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喉が乾いた
ーー喉が乾いた。
生まれて初めての感覚に困惑よりも恐怖が体を支配されてしまう。
俺は海に住んでいる。
上半身は陸上に住むヒトと変わらない。下半身は海に住む魚のように尾が生えている。ヒト世界でいう人面魚、ロマンチックに例えるなら人魚だ。
「ステラ、本当に行くの?」
「ああ。そう言っても隣の国に食糧を取りに行くだけだ」
「でも、あの国は危険だって」
視線を落とすキュケのオレンジと白模様をした小さな体に指先で触れる。力加減は幼い頃から分かっていた。
「安心しろ。パサエル様からも了承は得ているし、ちゃんと帰ってくる」
彼がこれ以上不安がらないように終始笑顔を絶やさずにいると、だんだんいつもの表情に戻っていく。それを確認し、ヒレを必死に振るカクレクマノミに見送られて国を出た。
そんな出来事がつい数分前。故郷を護る門をくぐった途端、謎の黒渦に巻き込まれて陸に打ち上げられた。
幸か不幸か波打ち際にある大岩に辿り着き、背中はひんやりとした冷たさを感じている。それでも生まれて十八年間、太陽を直で浴びたことがないオレにとってそれは気休め程度にしかなかった。口の中の水分が抜けていき、体全体が怠くて熱い。
(喉が乾いた……)
指をせいぜいピクピクと動かすことしか出来ず、俺は死を覚悟した。こんなところで終わるのは無念しかないが、ヒトに捕まえられるよりは干からびる方がマシだった。
最後に見た景色は顔を歪ませるほど綺麗な青い空だった。
バシャ、ジャバー
(はっ……?)
突然、冷たい水が顔に直撃した。痛い。
重くなった瞼を再び上げると茶色を捉えた。
「大丈夫?」
ぼんやりと丸い輪郭。小麦色、海藻よりも綺麗な色のグリーンの瞳。
(ヒ……)
慣れない地上のせいで思考まで鈍くなったらしい。答えは出かけている。
しかし、それよりもかなり気になることがあった。
「くっさ……!」
「わあ!?ビックリしたあ……」
鼻の穴からなんとも表現し難い悪臭が入ってきて飛び起きた。
「こんなもん、どんな生物だって死んじまうぞ!」
「ご、ごめんね。大丈夫?」
「大丈夫なあるもんか!ううっ……擦ってもまとわりつく……ぅ」
鳥肌もんだった。あんなものを口にしたら最後、どうなるか分からない。手首で唇と鼻を拭くが、臭いが取れない。
「苦しそうだったからお水、欲しいのかなって……。ごめんね」
ヒトは悲しげに眉を寄せている。何故、ヒトが悲しいのか人魚の俺には分からず、疑問が浮かんだが、瞳に膜が張ったのを見て、それに関して飲み込んだ。
「あー……、死にそうになっていたのは事実だ。助けを求めた訳じゃないが、水は必要だった」
昔、キュケに『勘違いされるタイプだね』と言われたことを思い出した。もう関わりたくないのは事実だからこれくらいでいいだろう。
青年は俺の言葉に目を三回ばちくりし、笑った。
「どういたしまして」
今度は俺が拍子抜けした。親友のキュケにだって初対面では『陰気な奴』と評価されたのだから。
「それに、金魚さんが死んじゃった理由も分かったよ」
「キンギョ?」
「うん。奥様がね、あ、僕、この向こうの屋敷にあるお家でメイドしているんだけどね」
指を指された方向はなにやらモッコリとした緑が出ていて分からないが、きっとそこにあるんだろう。
「そこの奥様がね、金魚さんが死んじゃったから海に返してきてあげなさいって言ってたからここに来てみたんだけど……君が倒れていたから……」
目線が俺から右に傾き、なぞっていくと小さな壺が見えた。一目で分かるほどどす黒く汚れており、まるで一度も洗われていないようだった。
「お水が苦しかったからだったんだね。そんなお水、かけちゃってごめんね」
胸の前で手を合わせて奴は頭を下げる。
白と黒のふわふわとした衣装でメイドというのが出来るのか?行動から使用人と分からないだろうがそんなことは関係ない。腹がふつふつと煮立って仕方なかった。
「それで、君はどこに住んでるの?ご主人様に行ったらきっと案内してもらえーー」
「ハッ。所詮はやはりヒトか、お前らは」
壺らしきそれにキンギョは入っていない。水をかけた時に海の中に沈んでいったはずだ。小さい、同類のいのちが。
「野蛮で、傲慢。世界を進展させている?自分たちで創っている?笑わせるな。世界を汚すことしか脳がないニンゲンが!」
俺たちの海を汚すだけでなく、抵抗出来ない、何もしていない海の生物と住処も奪っていく。
それだけじゃない。自分らの思い通りにならなければ、矛先を仲間に向け、地上を反乱へと誘う。
「そんなんだから俺たちは……」
俺たちは。
俺たち、人魚は。本当の、彼らの仲間になれない。
ふと、目元に触れた。指だ。俺ではない、海の生物には高い暖かさを持った指が俺の目をなぞる。
顔をあげると息を飲んだ。そこに大粒を流しているヒトがいたからだ。なんと声を掛ければいいか迷っていると、泣いているのにも関わらず、奴はまた笑う。
「ごめん。辛いこと言わせちゃったね」
濁りのない雫は次から次へと溢れ出て、岩に大きな染みを作っていた。
「金魚さんもごめんね。僕がもっと早くに気付いてあげたら、死ななかったのに……ごめんね、ごめんね……」
目頭は熱くなっても俺は涙までは出なかった。
しかし、彼は種の違う俺の前で涙を零している。俺の話を聞いて。
(拭けばいいのに)
頑なに俺の目元から離さないヒトにそう思った。啜り泣き程度だったものが喃語を発している。
(ああ、くそっ……!!)
「泣くな」
「……うぁ……、ひっ、……ぐ?」
「泣くな。メイド、なんだろう……?」
親指でほんのり熱い涙を拭き取る。
ヒトとはいえ、名前があるはずだ。自己紹介なんぞしている暇なんてなかった俺たちに互いの名前は分からない。
さすがに役職名で言うべきでなかったかと反省していれば、ふっ、と笑い声がした。
「優しいね、君。ありがとう」
「……っ……!!」
言われ慣れていない優しいと言われたことに関してなのか、蕩けた目で笑った彼になのか。胸の奥がキュンとした違和感があった。
「ね、またここに遊びに来ない?」
俺の心なんて知らず、ヒトは体を寄せてきた。今度は吃驚したのかまた、心臓が跳ねる。
夜の海のようにキラキラと輝く瞳から背けた。
「帰らないと行けないし」
「そっかあ……。あ、でも。そこ、怪我してるよ?」
彼の涙を拭き終えた手に視線が注がれる。よく見れば手の甲にバツ印の傷があった。さっきから妙にヒリヒリするな、と感じていたがまさか手だったとは。泳いで帰る分には問題ない傷だ。
「これくらい舐めときゃ治る」
「そんなのダメだよ!」
彼はふんわりとしたスカートのポケットから取り出した円柱のもので嫌がる俺の甲に緑色を塗りたくる。スースーする感じに呆気取られていれば、白くて長いものでくるくると巻かれてしまった。
「これでみ、一週間後には良くなるよ!」
「そ、そんなにかかるのか!?」
「怪我を軽んじてはダメ!それまでは動いちゃダメだからね!」
「は?」
それは困る。食料が尽きてしまう危機的状況まだはいかないとしても、幼馴染を待たせている。否定をしようとしたが、「絶対だからね!」と先に釘を打たれてしまった。瞳までうるうるさせられ、ため息をついた。
「分かった。ただし、俺を退屈させるなよ?」
「……!分かった!明日、お気に入りのものを持ってくるから、楽しみにしていてね」
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