減にしないか!」 吉平太は逃げようと暴れるが、吉次は一回り以上若いうえに体格も良い。20代ゆえの腕力・体力には勝てない。あっという間に組み敷かれてしまう。近くのハンガーから吉次はネクタイを取ると、吉平太の両手を強引に縛りあげ、ベッドフレームに括りつけてしまった。 「吉次、やめなさい!」 その間、叫び続ける吉平太。 いくら酔っ払っているとはいえ、吉次は罪悪感に襲われ気持ちがグラつく。 「…あぁ、うるさい。…うるさい!」 もうすでに過ちは犯している。今更やめるつもりはなかった。 近くにあったタオルを無理やり吉平太の口に押し込んだ。吉平太のくぐもった声だけが部屋に響く。 「…そうだ。気持ちよくなれる薬がありますよ」 一時期、女性とセックスする時に使っていた液体のことを吉次は思い出した。布に染み込ませ、気化した匂いを嗅けば嗅ぐほど気分が高揚する、あの薬。ベッドサイドのデスクを探してみると、多少残っていた。 「男とは初めてですか?少しでも気持ちよくなってくださいよ」 そういうと、吉平太の口に押し込んでいるタオルに、液体全てを染み込ませた。甘ったるい匂いがほのかに香る。吉平太のくぐもった声は止まらない。 仰向けの吉平太に吉次は馬乗りになると、震える指でシャツのボタンを外す。タオルで息苦しいのか、この状況に緊迫しているのか、呼吸のたびに吉平太の胸が大きく上下している。 酔っていても緊張してしまう。まるで強い力で触れると壊れてしまうかのように優しくゆっくりと吉平太の肌に触れた。無駄のない、細身の体。年齢の割に肌は柔らかく、ハリがある。ずっとずっと触れたかった体。触っているだけでも興奮してしまう。 やがて、躊躇いがちに吉平太の首筋に舌を這わせた。途端、体をよじり、声にならない声をあげる吉平太。その姿に吉次はかえって興奮し、ゆっくりと舐る範囲を広げていく。 乳首に触れると、吉平太は体を震わせた。少しだけ指の力を入れて摘むと、さらに体が震える。 …乳首が敏感なんだな。珍しい。 そう確信した吉次は、乳首は念入りに愛撫し始めた。 暴れる吉平太の身体を押さえつつ、乳輪を指で丹念になぞったり、乳首を唇で弄びながら、刺激を与える。すると刺激に反応し、乳首が僅かにそそり立つ。 まるで果実が熟すのを待っていたかのように、吉次は吉平太の乳首を口の中に含んで、舌先でより強い刺激を与えた。吉平太のくぐもった声が一際大きくなったが関係ない。むしろその声に吉次は興奮していた。乳首を吸い上げつつ甘噛みしたり、舌先で転がす。 吉平太の体はずっと震え続けていた。 吉平太の右乳首をねっとり愛撫しつつ、吉次の右手は吉平太の左乳首を弄び刺激を与え始めた。吉平太は諦めることなく抵抗するが、吉次には響かない。 吉次の愛撫でぷっくりと勃起した右乳首は、唾液でテラテラと光ってずいぶんと卑猥に見える。吉次は満足気な笑みを浮かべると、今度は吉平太の左乳首を口に含んで愛撫する。再び吉平太の体は大きく震えた。しかし逃げ場はない。左乳首を愛撫され、勃起した右乳首も爪で引っ掻かれたり、指で弄ばれる。その屈辱と快楽が入り混じり、吉平太は涙が溢れた。 左乳首もぷっくりと勃起させ、満足感を味わいながら吉次は顔を持ち上げた。見ると、吉平太の視線は泳ぎ、熱を帯びている。だいぶ薬が効いているようだ。 …いや、薬が効きすぎているかもしれない。 吉次は恐る恐る吉平太の口からタオルを抜き取った。吉平太はまるで熱に浮かされているかのように視線は定まらず、口も半開きのまま、言葉もすぐに出てこない。そんな吉平太の顔に吉次は欲情を掻き立てられた。この機会を逃したく無かった。 「…師匠、好きです。」 吉次は意を決して、唇をゆっくり重ねた。初めての吉平太とのキス。ずっと夢見ていたキス。緊張からどうしても震えてしまう自分に自嘲してしまう。そして、涙も出てしまう。止まらない。 「好きだ!好きだ!好きだ!好きだ!」 吉平太に抱きつき、子供のように泣きじゃくる。堰を切ったように感情が溢れ出していた。一緒に過ごした今までの楽しかった時間や、告白を断られた絶望感、好きな人を犯している罪悪感、いろんな思いが交錯していた。そして、「吉平太が欲しい」という気持ちを捨てられない自分にも気づいていた。 「きち…じ…」 泣き叫ぶ声はもちろん吉平太も聞いていた。何か声をかけようとするが、薬のせいで口がうまく回らない。 しかし、その吉平太の声で吉次をかえって冷静さを取り戻した。顔を上げた吉次はもう泣いていなかった。迷いもなくなっていた。吉平太の顔に手を添え、親指を口内に押し入れると深く口付けする。時に唇を甘噛みし、時に吉平太の舌を刺激する。薬の効果か、吉平太は抵抗しない。 薬の効果は全身にも表れているようで、吉次が吉平太のボトムスを無理やり脱がせても大きな抵抗はなかった。 そのまま無理やり押し入れても良かったが、良心の呵責に耐えられそうにもない。 「きち…じ…はな…し…を…しよう」 薬のせいでおぼつかないながらも吉平太は必死に話しかける。 しかし吉次は何も話したくないし、聞きたくもなかった。再びタオルを吉平太の口内に押し入れると、ベッドサイドテーブルからローションを取り出す。 吉平太の足を持ち上げると、ローションを指に取り、アナルに差し込んだ。途端、吉平太の体が震える。 「力抜かないと、痛い思いするのは師匠ですよ」 そう言いながら、たっぷりとローションをぬりこめる。そして、何度かほぐしてみるが、やはりきつく閉じようとする。吉平太には苦痛しかないことが予想されたが、やめるつもりはなかった。 吉次はコンドームを取り出してはめると、無理やり押し入れた。 「んーーー!!!」 吉平太は今までにない大きな声を上げる。目には涙が浮かんでいる。 そして、吉次も余裕はなかった。 …きっっっつい!!! 締め上げられるような感触。ゆっくりと腰を動かし始めるが、吉平太にとっては苦痛しかないのだろう。叫び声のようなくぐもった声しか聞こえてこない。 それでもやはり吉次はやめるつもりはなかった。腰の動きを早めると、肉体的にも精神的にも苦痛の限界を超えたのか、吉平太は意識を失った。 間をおかず、吉次は達した。 数時間後。 吉平太は意識を取り戻す。薄暗い部屋の中、見慣れない天井にベッド。ここがどこなのか、自分に何があったのか、思い出すまでそう時間はかからなかった。そして、夢であって欲しいと思うが、身体のあちこちが悲鳴を上げていて、現実だと思い知らされる。 自分の体を確認すると、両手は解かれていた。全裸だったが、タオルで拭き上げられたのだろう、肌に嫌な感触はない。ただ、あの薬のせいか頭が重い。思考がまとまりそうにもなかったが、上半身をどうにか起こす。 「起きました?」 薄暗い部屋の奥から吉次が現れた。そして、すぐさま土下座をする。 「許される行為ではないと承知していますが、申し訳ありませんでした。 殴られることも訴えられることも、 いえ、師匠の気が少しでも済むのであれば、どんなことも覚悟しています。 …そして、破門にしてください。」 吉平太は思い返していたが、その中でも泣いている吉次が忘れられなかった。なぜなら、今まで泣いている吉次を一度も見たことがなかったのだ。吉次はどんな時でもいつも笑顔だった。そんな吉次が泣くということは、それほどまでに思いつめていたということだろう。声を荒げて叱る気にはどうしてもなれなかった。 「吉次がやったことは許せないことだが…。 吉次の気持ちを何年も蔑ろにして、私は甘え続けたんだろう。 結果、追い詰めてしまったことは私の責任だ。…済まなかった。」 吉平太の素直な気持ちだった。しかし、その言葉は吉次を傷つけていた。 「…どうして?どうして謝るんですか? 酷いことしたのは俺ですよ? どうして俺のことを怒らないんですか? 嫌いにならないんですか? …期待するじゃないですか!!!」 吉次は感情のままに叫ぶと、立ち上がり、財布と携帯電話を手に取る。 「師匠の優しさは残酷すぎます!」 吉次は叫ぶと、そのまま自分の部屋を飛び出す。目に光るものが見えた。 …また泣かせてしまった。 吉平太は深いため息をついて俯いた。 吉次は結局、遊び相手であるアイドルのセカンドハウスに転がり込んでいた。マスコミが自宅に張り付いているため、女性がセカンドハウスを利用していることを知っていたし、またマスコミにセカンドハウスの存在がまだ気づかれていないことも知っていた。 ただ、転がりこんだのは良いものの、相変わらず携帯電話を確認する気になれず、誰かに連絡する気にもなれず、ベッドでダラダラと過ごしていた。 何度もため息をつきながら。 「そんなに週刊誌に載ったことがショックなの?」 揶揄うように女性は吉次に話しかける。自分の師匠を犯して落ち込んでいるなんて言えるわけがない。 「あー、まぁそんなとこ」 吉次は濁す。しかし、それもどうにかしないと。本当に真打ちに昇進するなら、身辺整理しないといけない。 「俺たちさ、別れよう」 「…何を言っているの。私達は付き合ってもいないじゃない。」 女性は微笑む。 芸能界で生きるために必要な強さだった。 吉次も笑う。 「そうだった。 …でもさ、ここにはもう来ないから、最後にもう1回ヤらせてよ」 「高くつくわよ」 2人は笑いながら、ベッドで絡み合い、快楽を楽しんだ。 翌日、タレント活動の契約している事務所のマネージャーに吉次は連絡をとった。音信不通だったことをひどく叱られながらも、アイドルとの関係を絶ったことを伝え、今後のことを相談した。タレント活動は自分の性に合っているので、できれば続けたかったのだ。すると、もう既にお詫び行脚のスケジュールが組まれていた。 …あとは師匠か。 今までのことを考えると吉次は気持ちが沈む。また、どんな顔で会いにいけばいいか分からないし、会っても感情が昂ぶって何を言い出すか分からない懸念があった。 考えあぐねた結果、吉次はマネージャーに同席してもらうことにした。もし落語家を続けるならタレント活動とのスケジュール調整もある、そう言い含めて。 数日後、意を決して、吉平太の家に向かった。出会い頭早々に吉次は再び土下座した。もう、そうするしか他になかった。 「今までのこと、本当に申し訳ありません。どんな処罰でも受けます。 …そして、破門にしてください。」 同席したマネージャーや女将からすれば、週刊誌スキャンダルのことを指しているとしか思わないだろう。しかし、もちろん、吉次と吉平太にとっては、"あの日"のことも含まれていた。 吉平太はしばしの間を置き、答えた。 「…これからも落語の精進して欲しい。」 それは、真打ち昇進に向けた準備が始まることを指していた。 そのまま、真打ち昇進の準備や今後のタレント活動とのスケジュール調整の話し合いになったが、吉次は顔を上げることが出来なかった。吉平太に合わせる顔がない。それに、吉平太が言ったから真打ちになるだけであって、吉次は真打ち昇進への思い入れなどないのだ。何を聞かれても曖昧な返事を繰り返してしまう。結果、真打ち昇進の準備は女将や弟弟子が中心にすることになった。それは吉次が吉平太と顔を合わせることが減るということ。吉次は内心、安堵した。 謝罪のため、マネージャーとこれからテレビ局へと向かう時。吉次は吉平太に呼び止められた。気まずさでまともに顔を見ることはできず、顔を背けてしまうが、吉平太は話を続ける。 「2人だけで会えないか?話し合いたい。」 どこまでも優しい。でも、その優しさが吉次には辛かった。話し合ったところで、吉次の罪や恋心が消えるとは思えなかった。 「どんな償いでもしますので仰ってください。 ただ、もう会わない方がお互いのためだと思います。 …自ら廃業はしませんが、真打ち昇進が終わったら、 しばらく寄席からは距離を取るつもりです。」 「どうして一人で勝手に決めるんだ!」 吉平太が苛立っていることは分かったが、かと言って吉次は考えを変える気は無かった。無言で一礼すると、吉次は逃げるように吉平太宅を後にした。 それから真打ち昇進披露興行まであっという間だった。吉平太から吉次へ連絡は何度かあったものの、結局、話し合うことのないまま当日を迎えた。 披露興行は目出度いお祭りのようなものだが、残念なことに、強い雨だった。雨が止む雰囲気はない。しかし、普段よりも楽屋は賑やか、というか五月蝿い。 その中には当然、吉平太もいるが、口上に同席する師匠方への挨拶回りや弟弟子への指示出しなどをし、意識的に吉次は近づかないようにしていた。 時間もだいぶ経った頃、高座から吉平太の出囃子が聞こえる。堪らず、吉次は舞台袖に移動して落語を聴いた。 …親しみやすさと上品さの調和が取れてて、聞いてて気持ち良いな 吉平太の、凛として清楚感のある語り口調が吉次は好きだった。そして、人情噺が得意だが、気軽に触れられないような色気があるのも好きだった。 …でも、喉が? 言い回しが辛そうに聞こえた。しかし、周りはもちろん本人も気にしている素ぶりもない。拍手で終わった。 顔を合わせるのが気まずく、吉平太が高座を降りる前に吉次は袖から消えた。 その後、色物が始まるが、ふと気づくと吉平太の姿が楽屋にいない。 …こんな雨の日に外に出るわけないし。 距離を置いた方が良いとは言ったものの気になる。 心配になった吉次がさりげなく探したところ、寄席の裏側にある小さな縁側の下で一人佇んでいた。しかし数センチ先は雨の中。風が吹けば、あっという間にずぶ濡れになってしまう。 吉次は思い悩むが、楽屋から自分の小物入れを持ってくると意を決して話しかける。 「中に入ってください。風邪をひきますよ」 突然声をかけられた吉平太は驚き、吉次に視線を送るが、再び視線を雨の中に戻す。 「この程度、大丈夫だよ」 ここを離れたくないらしい。吉次は軽くため息をつく。 「そう言って、2年前、風邪をひいて大変だったじゃないですか」 2年前のことを思い出し、吉平太は目を丸くした。そして苦笑いが出てしまう。そんな吉平太の横で吉次は言葉を続ける。 「あと、今日、喉の調子があまりよくないですよね? 開封済みで申し訳ないですけど、このノド飴を良かったらどうぞ。 最近、気に入っていて、味に癖があるけど即効性があります。 …あと、念のため、風邪予防で漢方薬も。 眠くならないうえに効きめも早いです。」 ゴソゴソと小物入れからノド飴などを出して、吉平太に渡そうとする。そんな吉次に再び驚き、そして視線を落とす吉平太。 「喉の調子に気づかれるとは思っていなかったよ… 君は本当に私のことを想ってくれていたんだな。 そんな君にずっと甘えていてすまなかった。」 吉平太の目から涙がこぼれる。吉次は突然のことに驚き、吉平太に触れようとしたが、"あの夜"のことを思い出すと触れられない。掌は空回りして強く握りしめられた。 「…とにかく楽屋に戻りましょう」 手ぬぐいを渡しながら促すが、それでもやはり吉平太は入ろうとはしない。 「いや、恥ずかしいのだが…。 君と他の師匠方が仲良くする光景を見ると寂しくて嫉妬してしまうんだ。 …でもそうだな、ここも寒いし、他の部屋にでも行くとしよう」 吉次は驚いた。 「え、…嫉妬するってどういうことですか? …俺のこと、どう思っています? 子どもにしか見えない、んですよね?」 自分は恋愛対象ではないと思っていたのだ。まだ吉平太を諦めきれていない吉次は質問責めする。途端、吉平太の視線が泳ぎだした。 「あぁ、あの時は、そう言ったが、 その、自分の気持ちがよく分からないんだ。 長年、人情噺をやっている身として恥ずかしいのだが。 …寂しさと嫉妬は感じているが、 きっと弟子が育っていく通過儀礼のようなものだと思う。」 うやむやにはできないと吉平太は吉次をまっすぐに見る。 「でも、君にとっての一番の幸せは、落語家としてさらに磨きをかけて、 そして高座以外でも活躍することだよ。 吉次には芸人としての華がある。 そのために私が出来ることがあるなら手助けするつもりだ。」 吉平太は自信もって話していたが、吉次にとっては大問題だった。 もっとちゃんと話したい。 しかし吉次の出番が差し迫っていた。 「とりあえず、今日、どこかでゆっくり話せませんか?」 「…あぁ、ちょうど君に相談というか、頼みたいことが私もあるんだ。」 「それでは…、打ち上げ前後で。」 吉次は、ノド飴と風邪薬を半ば押し付けるようにして消えていった。 「以前は"当たり前"だったから気づかなかったが。 よくこうやって世話してくれていたな。」 吉次の強引な気遣いに吉平太は懐かしく、そして寂しく笑ってしまった。 真打ち昇進披露興行の打ち上げは小料理屋貸切で開かれた。 飲みの場が好きな人間の多い業界だ。早々に自席など関係なくなり、入り乱れて盛り上がる。 「…師匠、行きましょう。」 宴会開始からまだ1時間も経っていなかった。 「主役がいなくなるには早すぎるだろう」 「こんなに盛り上がっていたら大丈夫ですよ」 吉次は早く話をしたくて仕方なかった。吉平太の腕を掴むと、強引に連れ出す。そして、その日は使われていない個室に入った。誰にも邪魔されたくないため、照明はつけない。外からの灯りで互いの顔が確認できる程度だ。 「…昼間の話の続きですけど。 その、俺のこと、好きな可能性があるんですか?…恋愛対象として。」 元々、振られてやぶれかぶれになっていたのだ。 吉次は単刀直入に聞いてしまう。 「だから、分からないんだ…。 ただ、昼間に言ったように、吉次にとっての一番の幸せは芸事で大成…」 「俺の一番の幸せは、俺が決めます。」 我慢しきれず、吉次は吉平太の言葉を遮って詰め寄った。吉平太は吉次の迫力に声を出せない。 「師匠には悪いですが、俺の幸せは、落語じゃない。 …師匠が欲しいんです。 あんなことして、本当に悪かったと思っていますが、 でも、未だに好きな気持ちが止まらないんです。 …触れてもいいですか?」 吉平太は目を逸らし俯いてしまう。吉次は「嫌ではない」と受け取ると、"あの夜"を思い出さないよう、優しく包み込むように抱きしめて囁く。 「"分からない"なら試しても良いですか? 嫌なら、すぐにやめますから」 そう言うと、吉平太の顎を上げて軽く口づけをした。途端、吉平太は反発し、腕の中から逃げると後ずさりする。しかし、足がもつれて、部屋の片隅に積み上げられていた座布団の山に腰をついてしまった。 「好きです?嫌いです?」 「…ダメだ!」 座布団の山を背に逃げられない吉平太を吉次は再び優しく抱きしめた。 「ダメ、じゃなくて。好きと嫌い、どっちですか?」 「………ダメだ」 そう言いつつも吉次の腕の中から吉平太は逃げない。 吉次の期待感は高まる。 「それ、答えになっていないです。…もう一度、試しましょうよ」 吉次は吉平太に再び唇を重ねると、今度はゆるりと舌を差し込んだ。吉平太は驚き、逃げようとする。しかし、後ずさりする事も出来ず、吉次を押し退けることも出来ず、顔を背けることも出来なかった。ただ、吉次の行為を受け入れるしかなかった。 "あの夜"のことを思い出さないよう、吉次も極力、優しくした。誘導するように舌を絡めたり、歯列をなぞるようにゆっくりと舐める。時に、唇を啄ばむように刺激する。 吉平太はその優しいキスに最初は戸惑っていたが、やがて抵抗しなくなっていた。気がつくと、震える手で吉次のシャツを強く握りしめている。 抵抗しない、それは吉次を受け入れるということ。吉次はひどく興奮し、なかなかやめることができなかった。 しかし、突然、談笑する声と数人の足音が廊下から響いてきた。驚き、今までになく大きな力で吉平太は吉次の腕の中から逃れようとする。しかし、悪戯っぽい笑顔を吉平太に見せると、吉次は強く抱きしめ、耳元で囁いた。 「大丈夫。見つかりませんよ。」 わずか数秒間だったが、2人は物音をたてないようそのまま身動きせず、時が過ぎるのを待った。実際、気づかれることもなく、足音は立ち去る。 しかし、立ち去ったあとも、吉次は吉平太は抱きしめたまま動かない。もう二度と抱きしめることなんて出来ないと覚悟していた人が自分の腕の中にいる。吉次は離れたくなかった。 …この時間がずっと続けばいいのに。 吉平太の髪を優しく撫でながら、何度も「好きです」と小さく呟いていた。 吉平太の耳にもその声は届いていた。吉次の身体を突き放すことができない。 「…吉次…もう…」 「話ってなんですか?」 これ以上、この場で問い詰めても色よい返事は貰えないと吉次は分かっていた。少しでも時間を引き延ばすため、話を逸らす。 「…あぁ。色々と世話になった寄席があるんだが、 最近、経営不振で手助けをしたいんだ。 …それで、もし良かったら、 その寄席で私と落語二人会をやってもらえないか? 真打ちになったばかりだし話題になると思うし。 ただ、済まないが、経営不振ということもあって出演料が無さそうで… 吉次の知名度を利用したうえに出演料が無いのは心苦しいし、 断ってくれてもいいんだが…」 吉次はずっと上の空だった。 …欲しい。このまま離したくない。誰にも渡したくない。俺のことしか考えられないようにしたい。 欲望は止まらず、むしろ膨らみ続けていた。 「吉次、聞いているのか?」 「…えぇ、聞いていますよ」 弱みに付け込むのは卑怯だとは思うが、この機会を利用しない手はなかった。ゆっくり顔を持ち上げると、正対して吉平太を見つめる。 「スケジュールは俺に合わせてもらうことが多くなると思いますが、 落語二人会いいですよ。 …ただし、条件が2つあります。 1つ目は、二人会に関連する日は必ず俺の家に1人で来てください。 2つ目は、2人っきりの時は、本名で呼び合うことにしてください」 「そんなっ…!」 吉平太の眉間に皺が寄る。吉次の家に1人で行くことがどういうことか察しているようだった。吉次は笑顔で追い討ちをかける。 「師匠にとって俺は、ただの親愛の情なのかどうか確認しましょうよ。 …もちろん、嫌ならすぐにやめます。何もしませんから。」 条件に有無を言わせたくなかった。名残惜しそうに吉平太の髪に触れると吉次は立ち上がる。 「もちろん今すぐ返事はいりません。また連絡ください」 吉平太は思い悩み、目を伏せたままだ。吉平太を残し、吉次は薄暗い小部屋を後にした。 打ち上げ会場に戻ると相変わらず盛り上がっていた。抜け出していたことを誰かに咎められることなく、遅れて戻ってきた吉平太を入れて三本締めをして終了した。これで真打ち昇進披露興行に一区切りがついた。 ー第4話に続くー

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