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第8話

 デュミルはあてもなく静かな庭を見ていた。背伸びするのに疲れ、窓の桟から腕を離す。夕陽を映す青い瞳に赤い炎が迸った。1羽のカラスが庭に留まり、また1羽、また1羽と数を増やしていく。紅い目が一斉に宿舎へ向いた。デュミルは頷いて寝室に向かった。窓のすぐ隣の長兄が寝そべりベッドに黒い髪が散らばっている。外にいるカラスと同じ暗赤色の瞳は天井一点を捉え、小刻みに震えていた。鼻血が二手に分かれシーツへ吸い寄せられていく。デュミルは瞬かない目元に小さな掌を乗せた。長兄の発育途上の身体がびくりと跳ねた。 「デュン…ごめん、寝てた」  軽くなったティッシュの箱をデュミルは彼に渡した。 「ねとっととこじゃましてごめん」 「いや…いい。買い出し行くか」  ディレックはティッシュで雑に鼻血を拭いた。 「ぐあいわるいん?」 「大丈夫だ。心配すんな」  デュミルの頭に手が乗った。長兄の手はデュミルと比べると大きかったがまだ成長の余地を残していた。 「こわかゆめみたとや?」 「ちょっと、な」  優しい手付きで栗色の髪を撫でた。ディレックは憂いを帯びた眼差しで部屋の隅を所在なく見ていた。 「レニちゃおうまさんにのられておなかおおきぅなるゆめみたとや?」  髪の一房を摘んで擦っていた指が止まった。兄を見上げると窓の光で緋色に和らぐ瞳とぶつかった。 「デュンも、視えるのか……そういう夢、みるのか」  デュミルは首を振った。ディレックは小さな弟を抱き上げてベッドに座った。デュミルにとっての次兄、ディレックにとっての長弟が宿舎という家を空けてからディレックは時折不安定になった。夜遅く帰ってくる保護者から離れなくなったり、デュミルに触れたがった。目の届かないところに行くと声を荒げ、外には出られなくなった。 「レニーは、もうすぐ帰ってくるから」  力強い抱擁にデュミルはディレックから逃げ出した。 「買い出しに行くぞ。オレが遊んでやるから、レニーのことは休ませてやろう」  脱け出ることもできずデュミルはまた抱え直される。外に出ると無数のカラスがディレックを見つめ、跳ねながら道を開けた。門を開け、バス停まで歩く。1羽、紅い眼を輝かせたカラスがバス停の看板に留まった。デュミルはそのカラスを見上げた。暮れていく空の中で濃く塗り潰された鳥もまたデュミルを見下ろした。青い瞳に炎が駆けた。やがてバスが来るとディレックに手を引かれバスに乗った。水上都市の華やかな明かりが近付いていく。目的地に着くと乗客のひとりがデュミルに紙幣を握らせた。ディレックがその乗客を睨んだ。デュミルに紙幣を握らせたその者は体操をするような、しかし小規模な仕草で「恵みあれ」と言って微笑み、バスから降りる。ディレックはデュミルの手から折られた紙幣を奪い取ると普段どおりのスーパーマーケットに寄らないで観光地の奥へと進んでいった。ディレックの歩幅はまったくデュミルに構わず、小さな弟は腕を掴まれているために転ばずついていくのが精一杯だった。陽気な音楽が街の中を流れ、ゴンドラからは威勢のいい声が上がっていた。屋台の呼び込みも賑やかだった。その区画を横切り、閑散とした大きな建物ばかりで囲われたような広場の南端にある狭い路地で彼は止まった。すぐ傍はもう海が広がり、打ち付ける波の音が繰り返し聞こえた。立ち入り禁止のバリケードサインの横の錆びた缶を見下ろし、ディレックは動かなかった。デュミルは波音がよく聞こえるその路地を覗き見る。建物の陰で裸に近い女がダンボールの上で寝ていた。ボロ切れを纏った子供がぼんやりと幼い兄弟を見ている。他にも特に人そのものの気配だけでなく住処らしき形跡があった。肌を大きく露出し、伸び放題の髪によって顔の判別もつかない女が長い爪の生えた指を出して地面を這った。長兄の指には蛇腹になっている紙幣が潮風に揺れている。 「ディル…?」  デュミルはディレックの服を引っ張った。真後ろに黒い物が下降し、紅い実のような目がディレックに固定される。後ろからやって来る気配にデュミルは振り向いた。上質な黒地の布とダークグレーの刺繍が入った制服の少年だった。綺麗に磨かれた革靴は小気味良い音を立て、暗くなった空の下でも輝いていた。ディレックたちの端に立ち、控えめに挨拶をした。品の良い物腰に長兄は立ち尽くすだけだった。ぞろぞろと路地の奥から物音がした。そして粗末な身形の者たちが現れる。老若男女問わなかった。バリケードサインを境界に熱心に少年を眺めている。  お心願(いのり)すれば必ずや貴方がたにも恵みがあります。今日は私も心願(いの)ります。  カーバス祠官学校の制服を着た少年はバスの中で見た体操のような仕草をすると膝をつき両手を合わせ、額を乗せた。その体勢を解くと制服のポケットに手を入れ、錆びた缶の中に数枚の紙幣と硬貨を捻じ込む。  明日、ライン=プンクト礼拝堂でパンとレモネードを配ります。神のもとでご心願(しんがん)し、ご唱名(しょうみょう)すれば必ず、必ずや貴方がたにも恵みがあります。神は貴方がたを見捨てたりなどしません。  彼には目もくれず缶の中から紙幣と硬貨を抜き取っていく。そのことをまったく気にしたふうもなく少年はまだ立ち尽くしている幼い兄弟のほうに関心を示した。  君たちも困ったら、ライン=プンクト礼拝堂に来るといい。神は恵まれない人を見放さない。  カーバス祠官学校の制服の少年は嫌味なく微笑んでいただがディレックの手に握られた紙幣に目を留めると眉を下げた。  もうこれしかないけれど…どうか役立てて欲しい。  少年は金色に輝く硬貨をディレックに差し出した。驚きと躊躇いと矜恃も羞恥心、その他形容しがたい感情が(せめ)ぎ合い、ディレックは固まってしまった。少年は困惑を滲ませながらも穏やかな微笑みを絶やさず、デュミルの小さな手にそれを握らせた。デュミルは兄を見上げた。唇を噛んでどこか遠いところを見ていた。紅い目には水膜が張り、繋いだ手が震えている。 「ありがと」  少年はバスの中に会った人のようにまた肩を回すような、払い落とすような仕草をして「君たちにお恵みあれ」と言うとどこかに行ってしまった。ディレックは小さく謝ってまたスーパーのある水上都市の出入り口の方へ戻る。  ディレックはスーパーマーケットに入るまで何も言わなかった。デュミルも半歩前を歩く兄に何か言わせようという気は起きなかった。 「今日は、レニーの好きなロールキャベツにしよ。3つ食べられるぞ」  ディレックは無機質な声音でそう言ってデュミルの髪を撫でた。ありがたい話だよな。指が離れ、デュミルは兄をまた見上げた。 「おれ3つたべられんでもよかと。レニちゃに1こあげるとよ」 「ごめんな」  デュミルはディレックの手を固く握った。いつにも増して保護者の遊戯が過激になっていた。すでに潰れた獣姦バーの後身として獣の性器を模した玩具を売買したり、実際に使用して時間を過ごす店に連れ込まれ、等身大の馬の模型に等身大の牡馬の性器をレーニティアはその腹に受け入れていた。薄い腹が膨れ、彼は目を剥いて苦痛を伴う圧迫に耐えていた。分厚い札束が重ねられていくたびに裸体は難題をこなしていく。嘔吐し、銀髪を汚しながら彼は意識を失っていた。今日はいつもより疲れて帰ってくる。おそらくディレックもそれを理解している。デュミルは温かくなった金色の硬貨を握り締めた。まだ青い瞳の裏には銀髪の保護者が真っ直ぐ孤児院に帰らず、大きな負担のかかった身体でそのまま次の客のもとに向かう姿を捉えていた。帰りは朝になるかも知れない。デュミルはそれを上手く伝えられなかった。この時間にもレーニティアは露出してしまう内部に好奇の目を向けられ、複数人と身体を重ねている。ディレックは冷凍食品を眺めていた。恋人に限りなく近い保護者のことでいっぱいなその横顔が弟の存在を思い出しそうになる。炎が過ぎる青い瞳を見られたくなくてデュミルは忙しなく他の棚を見るふりをしていた。レーニティアは今夜帰ってこない。その一言が言えなかった。  レーニティアは夜になっても帰って来なかった。4人の食卓も賑やかとまではいかなかったが、2人の食卓はただディレックが何に対してでもなく謝るだけだった。レーニティアは忙しいのだと。デュミルの深い海を映したような瞳の裏には抜け出そうとしても引き摺り込まれ延々と行為を強いられ、今でもまだディレックより少し年が上くらいの少年に激しい執着を示されていた。ディレックは3つずつ割り振られたロールキャベツを1つデュミルの皿に移した。 「ディルおなかすいてなかと?」 「ちょっとな。デュミルも好きだろ、ロールキャベツ」 「うん。でもディルがたべたらよか。おれもうおなかいっぱい」  デュミルは皿をディレックへ押した。 「おれレニちゃいないのちょっとざんねんだけどディルとふたりのごはんたのしか」  兄はもう冷えてしまったロールキャベツにフォークを刺した。 「そっか。なら良かった…」  苦笑してディレックはロールキャベツを口に運んだ。手の付いていないロールキャベツを包んだラップが曇っている。レーニティアは今も高級ホテルらしき一室のベッドの上でシーツを握り、逃げようとしている。銀髪を優しく梳く少年をデュミルは見たばかりだった。カーバス祠官学校の制服がないと幾分大人びて見える。乱暴に扱われ、引毟られることも多い銀糸を壊れやすい硝子細工のように触れ、無防備に開いた唇にまるで水を与えるように慈しんだ力加減で少年は口付けた。デュミルは何も知らずに済んでいるディレックを横目で見た。空いた皿の上で頭を抱えている。窓を見れば月に照らされているはずの庭は黒い鳥と紅い眼光で埋め尽くされている。デュミルの大きな丸い瞳にまた炎が閃く。  アノ 我父(オトコ)ヲ (コロ)セ… ◇  キュアッドリーは飛び起きた。窓辺でキーボードを叩いている銀髪の女が顔を上げる。まだシャワーも浴びていないようでスーツを着たままだった。角張った眼鏡のレンズがグリーンに光っている。  うるさかったか、悪いな。  書類やファイルだらけのテーブルに置いていたノート型コンピュータを抱いて彼女は出来るだけ雑音の原因をベッドから離した。だがキュアッドリーが深い眠りから突然目覚めたのはキーボードのせいではなかった。まったく覚えのない大きな建物の中が見えたからだった。石像が置かれ、壁から生えたような彫像には兄やキュアッドリー自身の瞳と同じ色合いの紅い石が埋まっていた。高い天井には本で見たことのあるような荘厳な絵が広がり、大輪の花を思わせる鮮やかな円形の窓がある。いつもの夢よりも鮮明だった。その場にいたような。レーニティアによく似た銀髪の男が訪れ、差し込む日の光を浴びて輝いて見えた。翠色の瞳もレーニティアによく似ている。だが眉間に刻まれた皺や常に険しい表情がキュアッドリーのよく知る穏やかな保護者とは大きく違っていた。彼はただ南北に何列にも並んだ席の間を歩き、紅い石を胸元に埋められた彫像を仰ぐばかりで、座ることもしなかった。やがて青い空と白い雲の下で砂埃が潮風に巻かれていた。そこには瓦礫が転がり、横たわり、天井を彩っていたガラスが砕け散っていた。場面が大きく飛び、キュアッドリーのよく知る保護者と瓜二つの青年が大量の花を添えられ眠っていた。ガラスの棺の中で両手を重ね、運ばれていく。キュアッドリーにはそれがレーニティアなのか、まったく違う人物なのか判断がつかなかった。自分のいないうちに家族の身に何かあったのではないかと不安が爆発し、そのまま眠らせていてはくれなかった。汗は途端に冷え、銀髪の女を見ながらキュアッドリーは息を整えた。  汗をかいているな。冷蔵庫にアップルジュースがあるから、飲め。  呆けているとノート型コンピュータを置いて銀髪の女は席を立った。冷蔵庫のオレンジの光が部屋の中に彼女の影絵を作る。紙パックで銀髪の女はキュアッドリーに冷えたジュースを渡した。  飲んだらさっさと寝ろ。 「…うん」  彼女はキュアッドリーを冷たく見ていたがそのうちまた仕事に戻った。キーボードの音が控えめになっている。かなり狭いコンクリート打ちの部屋でキュアッドリーの寝ているベッドのすぐ傍に衣類やタオルの乗せられた布製のソファー、そして軽銀のブラインドが掛かった少し高い位置にある窓と1人分通れるかどうかの空間を置いて散らかったデスクがあった。かろうじてキッチンスペースだけ2人並べる程度には片付いていた。州局が早く終わる日はこの狭い部屋に泊まり、キュアッドリーがベッド、家主はソファーの上で夜を明かした。  家族が恋しいか。  褐色のリンゴジュースをすぐには飲む気が起きなかった。だがすでにストローを挿されている。少量啜ると懐かしい味がした。しかしやはり覚えがなかった。酸味よりも柔らかな甘さの強いリンゴジュースは値段の高い覚えならばあった。本物よりも苦味の強い一番安いオレンジジュースしか知らない。 「ちょっと…怖い夢みて」  キュアッドリーはまたストローを吸った。口に優しい味がする。後を引かず、爽やかに消えていく。  そうか。具合が悪かったらすぐに言えよ。  控えめにキーを押す手を止め、女は険しい表情を緩めもせずキュアッドリーの様子を窺っていた。キュアッドリーは腕を伸ばしてジュースをヘッドボードに置くと掛布を抱いて横になる。レーニティアは無事なのか。不安が渦巻く。弱い光に浮かぶコンクリートの壁を見つめる。そのうち眠りに落ちるはずだった。だが焼き付いた棺の中の保護者によく似た男の姿がキュアッドリーを重苦しく圧迫した。 「レニーが、…死んじゃう夢みたの」  緑色の目はまだ幼い背中を捉えたまま、ブルーの光を映したレンズの奥で鋭くなった。 「レニーじゃないかも知れないけど、すごく、レニーに似てた」  気のせいだ、早く寝ろ、明日も忙しい。銀髪の女がそう言うのを期待していた。だが彼女が言いそうな素っ気ない言葉や低い声は待てども待てども降りかかることはなかった。 「レニーは…大丈夫だよね?ただの夢だよね…?」  誰でもいい、誰かの肯定が欲しかった。くだらない不安だと一蹴してほしい。キュアッドリーはより縮こまって丸くなった。孤児院から離れて過ごすことにはもう慣れた。食費も浮く。字の読み書きも複雑な計算も出来るようになった。不満はない。だが兄弟と保護者の様子が分からないことに不安を覚えることはまだあった。  大丈夫だ。安心しろ。  女の声はいつもより優しかった。キュアッドリーは徐に彼女を振り向く。左手の指輪にディスプレイの明かりが反射し、夜空に浮かぶ星のようだった。  あいつ等もお前がちゃんと寝れているか心配しているだろうさ。 「…うん」  ちょっとうるさかったな。あたしもそろそろ寝る。明日、会いに行くか?  キュアッドリーは返事を躊躇った。女はノート型のコンピュータを閉じて狭そうな空間を抜けるとシャワールームに消えていった。やがて水の流れる音がした。目を閉じる。銀髪の女と話しているうちに、ただの夢だったのだと、ガラスの棺で眠る銀髪の男がいくらか他人事として映るようになった。脳裏に刻まれたままの大振りな花弁を持つ白い花に覆われた姿が特殊な感慨を与える。  髪を撫でられた感覚で紅い瞳が開いた。緑色の目が見開き、髪に伸びていた冷えた手が瞬時に離れた。  生きてるならいい。  眠気に後を引かれることもなく冴えた目覚めだった。銀髪の女はキュアッドリーのすぐ傍に腰掛けていたが彼が起きると同時に立ちデスクへ回った。保護者のものより少し暗い銀の毛先が床に置かれたものを跨いで大きく揺れた。 「なんで」  妙なことを言われキュアッドリーは訊ねた。椅子に腰を下ろした彼女は相変わらずの険しい表情で何のことだか分からないと言わんばかりにさらに眉間に皺を寄せた。  朝飯食え。テキトーにあんだろ。  顎で冷蔵庫を差して家主は書類を眺めていた。キュアッドリーは家主が食べそうもない甘いシリアルを用意して家主はテーブルでコーヒーを飲みながらぼんやりと彼を観察していた。左手の薬指でリングが光っている。だがこの部屋はまだ小柄なキュアッドリーとであっても長いこと2人で住めそうな広さではなかった。そして相手を(ほの)めかすような物もなかった。 「ここで1人で、住んでるの?」  銀髪の女は黒地に白抜きのテキストが入ったマグカップを置いた。緑色の瞳は斜め上へ泳ぐ。  見ての通りだな。 「…そうなんだ」  踏み込ませない返答にキュアッドリーは彼女から顔を逸らした。余計なことを訊いてしまい、反省する。キュアッドリーにとっての先生でありここの家主はあまりそのことを話したがらない。それは知っているつもりだった。  帰る場所があるってのはいい。どこか遠くに行こうとな。用意したはいいが、使うやつが居なくなっちまった。  まだ化粧をしていない唇が弧を描く。それは喜びに満ちたものとは違っていた。  でもお前が来た。狭いが容赦しろ。 「うん」  シリアルを平らげ、州局に出る支度を済ませる。外に出ると珍しく空は曇っていた。このコンクリート打ちの部屋がある建物は集合住宅で、州局の東の高地にあり、6部屋ほどある集合住宅がブロックになって数棟建っていた。バス停は近かったが商業施設は遠く、多くの者は自家用車を要するため広い駐車場もついている。その周辺にはソーサラーパネルという新しい発電システムのモジュールが設置されていた。駐車場までの間に1羽のカラスがキュアッドリーに近付く。同じ色をした目と視線が交わる。カラスは翼を畳み直す。 「おじちゃん?」  しかしそのはずはなかった。"おじちゃん"が恐ろしい男にカラスにされ日に、「明日には戻る」と銀髪の女は言っていた。優しく褒め、温かく撫でてくれる掌がまだ恋しかった。それでも目の前で行われた保護者の秘められた仕事はキュアッドリーに痛烈な印象を残していた。  行くぞ。  家主が彼の細い肩を軽く叩いた。シートベルトを嵌められ発進する。 「あのお家に住むはずだったのは、先生の弟?弟みたいだった人?」  後写鏡の中で算数を教わった後に貰えるメロン味のキャンディに似た目とぶつかった。ふん、と彼女は鼻を鳴らした。しかしそれが怒りや呆れによるものではないことだけは分かった。結局何も答えは得られなかった。  いずれお前が住んでもいいぜ。  ウィンカーが鳴った。勾配を降りていく際に大きな塔のようなものが見えた。以前あれが何かを問うた。カーバス祠官学校の第二校舎らしかった。晴れた日には日の光を借りて金色に見えたが曇りの日に見るとクリーム色のように思えた。大きな輪のようなオブジェもよく見える。車が斜面を降りる時のスピード感と浮遊感、流れるような風景がキュアッドリーは好きだった。大きな道路を一本で州局に着く。杖をつきながら乾涸びたような肌の長い茶髪を持った男がキュアッドリーを出迎えた。州局の宿泊施設に泊まれない次の日にはこうして来訪を確認するように杖の男は態々(わざわざ)外にまでやって来る。この者はキュアッドリーが泊まれない日にも州局で特殊な処置を施されながら寝泊りしているらしかった。  若そうではあるが老年に多くみられる骨と皮だけになった手が不気味に、改善された食生活によって艶を取り戻した髪に伸び、耳の裏を撫でていく。柔肌に当たる爪の固い感触でキュアッドリーは強張った。まだ絵本でみた魔憑きの女を彷彿させる指や眼差しの恐ろしい印象を拭えないでいる。機嫌を損ねたらカラスにされてしまうかも知れない。"おじちゃん"がどうなったのかをまだカラスにした本人に訊けずにいる。されるがままにしていると次には抱擁が待っていた。長いこと硬く肉感のない腕に閉じ込められる。力はそう強くない。おそらく子供の力であっても本気で拒絶すれば容易く解けそうな程度のものだった。だが兄や弟、保護者との触れ合いからこの杖の男なりの力一杯の抱擁であることが理由も根拠も挙げられずに理解出来てしまった。微風が吹き州局前の溜池のような水のオブジェの中に弧が連なる。  知事、彼が身体を冷やします。そろそろ中へ。  銀髪の女の声がこの杖の男と話す時、いくらか声音が変わることもキュアッドリーはつい最近になって気付いた。些細で極々わずかな違いだった。普段から怒っているような荒々しい言葉遣いに口調だったが知事と話す時だけは籠もったように喋る。表情も違っていた。眉間の皺を緩め、口元を引き締める。そして突き離し、睨むように、いくらか言葉を震わせる。杖をつく男はキュアッドリーを放し、まだ髪に触れながらゆっくり局内に戻る。キュアッドリーは銀髪の女を気にしながらも不気味な男の手が頭から放れず、そのまま寄り添って歩いた。距離を置いて女は付いてくる。エレベーターで合流し、最上階に上がってもキュアッドリーの中で浮かんだ疑問を口にすることはできなかった。杖の男と別れて銀髪の女と2人きりになった休み時間にやっと杖の男について訊くことができた。女は質問には答えず、布のような紙にチップスを出し、炭酸飲料が注がれたコップをキュアッドリーの前に出すのと同時に「あたしに興味を持つな」と呟くだけだった。 「でも先生、ちょっと、なんか…寂しそうだから…」  キュアッドリーは対面のソファーに脚を組み大仰に座った女を窺った。彼女は鼻を鳴らす。ソファーの背凭れに左手は隠される。  仲は悪くねぇよ。ガキがあんまり気ィ遣うな。  女はチップスを一枚摘むと口に放り込んだ。キュアッドリーも釣られてチップスを口に入れる。甘辛い粉が口の中に広がる。緑色の目はキュアッドリーの居ない方向をぼんやりと見ていた。睫毛が強く持ち上がり、大きく目を見張っていた。冷ややかな眼差しばかり送ってくる瞳が大きく照っていた。 「先生」  大人には色々あんだよ。  その一言で返答は偽りであるとキュアッドリーは確信した。"先生"と"知事"は仲が悪い。  そのうちお前も慣れてくる。今はまだ大人になろうとしなくていい。ガキらしくしておけ。付き合えたら付き合う。 「子供(ガキ)だから、レニーも先生も、何も教えてくれないの?勉強のこととか、天気(そら)のこととか、そういうコトじゃなくて」  レーニティアは何も言わない。ただ疲れた笑みを浮かべるだけ。兄までもが背伸びをする。弟も外で見る同じ歳の頃と比べると欲しがらない。怒りにも変えられなかった。推し量ってただ苦々しさが募る。たとえ勘違いだとしても。兄弟への哀れみだけになってそれが内部から刺してくる。  色々分かって無意味さに気付いちまう前に、言いたいことは言うだけ言っておけ。叶うかどうかは知らんがな。 「大人ってヤだな」  女は同意した。キュアッドリーはもう余計なことを言わないようにチップスを口に入れた。  ひとつだけ質問に答えてやる。知事はあたしの配偶者(よめ)の親戚だ。仲が悪ィなんて、あるワケねぇだろ。だから安心しろ。気を遣うな、ガキのくせに。  キュアッドリーはばりばりとチップスを噛み砕いた。内膜に破片が刺さる。いつの間にかこの銀髪の女の嘘まで分かるようになってしまっていた。ガキらしくしておけという彼女の言葉に甘える。 「じゃあそのお嫁さんは、どこにいるの」  見るか。  銀髪の女は背凭れから身体を剥がした。案内されたのは杖の男が寝泊りしている部屋だった。彼女の手は扉の把手に触れるのを一度躊躇った。キュアッドリーは銀髪の女を見上げる。それを覚ったのか彼女はドアを開いた。部屋の電気は落とされていた。照明を点けないままさらに奥の部屋へ進む。キュアッドリーは差し込む眩しい光に目元を覆った。この辺りの名産であるレモンの色よりも鮮やかで眩しい色を持った輝きで、キュアッドリーは怯んだが隣にいた銀髪の女はそのまま踏み入った。その部屋は継続的な小さな振動が響いていた。目が慣れてくると、"先生"の影の他に人影が見えた。横たわっている。夢に出てきたガラスの棺によく似た装置の中でまだ若い女が仰向けに寝ていた。杖の男に鼻や口元、眉の形まで似ている気がした。レモネードのような色の光の中では青褪め、人の形をしている作り物のような、生々しさのない光景だった。  知事は病気なんだ。身も心もな。  銀髪の女は片側から強い光を浴びて、奇妙な怪物のようになっていた。緑色の目がキュアッドリーを射抜く。  あとはただ、地神(うえ)指示(こえ)を聴くだけだ。 「先生…」  お前は優しくしてやってくれ。あたしには、そんなことはもう出来ないから。  嫌な夢の続きだったのかも知れなかった。廊下に出た時そう思った。まだ目は光の急な増減に対応しきれず、軋むように痛んだ。ガラス張りの壁にあった曇空は雨に変わっている。「授業に戻るぞ」と言って銀髪の女は腕を組んで相変わらず不機嫌そうな表情でキュアッドリーを見下ろす。左手の親指が光った。キュアッドリーは見ない振りをした。もう訊いてはいけないことなのだと本能に似たものが告げている。ヒールが鳴りながら少し前で止まる。グレーにストライプのスーツが待っている。まだ粘りつくような夢が頭の中で渦巻いている。レーニティアに瓜二つの青年の棺と強い光の中で眠る若い女の姿が重なる。一歩すらも部屋の前から動けないでいる子供に角張った眼鏡の緑色の女が小声で謝った。キュアッドリーはそれも聞かない振りをした。

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