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第9話

◇  結婚してください。色好い返事がいただけるまで、そのままですよ。  レーニティアは足をひとつずつ棒の両端に括り付けられ膝を震わせていた。根元を縛られ露出している屹立には電源の入った按摩器具と一体になっているシリコンホールを嵌められ、両手は後ろで拘束されていた。彼は左右上下に激しく震慄(わなな)き、首は力を失い肩に頭を預けながら唇を噛み締めている。目隠しによって視界を奪われ、ただ羞恥をも凌駕する快楽による苦痛がその褐色の身体を苛んだ。  早く達さなければ、ここも壊れてしまいます。ただ一言、貴方が呑んでくだされば、こんな酷いことはもうしません。 『あ…ぁあ、ア、っ……!』  兄は安らかに眠っていた。デュミルは窓の外にいるカラスへ首を振った。紅い目を持つ黒い鳥は飛び立った。幼い末弟は小さな掌で夜に溶け込む長兄の髪をぺたぺたと(つたな)い手付きで撫で摩る。規則的な寝息を立てて起きる気配はない。レーニティアは今日も帰って来なかった。朝に帰ってきてまた仕事に行ってしまう。相手はまたカーバス祠官学校の生徒だった。この生徒は他の客よりはレーニティアを丁重に扱うがひとつひとつの営みが長く、粘着質で執拗だった。兄には見せられない。報せにくるカラスを追い払うしかなかった。まだデュミルの小さな頭の中では父親のような青年の責め苦は続いている。一向に清楚で品のいい顔立ちをした少年の意に沿うことをレーニティアは口にしなかった。膝を外に向けて開き、がくがくと震える姿は卑しく、淫らな感じを助長させていた。噛み締めた唇は唾液に濡れ、顎まで滴っていた。デュミルは溜息を吐いた。服を引っ張り、兄は末弟を胸元に閉じ込める。頬擦りし、鼻を啜る。抱き締める力は強くデュミルは息苦しさにシーツを蹴った。意識の底で保護者の名を口にする。デュミルの目の裏に映るその青年をまるで呪うかのようだった。兄は大きな恋人の姿など見えていないはずだというのに。  カーバス祠官学校の少年は頑なに言葉を発しないレーニティアに感心して根元を(いまし)めるゴムチューブを解いた。長時間立ち続けた膝は律動を変え、その膝の振動が腰に移ったように波打った。シリコンホールを貫く彼の性器が踊る。床に白色を帯びた液体が散った。毎日朝の客に自慰を強いられた時よりも量は少なく色も薄かった。目隠しが外される。少年はそこにあるはずの翠色の双眸を覗き込んだ。  そういうところも素敵です。とても…  拘束が外されていく。しかし敏感になっている器官を刺激し続ける器具は止まらず、レーニティアは上半身ごと痙攣させた。少年はまだわずかに成長の余地を残す上肢で青年に抱き着く。汗ばんだ肌に落ち着いた日に焼けていない肌が合わさる。  結婚しましょう?もう僕以外とこんなことしなくて済むんです。子供たちの面倒も看られます。僕と結婚してください。 『ぁ……ア、ァァ…あ…』  ごめんなさい、切り忘れてた。  少年は街外れの浮浪者たちにも向ける等しい穏やかな微笑をみせ、レーニティアを苦痛から救う。顎から滴る雫を彼の噛み傷や逆剥けだらけの唇のまで舐め上げる。  3人いらっしゃるんでしたか。大丈夫です、安心してください。みんな引き取ります。5人で暮らしましょう?と言っても僕は学校があるので、2日程度しか帰って来られませんが、すぐに卒業しますから…  レーニティアは蕩けた表情でどこかを見つめていた。少年は彼をベッドに押し倒す。激しい口付けで息を奪われる。 「レニー…」  兄の寝言にデュミルの意識は窓の月明かりだけが頼りの部屋に戻ってくる。そこにはタイルアートも金色の額縁に飾られた絵画も、シャンデリアも、3人で寝られそうな大きさの天蓋ベッドもない。室内に人工的な小川まで通り、ベッドエリアとリビングエリアを区分していた。だが淡い夢のようなものだった。目の前にある閉ざされた目から涙が落ちる。そのまま寂しげな夢に浸らせておくか、呼ばれた者のいない夜に引き戻すかデュミルには判断がつかなかった。黒い頭を撫でる。日が登れば立場は入れ替わる。このまま家族の温もりに溶けていくつもりだった。しかし観光地の高級ホテルの光景とはまた別の声が降り、デュミルの目は冴えた。力の緩んだ腕をゆっくりと抜け出し、空いた兄の胸元に枕を詰める。足音を殺し孤児院を出る。カラスはいなかった。夜風が防風林を鳴らし、月の光によってその奥の海原は煌めいていた。大きな道路を渡りアスファルトの小石が転がる。ブルーシートに覆われた大聖堂跡で足を止める。カラスがぞろぞろとデュミルの周りを埋め尽くす。ブルーシートをくぐり瓦礫の山を見上げた。人影が見えた。星空を背景に長い髪が泳いでいる。杖が物音を立てる。 「危なくないの」  デュミルは問う。杖をつきながらその者は瓦礫を降りる。隈の濃い青褪めた顔と乾涸びた手に握られた杖は州知事の他にいなかった。 「お礼言ってなかった。ありがと」  すれ違うようにデュミルが瓦礫と瓦礫の狭間に入っていく。中は暗く手元も分からなかった。高級ホテルの情事とすり替えられた鮮明な視界によって迷うことなく躊躇いもなくデュミルは瓦礫の中を探す。膝をついてかなり狭い場所に潜り、手を伸ばす。ガラス片で指の腹を切る。目的の物はすぐに見つかった。デュミルの中指の先から肘に掛けての長さより少しある大きさの聖剣で、粉塵を重く被っていた。咳き込みながら拾い上げる。胸に抱いた瞬間、その近くに転がっている翠色のガラス玉に気付いた。内側から胸を何度も殴打し、頭を振り回されるような霊感に襲われそれを拾わないではいられなかった。懐かしいが思い出せない。頭の中を掻き回した後引き摺り出されるような頭痛を伴う。シーツの下で兄が泣いていたようにデュミルの目からも涙が溢れた。しかしその理由は思い出せない。瓦礫の下を這い出て、まだ儚げに立っている州知事に汚れた聖剣を渡す。杖の男は枝のような指を粉塵に覆われた聖剣に伸ばしたが触れる前に止まってしまった。大聖堂に祀られていた聖遺物だ。信仰のある者ならまず気安く触ろうとしない。州知事は信仰どころか深く本尊と関わりがある。デュミルはさらに聖剣を州知事へ近付けた。だが枝と見紛う手は受け取ろうとしない。震えていた。 「おれにあの人、(ころ)せって言うの」  デュミルは苦笑する。片手で弄んだ翠玉にまた新たな感慨を植え付けられる。指で転がし、掌に落とす。 「アンタの恋人のクローンみたいなもんなんだっけ……」  州知事は頷いた。頷いたまま頭を上げることもなかった。 「ひでぇよな」  聖剣は受取手を失い、デュミルは価値も分からない古びた短剣を抱き締め帰路につく。孤児院の宿舎には遮光カーテン越しに明かりが点いていた。庭にいるカラスがデュミルを包み聖剣は黒い羽根を残し彼の腕の中から消えた。玄関を開ける。待ち構えていたディレックの顔を見上げるなり乾いた音をたて頬に衝撃が走った。 「夜に1人で外に出るなってオレ、何度も言ったよな」  兄は尻餅をついた末弟の真前で屈んだ。 「ごめん…どしてもおそとであそびたかったの」  張られた頬に掌を当てる。兄はこの頃不安定だ。こうなることは彼の胸元から抜け出た時に想定していた。 「…ごめんな」  疼く頬をディレックは撫でた。そして汚れた服を脱がせていく。 「ごめんな。叩いて、ごめん。明日外で遊ぼうな。ずっと閉じ込めててほんと、悪かった」  兄は紅い瞳を大きく潤ませながらデュミルの身体を濡れたタオルで拭いていった。照明を浴びて白く光る黒い髪にデュミルは青い目を見開いた。心地良さすらある頭痛が懐かしさを連れてくる。誰かの顔を思い出せそうで、思い出せない。海で遊んだ記憶がある。ここから毎日見られるような海ではなく、浜辺で。しかし思い描けるのはそこまでだった。いつの光景だかも思い出せない。ただ共にいた黒い髪の持ち主に対する燃え上がるような想いがした。  幻夢(そいつ)(コロ)セ…  パンツだけ履いた姿でデュミルは兄に抱き付いた。 ◇  ガラス張りの部屋から銀髪と浅黒い肌が見え、キュアッドリーは教科書や筆記用具が置かれたテーブルの前から離れた。"先生"も数分前からもういない。エレベーターに駆け込んで受付に行く。探していた銀髪の青年はロビーのソファーに座っていた。対面には"先生"が複雑な顔で話を聞いていた。兄や弟の身に何かあったのではないかとキュアッドリーは一瞬、呼吸を乱した。女の銀髪が横に揺れる。青年の銀髪が沈む。重苦しくなった。何の話をしているのか知りたくて仕方がない。受付カウンターまで忍び寄り、それでもまだ会話は聞こえなかった。それでも耳を澄ましていた。足音もなく、背後から回った冷たい手が両側からキュアッドリーの頬に触れた。ある程度の柔らかさだけで、木の肌のようだった。同じような質感の枝とそう変わらない指が円い子供の顔を包む。怪物だ。"先生"の結婚相手の姿が蘇る。若い女の血肉を啜り生きているその様は絵本に描かれた魔憑きの女そのものだった。驚きと恐怖のあまり声を上げてしまう。自分の悲鳴で失態に気付き、棒切れのような腕を振り解こうとしながらキュアッドリーは口を押さえた。"先生"の深い溜息が聞こえた。 「キュディ?」  レーニティアが振り返った。キュアッドリーは魔憑きの女の化身から離れることも忘れた。どういった態度で会っていいものか分からなかった。遠目で見ているつもりで、会うつもりなどなかった。逃げてしまいそうな身体を魔憑きの女を彷彿させる男が支え、応対ソファーの前まで突き出した。 「元気にしているのか」  そう穏やかに笑みを浮かべて訊ねる彼は見るからに疲弊している。 「う、うん…」  毎日厳しく扱かれてますって正直に言ってやれよ。  銀髪の女が軽口を叩いた。キュアッドリーは笑って誤魔化す。テーブルの上には書類が並べられていた。 「ディルたちに、何かあったの…?」  優しい保護者の温和な表情が強張った。銀髪の女は眼鏡のブリッジを押す。 「何もない。2人とも元気だ」  キュアッドリーは眼鏡の奥の緑色を確認した。彼女はキュアッドリーを一瞥してから目を逸らす。 「じゃあ、どうして…」  話はここでお終いだ。お前も、問題は解けたのか。  銀髪の女はレーニティアの前に出された書類を片付けてしまう。保護者はまだ引き攣った微笑を浮かべている。 「本当に何もないの?大丈夫だよね?」  温かい肩に触れた。思っていたよりも肉感のすぐ奥に骨の固さがあった。首筋には(おびただ)しい数の虫刺されに似た痕が目立った。それがただの虫刺されや気触(かぶ)れではないような気がしてキュアッドリーは言葉を失う。 「2人は元気にやっている。だから心配しなくていい。今は自分のことだけ考えてくれ」  肩に触れているキュアッドリーの手を剥がされ、温かい手の中で握り直される。白い花の中で眠る姿をふと思い出してキュアッドリーはレーニティアにしがみつく。温かい大きな腕が子供の背にも回る。 「いつでも戻ってきていいんだからな」 「ううん、まだ戻らない」 「そうか。キュディが学びたいことを学べるよう、俺も応援しているからな」  大きな手や温かい腕の感触にキュアッドリーは目を閉じた。レーニティアの匂いと家族の匂いがする。痩せた感じはあるがキュアッドリーの出会った誰よりも逞しい腕の中で溶けてしまいそうになる。これ以上の接触はただ家族が恋しくなる一方で、キュアッドリーは居心地のいい場所から抜け出した。 「ディルとデュンによろしくね」 「分かった」  銀髪の女と何を話していたのか気になったがキュアッドリーは最上階に戻る。魔憑きの女が化けているに違いない不気味な男も杖をつきながらキュアッドリーについてきた。最上階に着くまで不気味な男は、骨の浮き出た手の甲で少しずつ活気を持ってきた少年の頬の弾力で遊んだり、若々しい艶を取り戻した茶髪の中に埋まる耳を撫でたり、飽きもせず梳いたりしていた。魔憑きの女が黒い猫と戯れるように。  最上階に着きキュアッドリーは円形の部屋の隅にある煤けた金色のソファーに座った。不気味な男もすぐ隣に座った。横から頭を抱かれ、痩せきった空洞のような身体に倒れてしまう。手櫛で頼りなく梳いたばかりの髪を今度は揉み込むようにして乱す。不審な男の挙動にキュアッドリーは固まった。男は色の悪い(ひび)割れた唇で何か言ったが息が抜けるだけで声は聞こえない。 「レニー、何の話してたのかな」  外貌は不気味だがその手付きは繊細だった。口にしてしまってから気を許したりなどすればこの後部屋の奥に連れ込まれ血肉を啜られるのだと思い出す。 「やっぱ…何でもない…」  肉感も温かさも親しんだ匂いもないがただその甘やかな手付きにキュアッドリーはすべて委ねたくなった。骨張った肩を押して距離を作る。ペンを握った。指定された範囲を終えなければ怒られてしまうかも知れない。テーブルが低く背中や腰を痛めるため問題を解く時はソファーを降りて床に膝を付ける。教えられたとおりに問題を解いているうちに"先生"は戻ってきた。一言謝って彼女はソファーではなくキュアッドリーと目線を合わせ、床に膝をついた。  知事も会われますか。まだロビーに居るかと。  レンズの奥で緑色の眼差しが鋭くなる。"先生"と"知事"の間には誰かが介入しなければならないような気がしてキュアッドリーは少し寒くなった。  そうですか。  真後ろにいる気味の悪い男を振り向けなかったが、彼は首を振ったようだった。女は低い声で応え、キュアッドリーが向かっている教科書の説明を始めた。しかしどうにも頭に入らなかった。レーニティアと何を話していたのか。"先生"の表情から読み取れはしないかと淡い期待を抱く前に興味と衝動がキュアッドリーの顔を上げさせた。彼女もまたキュアッドリーを真正面から捉え、視線がぶつかると双つの緑色がわずかに細まった。  カーバス祠官学校にお前の兄ちゃんを入れたいって話だよ。  女はレーニティアよりも黒みのある銀髪を乱暴に掻いた。 「それ…で…?」  無理だ。学費も揃った、時期外れでも推薦書はある。制服なんぞ学校側(むこう)で貸与される。でもな…無理だ。 「どうして?」  女の眉が歪んだ。怒りとも呆れとも糊塗(こと)とも違う、何か優しさと同時にそれに抗うような険しさを秘めていた。  お前等には届出が無い。あの兄ちゃんにもだ。  背後から伸びた手が頭に乗った。まだよく分からないでいた。今からでも(とどけ)を出せばいい。その発想が頭の良さそうな"先生"にはないのか。 「じゃあ…」  カーバス祠官学校に入れたきゃ誰かの養子になるしかない。でも離れたくないんだよな?  "先生"は眼鏡を上げると唸りながら顔面を揉んだ。  お前、あたしの養子になるか。2人ならどこか引き取ってくれる里親(いえ)があるかも知れない。近場で探しゃ或いは離れ離れなんてこともなくなる。明日帰してやるから、よく話して来い。 「ぼく…」  兄が憧れのカーバス祠官学校に入れるかも知れない。"先生"は不器用ながらも慣れてくると優しい人だ。兄のこだわりには反する点を除けばキュアッドリーには概ね満足な内容だった。 「でも、レニーは…」  銀色の眉が落ちた。メロン味の飴に似た目も伴う。そして泳いだ。  同じ話をあの兄ちゃんにした。大切なのはお前等の未来だそうだ。あの兄ちゃんは自分でどうにか生きていくと…1人なら生きていけないでもない。 「でも、レニーがぼく等居なくても大丈夫でも、ディルは…それに、デュンだってまだ……でも、レニーは、やっぱ、3人も育てるの、やっぱ…」  大変だな。ずっと長いことやれる仕事でもない。そろそろ限界を感じたんだろう。無いとは思うが恨みなんて思うなよ。むしろここまでよくやった。  銀髪の女はキュアッドリーの言葉を引き取って淡々と答えた。 「や、やだ!ぼく、ぼく、みんながちゃんと家に居るから、ここに居られるんだよ!ディルもデュンもレニーも一緒じゃないなら離れてなんか居られないよ!」  爆発的に生まれた感情は行き場を失い叫んでいた。しかしこの主張の延長に、棺の中で眠るレーニティアによく似た青年の光景があるのではないかとキュアッドリーの頭は計算を始めてしまう。高い天井に木霊する。不本意な感情の放出と言語化したことによる反動が一挙に押し寄せる。目蓋に留めておけない涙が溢れ声を上げて泣いた。 「わがまま言っちゃいけないのに、いやだよ、離れたくないよ。ぼくはお兄ちゃんだからわがまま言っちゃいけないのに、ぼくだってみんなと居たかったよ、レニー頑張ってるからこんなこと言っちゃダメなのになんでおうちにはお金ないの、なんで…レニーは大人だから、ぼく等が居なくても平気なんだ…良い子にしてたつもりなのに、ぼく、良い子にしてたはずなのに、」  分かっている部分と抑えられない部分が折り合わない。銀髪の女は冷めた表情でキュアッドリーを見つめ、後ろから伸びる乾燥した手が涙や鼻水を厭わず拭っていく。痩せ細った身体の防寒用に巻いていたらしい襟巻きも惜しげなく差し出してキュアッドリーの鼻や目元を弱く擦る。レーニティアの幸福と兄と弟の幸福が両立しない。それが遣る瀬なかった。そして自分はぬくぬくと食うにも着るにも困らず学びがあり、意外にも面倒看のいい"先生"に生活を保障までしてもらおうというのだ。罪悪感に打ちのめされる。濁った青い目が目の前に迫り、柔らかな襟巻きの素材が涙を取り除く。胸が弾んで喉が痛んだ。テーブルの向こうでスーツの擦れる音がしてキュアッドリーは自分だけの世界を破ってしまう。 「ごめん…」  銀髪の女は真横のガラス張りから下に広がる水のオブジェを宛てもなく見ていた。かといって話を聞いていないわけでもないようだった。共にいてそう長くはないが時折彼女はまったく関係のないところを見る。そのたびに"先生"が抱えた孤独や分かりづらい気遣い、静かな困惑を感じていた。 「わがまま言って、ごめん…」  内臓の入ってなさそうな硬い腕に抱擁される。背中を撫で回す手も平坦な感じがあった。細く脆そうな肩にキュアッドリーは顎を乗せる。キュアッドリーの肩にもわずかな重みが乗る。乱れた呼吸が耳元で聞こえた。不気味な男は何か言っているらしかったが息吹ばかりで声も聞こえなかった。"先生"は何も答えず、代わりに不気味な男の抱擁が強まった。ヒールの音がして女は立ち上がった。キュアッドリーは追おうとしたが気味の悪い男はこの子供を離さなかった。  少し席を外す。  ヒールが鳴って止まった。女はそう言ってまた足音を立てた。 ◇  女の手で背を押されキュアッドリーがやって来る。ディレックは思わず睨んでしまった。末弟はその服を掴んで首を振って、久々に会う次兄へ駆け寄った。 「げんきにしとっと?」 「うん。デュンは?ちょっとだけ背が伸びたかな」  キュアッドリーはデュミルを抱き上げかけたが重かったのか持ち上がらなかった。その光景をディレックは他人事のように見ていた。背が伸びたのはデュミルだけではなく、長弟もまた少し背が伸びている感じがあった。 「その…ただいま、ディレック」 「…おかえり」  キュアッドリーの自宅でもあるはずだというのにこの弟は遠慮がちで、それがディレックを漠然とした不安に(おと)す。  ピザとバンズホットサンド頼んだから食えよ。  州局勤めの女はディレックに念を押すように言った。 「ありがと」  デュミルがキュアッドリーの服を摘んだまま女を見上げて礼を言う。豊かな栗色の髪へ返事代わりに置かれた浅黒い手はディレックから見て持主の印象に反し優しいものだった。  ちゃんと話せるな。  女はそれからキュアッドリーの耳元に腰を屈めた。長弟は緊張しながらも頷いた。  デカい兄ちゃんはどうした。  長弟の頭も大人の手が撫でていく。ディレックは目を逸らしたが、キュアッドリーを連れてきた女はもう帰りそうな雰囲気を十分に醸しながらレーニティアのことについて訊ねた。 「ちょっと、その…仕事だよ」  レーニティアの毛よりも黒みがかった眉が寄った。彼女は「そうか」と言って、「よろしく言っておいてくれ」と付け加え帰っていった。駐車場のほうに曲がり女はディレックの視界から消えた。レーニティアは仕事だ。忘れているはずはない。キュアッドリーが帰ってきて大事な話をすると言ったのは紛れもなくあの保護者だった。キュアッドリーとデュミルはもう定位置の席に座っていた。ただディレック自身とレーニティアの席が空いている。やがて州局勤めの女が言っていたピザやバンズホットサンドのセットが届いた。食卓が品物で埋められる。約束の時間を大きく越えてレーニティアは帰ってきた。隣に誰かいる。ディレックより少し年上の、艶やかな黒髪を持った紅い瞳の少年だった。品の良い顔立ちには見覚えがあった。ディレックが会った時にはカーバス祠官学校の制服を着ていた。彼は真っ赤な薔薇の花束を抱えて額や肩、胸へ順に手を翳してからレーニティアに促されて中へ入った。  こんにちは。エイジスと申します。これから… 「ちょっと、ちょっと待ってくれ」  エイジスと名乗った15か16歳頃の少年の言葉はレーニティアによって止められる。保護者の翠色の目は泳ぎ、反対にエイジスと名乗った少年は温和に微笑むだけだった。今日はカーバス祠官学校の制服ではない少年の腕からレーニティアは薔薇の花束を預かってキッチンスペースの水場に置いた。ディレックはシンクの前にいる保護者に触れた。 「何、どうなってんの」  口調が尖る。翠色の瞳は泳ぐばかりでディレックの顔を落ち着いて見もしなかった。 「レニー」  彼の連れてきた人物はすでにキュアッドリーとデュミルに親しげに話しかけていた。長弟は気を遣って椅子まで持ち出して客人を座らせた。 「とりあえず座ろう。落ち着くんだ。州局の人がご馳走してくれたのか?まずは腹に何か入れて…」  激しい動揺に同調してしまう。レーニティアは何か焦っていた。ディレックも背後のテーブルにいる少年の存在に胸を掻き乱された。レーニティアは薔薇の花束を整えていた指を突然引いた。銀色の輪が薬指に嵌っている。 「触るなよ」  ディレックは一点輝きを持った左手を奪い取ろうとした。レーニティアはその指を舐めながらディレックを制し、その脇を通り抜けた。目の前が真っ暗になる。下2人に慣れない声の混ざった会話が遠くに聞こえる。鼻には保護者の匂いが纏わり付き、頭の中は真っ白だった。間もなく花瓶を持ったレーニティアが戻ってくる。 「触ってないよな。トゲがまだ少し残ってた。怪我してないか」  ディレックは幾度か頷いた。レーニティアが拒絶を意図して「触るな」などと言ったことはない。砕けた窓ガラスや毒虫や生傷、衛生的に問題があるなどの条件下でしか彼はそのようなことは言わない。呼吸が戻ったような気がした。2つの花瓶に分けて薔薇を挿すその左手の薬指には輪が嵌っている。それが何を意味するのかディレックには分かるようで分からなかった。理解したくない。 「レニー…」 「奥の窓に飾ってくれるか」  保護者は困惑ぎみに笑った。入ってすぐの大部屋の片隅の窓に花瓶を置けるスペースがある。ただそこはほぼ駐車場からしか見えず、日常的にはそこまで目に入らない場所だった。ディレックは花瓶を受け取って指示された窓に置いた。そこから見える駐車場にはまだ州局勤めの女が居た。ディレックには気付かないようで車の横で耳に黒光りする機械を当て1人で喋っていた。この空間に居るくらいなら長弟が世話になっている気心の合わない女のところに居るほうがよかった。それでもディレックはテーブルに戻った。キュアッドリーもデュミルも目新しい客人にもう馴染んでいた。特にデュミルは興味を示している。この訪問者は2人の兄よりも口煩くなさそうだった。何かと口を出され干渉される末弟には心地が良いのかも知れない。レーニティアもすでに定位置に居た。全員が揃うと彼は立った。 「キュアッドリー、今日は来てくれてありがとう。大事な話があって、戻ってきてもらったんだ」  キュアッドリーは来た時の強張りが来客によって解れていたが、レーニティアの言葉にまた緊迫感を取り戻す。 「レニー…」  長弟は掠れた声でレーニティアを見ていた。ディレックは顔を顰める。何かただならない空気が漂っている。 「単刀直入に言って…」  レーニティアさんから言えない僕から申し上げます。  レーニティアの表情も固まる。それを来客は了承や合意と解釈したらしかった。  このたび、レーニティアさんと結婚させていただくことになりました。僕はみんなのお義父(とう)さんになります。急で驚かれるとは思いますが、どうか仲良くしてください。  エイジスと名乗った少年は喋り慣れたふうで滑らかに言った。キュアッドリーは肩を震わせて泣き始める。デュミルはぼんやりしながらフライドポテトを口に詰めた。長弟の嗚咽が沈黙の中で聞こえた。ディレックはというともう心臓が動いていない心地がしていた。レーニティアは俯いて誰とも目を合わそうともせず、強く握り締めて震える拳がテーブルに置かれる。 「ぼくは、…それでも、そうじゃないと、引き離されるって聞いてたから、…」  キュアッドリーは涙を拭きながら口が溶けたように話した。引き離される。この単語にディレックは反応してしまう。

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